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第二章 僕は透明人間#5

 一度明けたドアを閉め、努が俺の顔を覗き込む。 

 どうやら上機嫌で鼻歌を歌い、母親が料理を作っているのが、努にとって信じられない光景のようだ。

 口を開けかけている努を無視して、俺は前足を使いドアを開けると、、中へと入って行く。

 その際、尻尾の先を少しだけ振り、微調整を試みる。


 努を盗み見た俺は、おのずと溜息をもらしてしまう。


 面倒なやつを、天の声は押し付けて来たもんだ。


 やれやれと首を振り、向き直った俺はギョッとなる。

 「そういうことってさ、大ベテランだ口にすることよね」

 いきなり目の前に現れたリサが、当然のようにミルクを美味しそうに舐めていた。

 「何よその顔は? しかし、あんたさ、昔からそうなの?」

 昔の話をされても、俺が知る由もない。逆に、俺はこのリサと名乗る、白猫が記憶を持っていることに、興味をそそられる。

 「お前にはあるのか?」

 目を細めたリサが俺の顔をじっと見る。

 「何だよ」

 「別に」

 「俺の質問に答えろよ」

 「さぁどうだか」

 一呼吸を置いたリサが、扉の方へ向かって行くのを俺は目で追う。そして、その異変に気が付く。

 どういうことか、さっぱり分からなかった。

 努の時間が止まってしまっているのだ。

 リサが振り返り、あきれ顔で俺を見る。

 不思議なことに、母親がそれに全く気が付く様子がない。

 「あなたバカでしょ」

 リサの声に反応して、俺の耳が動く。

 言われてハッとなる。

 ここが正常な時間ではないことを思い出したのだ。

 ないはずの時間を繕っていかなければならないのだが、俺は途方に暮れてしまう。どこをどうやって補えばいいのか、さっぱり見当がつかないのだ。

 「おい、お前が何とかしろよ」

 「しろって失礼ね、あんたに命令されたくはない」

 「くだらないことを言っていねーで、ヤバいだろこれ」

 若干だが、また努の躰が透け出していた。

 「もう、面倒くさいわね」

 尻尾をまっすぐ立てたリサが、努の中へと姿を消していく。

 「おい、何をしてんだよ。この次、どうすれば」

 「もう、私が感情を操るから、あんたは時間の方を何とかしなさい」


 時間って……。


 振り返ると、母親はまだのんきに鼻歌を歌っていた。

 ずっと気が付いていなかったが、声の様子がおかしい。

 そっと足もとへ近づき、顔を見上げる。

 母親は泣いていた。

 俺は目を瞠り、努を顧みる。

 二人の間に、とてつもない時間の溝があることに気が付く。

 そういうことか。

 動かないんじゃない、動けないのだ。仮想の時間であることを思い出した俺は、努の前に張り巡らされた時間の糸を、支障がない程度に、正常時間とつなぎ合わせる。

 「こんなもんか」

 固まってしまっている努を見やり、俺は呟く。

 びくとも動こうとしな努に、苛立ちながら、俺はもう一度聞く。

 「何をしてんだよ。さっさと動きやがれ。おい、聞こえてんだろ」

 目を見開いたままで、努が俺を見下ろす。

 俺としては、努な中へ入ったリサへ言ったつもりなのだが……。


 「シッ! ママに気が付かれたらどうするの?」

 長い尻尾の先だけが小刻みに揺らしながら、大丈夫だろうと呑気な声で答える俺に、、努は慌てて抱き上げ、口を塞ぐ。

 「猫が喋るなんて知ったらママは絶対に発狂する。僕がちょっと反発したくらいで、この世の終わりみたいな顔をするくらいだから、想像はつくでしょ」

  俺を解放しながら、努はそっと尋ねる。

 「ね、ママに何かしたの?」

 「何もしてねーよ」

 「どう考えても、ママが偽物にしか思えない」

 「何だそれ?」

 「ママが料理しているなんて、ありえないんだ。ママは料理が嫌いなんだ。いつだって食べさせられるのは凍食品かスーパーのお惣菜で、作るのはせいぜいカレーぐらいで……」

 あっと言う顔をして、努は口を噤んだ。

 「どこが偽物なんだ? 作るんだろ、カレー?」

 ニヤッとする俺を見て、努は言葉に詰まらせる。

 「努、そんな所で何をしてんだ?」

 背後から急に声を掛けられ、努は飛び上がって驚く。

 その拍子に、りさがつとむのなかからとびだしてくる。

 「随分な驚きようだな? ただいま。さては何か悪さしたな?」

 父親が満面の笑みで立っていた。

 「努もでかくなったな」

 取って付けたようなセリフに、努は眉を顰める。


 しかし俺は別の意味で、ん? と首を傾げていた。


 努を押し除けた父親が、中へと入って行き、料理をしている母親へ声を掛ける。

 どこにでもある、普通の光景だった。

 俺を抱く手に力が籠められ、青ざめた努がそんな二人を見詰める。

 「何だよ。あの二人がどうかしたのか」

 「トキ、何かしたでしょ? あの二人、仲、良過ぎ」

 「馬鹿か? 親が、仲がいいのは当たり前だろ?」

 「当たり前じゃないから、訊いてんだ」

 ポツリと言う努を見て、俺は妙に悲しくなる。


 食卓には、並べられた料理は全てが手作りのもので、出来合いのものなど何一つない。

 絵に描いたような家族団らんてやつだった。

 父親が母親の料理を褒め、空いたグラスにビールを注ぐ。猫が、喉をゴロゴロ鳴らしてソファーで大きく伸びをする。

 俺にしては上出来だ。

 完璧すぎる情景にうっとりしながら、俺は毛繕いをしながら、努を盗み見る。


 「これだから素人は」

 リサが現れ、ツーンとした顔で振り返る。


 「いきなり環境を変えられて、戸惑うのに決まっているじゃない。あなたクライアントのこと、知らなすぎ。ちょっと失礼」

 そう言って、リサは努の頭へ向かって駆け出しそのまま吸い込まれるように姿を消す。

 

 「ああもしもし、私の声、聞こえている?」

 ムッとした俺の耳が、忙しく動く。

 「いい、データーを送るわよ」

 腑に落ちない気分だった。

 エラそうな物言いが気に入らない。あの態度もだ。

 どうにもおさまりがつかないいら立ちが、おえrの中へ充満していく。

 こんな感情が、俺にもあったのかと、つくづく思う。

 「分かった?」

 不意に、リサに問われ、一瞬の間が出来る。

 「もう、分からなかったの?」

 何も方えない俺に、リサがしびれを切らし、努の中から出てきて、睨む。

 「そんな怖い顔をするなよ」

 「あんた、仕事、舐めているでしょ? 時間が無限にあると思わないでよ。こうしている間にも、確実に刻まれているのよ」

 「チッ、いちいちうるせー奴だな。そんなことを言うなら、自分でやればいいだろ」

 無性に腹が立って仕方がなかった。

 「そんなこと、出来たならとっくにしているわよ」

 感情的にいい返され、俺の怒りは頂点へと達す。

 「うるさい。もういい、話にならない」

 怒りに任せ、俺は怒鳴ってしまう。

 そして、ハッとなる。

 努が、どんよりとした目で、そんな俺を見つめる。


 まずい。 


 ゆっくり、俺は視線をずらしていく。

 

 父親のグラスへ、母親がビールを注いでいるところだった。



 「分かった?」

 目を見開く俺のそばまでやって来たリサが、思いきり足を踏む。

 「いてっ」

 「しっかりして、二人の間にあった時間を、読み取れたんでしょ?」

 まじまじと俺は、リサの顔を見る。

 もしかして、あの感情は……。

 「少しだけ、時間を進めてみて」

 「ああ」

 リサに促された俺は、慎重に瞬きをする。

 「何をする気なんだ?」

 「少し、黙っていて」

 そう言うリサの顔が、いつになく緊張しているように思えた。

 ゆっくりとした足取りで、リサは父親へ近づいていき、顔を見上げる。

 酒を飲み、上機嫌にしている父親は、まったくリサに気が付く様子はなかった。

 鼻の奥が急に痛くなり、俺は目を瞠る。

 リサがそっと父親へ足を掛ける。

 何とも言えない感情が、伝わって来ていた。

 静かに中へと入り込み、耳の奥で、秒針が微かな音を立て動く。

 思い出したように、父親が、努に学校の話題を振る。

 時間の色が変わっていた。

 仮想の時間が取り払われているのだ。

 努の時間が澱み、姿が透け出す。

 まるで生きる気力が感じられなくなっていた。

 

 「相当、重症ね」

 リサが姿を見せ、それと同時に父親の姿が完璧に見えなくなる。

 母親が、顔をうずめ、嗚咽を上げだす。


 「これが現実世界」

 さっきまでの寛いだ時間はなく、ひんやりとした時間が漂っていた。

 「どうする? 残り時間はそう多くはないわよ」

 リサの強い眼差しが痛かった。

 努の姿は、ほとんどなくなりかけていた。

 「いくら時間を補正をしたって、本人に生きる気力がなければ、無駄骨になってしまうわ」

 俺はごくりと唾をのむ。

 「少し、危険だけど、もう一度。時間を巻き戻してみる?」

 はらりと頭上の説明書のページがめくれる。

 そこには、無理な補正により生ずる代償は、逆効果を現すべし。と書かれている。

 「逆効果って、それって」

 「寿命を短くしてしまうとか、別の時間が削られてしまうとかね」

 淡々とした声で説明するリサの顔を、俺は見る。

 この緊迫感は、前にもどこかで味わったことがあった気がする。

 数々の声が、俺の決断を仰ぐ。

 「私は、やるしかないと思う」

 凛としたリサが、俺を見る。

 脳裏に、いくつもの似た眼差しが浮かぶ。

 頭上からつま先に至るまで、緊張が走る。

 小首をかしげるリサに、俺は頷く。


 俺は尻尾をピーンと立て、ギュッと強く目を瞑る。

 高速回転で尻尾が回り、ひとっ跳びで西日が強く差し込む教室へと戻る。


  

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