プロローグ#4
「誰?」
その声にそっと顔をあげると、カーテンが閉ざされた窓辺にいることに俺は気が付く。
「ねぇ、そこに誰かいるの?」
えっと。この先どうすればいいのか、俺は全く考えついていなかった。おそらく、あのぐちゃぐちゃになってしまっていた、その当たりの時間へ戻って来たとは思うのだが……、うーん正直困った、なんせ、初めての仕事で、補正と言われても、どうやったらいいのか分からん。とりあえず、何でもいいから行動しなきゃだと思うんだが、慣れないことをしたせいで躰がだるく、面倒に思えて、どうでもいいやって気持ちになる。
そもそも、俺が何でこんなことをしにゃぁならんの? 辞め辞め。どうせ猫の姿になったんだ。お気楽に生きりゃいんだ。己を知らなくたって、何とかなる。こんなガキが一人や二人いなくなったって、何も困らんだろうし。
一度立ち上がった俺は大きな欠伸を一つすると、また躰を丸めその場で眠りに就こうとしていた。
ガサガサという物音に反応して、俺の耳が勝手に動き出す。
面倒な俺は片目だけ開け、状況確認をする。
薄暗い部屋で、努が背中を丸め何かをしているようだった。時折鼻をすする音が妙に気になって、俺は忍び足で近づいていった。
月明かりに照らされた机の上で、ノートを開いたまま泣いているのだが、俺は努に気が付かれないように慎重に手元を覗き込む。
「遺書」
ご丁寧に国語辞書を使って、漢字で書くあたりが、俺にはおかしくて仕方なかった。
つい声をあげて笑ってしまい、しまったと口を押さえた時には、すっかり努が俺の姿を捕えて、ポカーンと口を開けてみていた。
「誰?」
やっぱりこいつ、アホすぎる。猫に向かって、誰って聞いて来るなんて。
すっかり笑いのツボにはまってしまった俺は、どうにもおかしくって笑いが止まらなくなってしまう。
「何がそんなにおかしいの?」
「だってお前、ヒャヒャヒャ、聞くか? 聞かんよな。俺様は猫だぞ。猫に、ヒャヒャヒャ、誰って」
腹を出して笑い転げる俺を見ている努の目が、明らかに恐怖に満ちているのをやっと気が付いた俺は、少しいたずらをしたくなった。よく見ると躰が小刻みに揺れている。俺の目は垂れさがり、ここぞとばかり大きな口を開けとびかかる真似ごとをしようとして、ふと、脳裏に電撃が走った前回の例があったことを思い出す。
振り上げてしまった手のやり場がなくなってしまった俺は、バランスを崩し床へと落ちてしまう。
そこは猫。
着地はお手の物。
少し得意になった俺が見上げると、努はというと、腰を抜かしてしまったらしく、イスから転げ落ち口をパクパクさせていた。
ああそうですね。そのリアクション、確かに間違っちゃいないけどよ~。
やれやれと首を振りながら近づいていった俺は、努の胸元へ這いあがり、目を見つめる。
何となく、そうすることが一番のような気がしただけだが、声にならなかった努が喋ったあたりからして、あながち方法として間違ってはいなかったってわけだ。
「ねねねねね、猫が喋った。ばばばばば化け猫。く、来るな」
「ああそこからなのね。このくだり、実は二回目なんだよね。覚えてないってことか? それとも恍けてんの?」
「ウワぁ~離れろ」
どうやら配線、間違っちゃったみたいだな。どうスッかなぁ。このまま進めちまうか。
払いのけられた俺は、遠目で怯えきっている努を見やりながら、思案を始める。
あんな下らんもん、破かせて、何もなかったことにしてしまえば、この仕事は終了する。楽勝じゃないの、この仕事。
にんまりとした俺は、そろそろと努に近寄り、遺書を捨てさせる算段を踏む。
「俺は地獄の閻魔大王の使いのもの。お前のようなもの、受け入れられん、あんな下らんものを捨て、死ぬことをあきらめるがよい」
喉が痛くなるギリギリの低さで言った俺は、その出来栄えに満足して鼻を一回鳴らし、努を見つめる。
「ふざけんな。僕の意思は固いんだ。化け猫が嘘を吐くな」
嘘だと。生意気な。今にも死にそうな顔をしたこんなガキに俺が、この俺がバカにされている。我慢できん。
「お前だけには言われたくねぇんだよ。この腰抜け野郎」
「僕は腰抜けなんかじゃない」
「はぁ? じゃあお聞きしますけど、この前がぬれているのは何なんでしょうねぇ。大体、クソガキが死ぬなんて10万年はぇーんだよ」
「早いとか遅いとかそんなの関係ない。僕は人より早く、そう少しだけ早く終了させるだけ。化け猫に文句言われる筋合いはない」
「ところがぎちょんちょんあんだよ。おめぇが勝手なことをするとな、あの世に本当に向かわなくてはならん奴が、グダグダと長い列に並んで何十年、いやいやあの長さじゃあもしかして何千年も待たされてしまうかもな。とにかく、お前のこの世との契約書では、寿命は先のまた先。勝手に契約不履行されてもこちら側のものとしても、見過ごせねぇんだよ」
「そんなことを言われたって、もう僕の居場所なんて、どこにもないんだ。僕一人がいなくなったって、泣いてくれる人もいないだろうし、僕は悪くない。悪いのはあいつらだ。この前の事件だってそうだ。先生もママもパパも、みんなみんな何にも知らないくせして」
「ああ知らねぇよ。お前みたいに頭の中でごちゃごちゃと考えてばかりで、何も話そうとしない奴の心の中身、どうやって知ればいいんだよ。お前、一度だって、そのことを親に言ったのか? 言ってねーよな」
「言ったって、大人は全部敵さ。先生だって気が付いているのに知らん顔をしてるし、ママだって、きっと忠志のママとすごく仲が良いから、何も言えないし、何もできない。だから僕が行動を起こすしかないんだ」
「はぁ? それで自殺ですか? もうこの世に未練はありませんってか? そんな奴がいっぱい、三途の川を汚しやがっているんだ。お前さ、ふざけんのも大概にしろよ。この世のすべてのものに生は与えられているんだ。順当に全うした奴から浄化されて、また生まれ変わる。そういうシステムになっているんだ。それを思えたちのような自分勝手なやつが列を乱すから、おかしな具合になって、俺みてーなのが、こんな面倒なことしなきゃならなくなるんだ」
一気にしゃべったおかげで、俺は酸欠を起こし、頭がクラクラとして来てしまっていた。
努の様子を見ている余裕もなく、ぐるぐるとまわる木漏れ日がまた頭上で回り始めていた。




