第二章 僕は透明人間#1
「触るな、クソババア」
「何なの素の口の利き方。濡れた服は脱ぎずらいのよ」
「いらねぇし」
母親が服を脱がそうと、手を伸ばし、それを汚い言葉で阻止した努がドアを勢いよく占める瞬間へ、出くわした俺は躰を強張らせる。
洗面台、無数に付けらた痣が鏡に映る。
浴室に入り、鍵をかけた努は、シャワーを勢いよく出す。
膝と肘の傷がひりひりと沁み、顔を顰める。
4時間目の体育の時間に、裕太に体当りされて出来た傷だった。
「おお、凄い傷だな。名誉の負傷ってやつか?」
努は、ハッとなる。
俺の存在をすっかり忘れているようだった
怯えきった目が、やけに楽しくなった俺の顔が、フニャフニャになって行く。
「その傷じゃ、触られると叫びたくもなるか」
嫌味な言い方に、ムッとした努が睨む。
「努、ちゃんと洗えている」
「うん、ありがとう。さっきはママごめん。言い過ぎた」
きょとんとしている努をおもしろがるように、俺は長い尻尾を揺らし、ドアに向かって尚も続ける。
「びっくりしっちゃった。まさか努があんな言葉を使うなんて思わなかったから」
「俺も年頃だから恥ずかしいんだよ」
努が目を瞠る。
それがおかしくておかしくて堪らなかった。
「変なことを言うわね。何か学校であったの?」
「うん。友達と喧嘩した」
「誰と?」
シャワーを放り出した努が慌てて、俺の口を塞ぎに入る。
俺は、努の手を引っ掻く。
「痛っ」
「どうかしたの?」
努から解放された俺はドアに向かい、続きを話そうとするが、再び口を塞がれてしまう。
「もう出たいからあっちに行って」
「でも」
「良いから早くっ」
強い口調で言われ、母親が渋々と出て行く。
それを細くドアを開けて確認してから、努は猫をぎろりと睨む。
さっと、隙を狙って、俺はその隙間を潜り抜ける。
「ママ―、トキをお願い」
俺の声色を着て、努は慌ててドアを閉める。
やれやれ。そうと傷は深いなぁ。
そばを離れがたかった母親はすぐにドアを開け、びしょ濡れの躰を拭きにかかる。
ここで瞬き一度して、尻尾を左へ3回転すればこの母親共に、時間をさかのぼれる。がしかし、いろいろと思案を巡らせた俺は、おとなしく抱かれきっちへと運ばれていく。
さらにたっぷりの牛乳が注がれ、前へ差し出される。
物珍しさに、俺は鼻をクンクンとさせる。
母親はテーブルにつき、頭を抱え込んでしまっていた。
これは俺の勘でしか過ぎない。
のそのそと入ってきた努を一瞥した俺は、チョロチョロと舌を出し、盛大な音を立てながら皿の中のものを平らげ始める。
努の時間の扉は、自分自身で開かなければ、何の役にも立たない。なぁそうだろう。天の声さんよ。
頭上には相変わらず、うっそうと茂る緑と、合間を縫って降り注ぐ日差しが、広がるばかりである。




