エピローグ#5
白い雪が、後から後から、目へ落ちて来るのを、リサは身動きせずに受け止めていた。
もうすぐ、命の炎が燃え尽きようとしているのだ。
くだらない人生だったと、今更ながら思う。
それでも一つだけ、リサには宝物があった。
耳を澄ましてみる。
あなたは私のことなんて知らない。
あなたのささやきに心躍らせ、恋を味わう。
いつかきっとなんて、勝手に思い描く二人の時間。
季節が巡り巡って行く。
あなたは私を知らない。
私もあなたの全てを知っているわけではない。
どうしようもなく、泣きたくなる。
あなたのために泣きたい。
この涙が、何の効力を持たないこと、分っている。
けど、私は知っている。
あなたの言葉に、囁きに、心救われた人がいること。
繁華街。大人たちが顔を顰め私を見る。
親から見放され、髪は痛み、肌だってボロボロになった私は、あてどもなくこの街を彷徨い歩く。
行き当たりばったりの愛。
躰だけが熱く火照る。
わざと爪を立て、背中に傷を残す。
わずかに残る私の理性が起こす、反撃。
夜に舞う蝶より、私は猫でありたい。
そう思っていたのに……。
背広姿、あなたは忙しそうにこの街を通り過ぎて行く。
名前も何も知らないあなた。
捨て猫のように街角で眠る私を見つけ、微笑む。
「大丈夫?」
大丈夫なんかじゃない。
睨みつける私に、少し困った表情にあなたが言う。
「女の子が、こんな所で寝てちゃだめだよ」
帰る場所がないんだから、仕方がない。
何でもない言葉。それがどんなに酷だってこと、あなたは知らないでしょ。
遠くで誰かに呼ばれ、優しい瞳がそちらへ向けられる。
「これ、良かったら使って。ちゃんと家に帰るんだよ」
皺くちゃのお札に目を落とす。
ばかじゃん。こんなの貰ったって、遊びに使っちゃうに決まっているのに。中途半端の優しさなんかいらない。この金で、私を買ってよ。
立ち去って行くあなたの背に、私は呟く。
こんな人生ならいらない。
どうにでもなってしまえ。
勧められるまま、私は落ちて行く落ちて行く。
廃人の目に、あなたの姿はもう見つけられない。
紫煙が上る天井。
誰かの手が私を弄る。
これがあなただったらいいのに。
目尻に皺をよせ、あなたはどこまでもやさしく言うの。
「もう、こんな暮らしは止せよ」って。
リサ……リサ……。
もう一度、あなたに会えたなら、私は変われる気がしていた。
リサ……。しっかりして。
薄れて行く意識。
誰? 私を呼ぶのは……。
そう。私はずっと自由に生きてみたかった。
こんなお金、使えるはずないじゃない。
新聞の片隅にさえ載らない、私のちっぽけな人生。ましてやあなたの記憶に残っているはずない私の存在。
私は夜に舞う蝶よりは、猫の方が良い。
暗闇の中でも、迷わないように道を照らす真っ白な猫。
時間にすれば数分にしかならない出来事だったが、寒々としていたリサの心を、温かさで包み込んでくれたのだった。
酷使してしまった躰に、寒さがこたえる。
深々と冷える中、リサは気にもたれかかりながら、恨めしく空から舞ってくるものを睨みつけていた。
「お嬢さん」
誰かがリサに話しかける。
しかし、もうリサに答える気力は残っていなかった。
「もし、大丈夫ですか?」
顔がはっきりと見えない相手の声は、明るく穏やかなものだった。
「お困りのようだが、私の頼みを一つ、聞いて頂けるのなら、お手をお貸ししましょう」
くだらない冗談を言う声に、リサは怒る気にもなれず、口元を緩める。
「あなたにしか出来ないこと、してみませんか?」
「私にしか出来ないこと?」
それが、私の第二の人生の始まりだった。
あなたの祈りが、私の耳に届く。
何かを得るには何かを失う。
さんざん迷って私は、あなたの祈りを願いを聞き届けることに決めた。
今にも消えてしまいそうな、我が子と自分が変わりたい。
時間を渡り、私はあなたの元へと急ぐ。
だけど、リサにはどうしても越せない時空があった。
そして奇跡は起こった。
両親の真心が、天に届いたのだ。
しかし、それは悲しみの始まりでもある。
何かを得るには、何かを捨てなければならない。
ならば戻せる自分の時間全部と、交換して欲しいと、リサは天の声に頼んだ。
すまなそうな顔をして、天の声は、それはかなわぬ願いだと告げる。
血肉を分け合った者にしか、望めない願い。
リサは悲しみの淵に立たされている誠司の元へ、向かう。
自分にできるささやかなこと。
夢を見させて、誠司の心を覗き込む。
悲しくて悔しくて、妻の心も覗いたリサは愕然となる。
私は夜に舞う蝶よりは、猫の方が良い。
暗闇の中でも、迷わないように道を照らす真っ白な猫。
私の仕事は、誰かさんのねじ曲がってしまった時間を元通りにさせる、時間の修理屋さん。
リサは決心して、誠司の元を離れる。
……リサ、リサしっかりしろ。
気を失い時空に飲み込まれていくリサを、俺は無我夢中で抱き寄せる。
前足で強く蹴り込み、俺はできるだけ高く飛び上がった。




