第三章 友達なんてさ#1
耳の奥、カチカチと微かな音が聞こえ、俺はいっぺんに飛ばされてしまっていた。
朝?
カーテン越しの窓から白い日差しが、まっすぐベッドへと延びているのに気が付いた俺は、大きく躰を伸ばし、努の顔をひと舐めする。
どういうことなのか、俺にはさっぱりわからない。
あの時、リサが見せた顔が、妙に気になる。
本来なら、あそこで母親に事実を明かし、手っ取り早くことを済ませるつもりだった。しかし、リサはそれを邪魔してきた。
その理由を聞く間もなく、俺は元の時間へと引き戻されてしまったのだ。そもそも、リサという人物が、何者なのかだ。
ま、期待はしていないが、つい天を仰ぎ見てしまう。
次の瞬間、努に寝返りを打たれ、俺は床へと振り落される。
少し、急ぐ必要があるようだ。
周りの景色が歪みを生じ始めていた。
俺はやれやれと首を振り、ドアに爪を立て引っ掻き始める。
不便だと思う。壁伝いなら、どこでも自由自在に移動が出来ていた俺なのに、猫の姿に変えられてから、どうもうまくいかない。
見られている気配は、充分背中に感じている。
舌打ちを一回打ち鳴らした俺は、悪たれを吐き始める。
「早くしやがれ。俺様は腹が減って、イライラしてんだ。ほら何をぐずぐずしているんだ。ここを」
ドアが突然開き、俺は咄嗟的に身をひるがえす。
「努、朝よ」
どうやら、母親が起こしにやって来たらしい。
俺は開かれたドアから出て行こうとしていた。
「努、起きているの? だったら早く支度して降りてきなさい」
「行きたくない」
少し怒ったような表情で母親が、努の布団をはぎ取る。
「努、ママを困らせないで。こんなことで学校を休んでいたらきりがないでしょ。先生にしっかりママからお願いしておいたから、あなたは安心して行けばいいのよ」
無理やり支度をさせられた努は、無情にも家から追い出されてしまう。
微力ながら、俺は努の援護へ回ったが、厄介なことに、俺の言葉は努以外には猫の鳴き声としかとらえられないらしい。いくら足元で喚き散らしても、母親に全く相手にされず、俺は鬱陶しがられ、手で追い払われてしまっていた。
……バタンと無情に絞められたドアの前、努は泣きそうになっていた。
玄関前で、蹲っている努を無視し、俺は散歩へ出かけることにした。
これも猫の習性なのだ。仕方がない話である。
耳の奥で、薄情ね。と、リサの声が聞こえたような気がする。
自分にい訳をしながら、俺は気ままな順路を取りながら、あの公園へと向かっていた。
「どこに行くの?」
一瞬、俺は努の存在を忘れてしまっていた。自分が何の目的でここにいるのかもだ。ランドセルの肩ひもをギュッと強く掴んだ努を見やりながら、茫然となる。
どういうことだ?
リサのくすくすと笑う声が聞こえ、俺の耳がピクピク動く。
「何か知っているなら教えろ」
塀に飛び移りながら、俺は見えない相手に問いかける。
「仕方がないわね」
そう言って、リサが目の前に現れる。
「混線しているのよ。次のクライアントからアポが入っているの。この子にかけられる時間はあとそうね、大体37時間程度かしら」
「ちょっと待ってくれよ。こいつのこと、何も解決されていないんだぞ」
「仕方がないわ。この子は不適合者だったのよ」
「ふざけんな。あの時、お前が邪魔さえしなければ」
「あらずいぶんと酷いことを言うのね。だったら聞きますけど、あそこでこの子の無実を証明したところで、何になるの? もしかしたらこの子へのいじめはなくなるかもしれないわ。事実、なくなるでしょう。この目で確かめてきたから間違いないわ。だけど、結局それは新たなターゲットを生み出しただけのこと。分かる? 被害者から加害者へと移り変わったら意味がない」
躰が熱くなってきていた。
反論するための言葉がのど元まで込み上げて来ていた。
しかし、次の瞬間、リサの頬に伝わる物に気が付いた俺は、返す言葉を失ってしまう。
小さく笑ったリサがスッと目の前から消え、努の不安気な瞳が俺を見つめていた。
「仕事」
「僕も行く」
「ダメ。遊びじゃないんだ。仕事って言っただろう。それに努は学校があるじゃないか」
「そんなの行かなくても平気さ」
小走りで努は俺を追いかけてくる。
どうすればいいんだ。お先真っ暗になってしまった俺はもう一度リサを呼び出そうと、意識を高める。
長い尻尾をぴーんと立て先っぽだけをくねらせていく。
「いいからさっさと姿を現せ、生意気娘」
ついブツブツと呟いてしまっていた。
「歌なんか歌っちゃって、猫はいいな」
どうやら努には、それが鼻歌に聞こえたらしい。
猫が良い?
初めて努と出会った日のことを、俺は思い出す。
段ボール箱の中、寒くてひもじくて震えが止まらなかった。自分でどうにかできない事態に、ただ怯えるしかなかった。
俺はフッと笑みを零す。
そういうものかもしれないと、しみじみ思う。
幾つか道を変え、俺は目的地へ辿り着くと、立ち止まり努に葉を見せ笑って見せる。
俺としては、最高のエールを送ったつもりである。
俺ばかり気にして歩いていた努は、学校の前まで来ていることに全く気が付いていなかった。
「どういうこと?」
今にも泣きだしそうな努に、俺は一呼吸置き、答える。
「努は学校、俺様は仕事。空は青で、雲は白。ついでに風が吹けば季節は変わる。そういうことだから……」
「何だよ、それっ」
「分からないのか? ついて来るなってことだよ」
さっと塀によじ登り、じゃあなと言う。
「君、そんなところで何をしてんだ?」
バケツを持った用務員だった。
そこは学校の裏側にある通用口だった。
連れていかれる努を見やりながら、俺は閃いた言葉を口にしてみる。
「自然の摂理か」
大きく深呼吸をし、天を仰ぎ見る。
憎たらしいほど、空は青く澄み切ったまさしく快晴だった。




