第二章 僕は透明人間#2
無造作に座る努へ、何か聞きた気にしながら、母親は温めた牛乳を前に差し出す。
努はこの母親の目が嫌いだった。
躰を大きく伸ばし、丹念に前足を舐めながら、俯く努をじれったい思いで、俺は見やる。
俺は心の中で強く思う。
「言っちまえよ。さぁ何もかも言ってしまえよ。楽になれるぜ」
どうやら、努に俺の声が届いたようだった。
驚いたように俺を見る努へ、俺は数度目を瞑って見せる。
一瞬、真っ白になった視界が景色を映し始める。
俯いて歩く努の姿が、そこにはあった。
急にランドセルが後ろに引っ張られた努は、バランスを崩し、地面へと尻をついてしまう。
見上げた先に、ニヤついた忠志の顔があった。
へへへと愛想笑いをする努に、俺は幻滅させられてしまう。
「ばーか」
頭を叩いて、忠志が俺の横を通って逃げて行く。
それを見ていた数人の子どもたちが、ゲラゲラと笑っているだけで、誰も助けようとはしない。
授業中も休み時間も努はポツンと一人きりでいた。掃除は担任が見まわって来ない限り、どうやらが一人でやらされているようだ。
見ている限り、誰の目にも努の存在は写っていないかのように思えた。
補正の必要大だな。
髭をピクピクさせた俺は、呟きとともに、躰を引っ張られる感覚にさいなまれる。
矢張りこれはきつい。
ゲホゲホとむせ返り、涙目で現在位置を確認した俺は先を急ぐ。
とてつもない時間補正を24時間以内に済ませな帰ればならないのだ。
契約書を初めてみた時には、こんな大変なことだとは、露とも思わずにいた。
のんびりと壁伝いを歩いていた時とは大違いである。
息が上がり、足がパンパンになっても止めるわけにもいかず、ひたすらに地面を蹴り上げて行く。
よしあった。
丸く開けられた光の空間へ、俺は勢いよく飛び込む。
なだれ込むように落ちた先を見上げ、俺は大きく息を吐き出す。
数度の経験から、いっぺんに時間を戻すことは有効ではないことに、俺は気が付いていた。
わざと少しずれた場所へと着地し、歪んだ時間を引き寄せるように正しい場所へと戻していく。そうすることで、自分の躰に受ける衝撃も緩和されるのだ。
ペチャペチャと、音を立てて皿にあったものを平らげていた俺は、ノソノソと入って来る努を見やる。
上手くいってくれよ。
本来ならこの時間は努の中には存在しないものだ。
記憶の糸を結び直し、何とか俺が作り上げた時間だった。
「努、ママに話したいことがあるんじゃない?」
作ったような優しい声に、努は無表情で俯いていた。
おいおい。また飛び直しかよ。
たまらなくなった俺は、努の足元へ行き、躰を大きく伸ばし寝そべる。
「それよりさ、この猫どうしたの?」
思わず、前足を舐める下が止まってしまう。
マジ、こいつ面倒くせぇ。
俺は一度目を強く瞑る。
「本気で言っているの?」
怪訝な顔をした母親が、スッと努の額に手を当てる。
「何?」
手を払いのけ煙ったがる努に、母親は深く息を吐く。
「忘れたの? 昨日あんなに大泣きして飼うんだって騒いだのは、ア、ナ、タ。名前も決めたって教えたのも努、あなた自身でしょ」
フーやれやれ。
ホッとした俺は、ソファーへと身を移し、本格的に毛繕いを始める。
「というよりも先に、ママの質問に答えていないわよね」
声のトーンが変えられ、努の目を泳ぐ。
「こんな遅くまで、何をしていたの。ちゃんと答えなさい」
俺はそっと努を見る。
ジリジリと時間が巻き上げられていく。
よし、いまだ言え。
俺はまるで釣りでもしているように、一気に時間を巻き上げて行く。
一向に口を開こうとしない努に、俺は我慢の限界を感じていた。
「寄り道してた」
「どこで何をしていたのよ」
「どこへ行っていても良いだろう? 俺にも行きたいとこくらいあんだよ」
ギョッとした努が、俺を目がけて駆け寄ってくる。
俺は何もしていなかった。
「見ていられないんだよね。あんたの生温いやり方」
ハッとして俺は横を見ると、白猫が澄ました顔でこちらを見ていた。
「お前、誰だ」
含み笑いをした白猫がサッと身をかわし、その代わりに努に首根っこを捕まられ、強引に引き上げられる。
「努待ちなさい」
「おい、何をしやがるんだ」
「それはこっちが聞きたい」
「は?」
「どういうことだ。説明しろ」
「だからそれは僕が」
「ちげぇよ。おまえにいっているんじゃ」
白猫はすでに姿を消してしまっていた。




