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プロローグ#1

分かる人だけが分かればいい。そう思って書いた物語です。

 いつからそうしていたのか、何をしたいのか、己が何者なのか分からなくなってからずいぶん経つ。

 長い長い廊下。壁伝いを歩く、俺の足音だけが、コツコツと響くだけの生活。

 記憶の奥底にあるものと言ったら、うっとしいくらい生い茂った樹々の隙間から零れる日差しが、やたらに目に染みたことだけだ。それだって、曖昧で不確かなものである。


 「もし、あなた」


 誰かに呼び止められ、ぎくりと振り返る。


 「お前、俺が見えるのか?」

 「見えると言えば見えるし、見えないと言ったら見えませんね」

 「ふざけたことをぬかしやがって」

 怒りに任せ、俺は壁を叩く。

 穏やかな笑みで見つめられ、俺は急に恥ずかしくなり、ブツブツと口の中で、用があるなら聞かないでもないがと言いながら、目を反らす。

 「一つ、頼まれごとをしてもらえぬか。ただでとは言わん」

 「頼み事?」

 「左様。どうにもこうにも手が回らなくって困っておりましてな」


 相変わらず、木漏れ日がクルクルと頭上で旋回している中、俺はその奇妙な言葉に戸惑いを覚えていた。

 「授かった命、無駄にされては困るんですよね。あの世の入り口はもうここ何年もの間、長蛇の列をなしておりましてね、かわいそうに阿吽たちも音を上げている次第で」

 阿吽って……。

 「ご存じありません? 神社とかの入り口で見張り番をしているあれですよあれ」

 「そう言われてもな……」

 どういうわけか、俺の頭の中に阿吽が現れて、首を傾げ目をぱちくりさせる。

 「頼みましたよ」

 高らかな笑い声がこだましていく中、しっくりとしないまま、俺はその場に立ち尽くしてしまっていた。


 「チッ。そんなもんやるかアホ」


 アホ臭く思えた俺が呟くのと同時に、背後でガサガサという音が聞こえ、俺は飛び退く。

 馬鹿げた話だ。もう何年も俺の姿を見たやつはいないと言うのに、反射的に身構えてしまうのだ。

 苦笑している俺を見て、目を輝かせた男のガキが屈みこみ、俺の躰を触りまくってきた。

 何なんだこいつ。俺に気易く触んじゃねー。

 「ああ猫しゃんだ」

 猫だと?

 ガキが俺の胴体を意図も容易く持ち上げる。

 手足をばたつかせる俺を、男の子は嬉しそうに抱え、明るい場所へと連れ出す。


 「なぁに簡単なこと。歪められてしまった時間を少し補正し、救われる命を救って欲しい。生憎あの世も定員オーバーで、人員整理が必要なんです」

 「そんなこと、俺にできるのか?」

 「できますとも。少々手間はかかりますが、それを貯金をして加算すればあなたは元の姿へと戻れる。なかなかいいシステムだと思いませんか? あなたは自分を取り戻せ、私どもの手間が省ける。一石二鳥とはこのこと」


 果して、この得意満面の語り弁を鵜呑みにしても良いのだろうか……。


 キラキラとした光の粒が降り注ぎ、俺は目を開けられなくなっていた。


 俺を抱きかかえたガキのズボンの前が、濡れている。


 ……迷子か。


 「彷徨い人を正しい道へと戻す。それがあなたの仕事です」


 どこからともなく聞こえるその声に、俺は思わず舌打ちする。


 家族連れでにぎわう公園。


 ガキは、ギュッと俺を抱きしめ、辺りを見回す。


 「ああかわいい猫。それ、あなたが飼っているの?」

 新たな女のガキの出現に、俺は顔はげんなりとする。

 「かわいいね」

 べたべたと触られ、俺は迷惑千万と喚き散らすが、それがいたく気に入られ、

 「ニャーニャー言っているね」

 と大喜びをされてしまった。

 瞳が大きな女の子だった。

 きっとこの男ガキより、一つか二つ上のような気がする。

 髭が勝手にぴくぴくし始める。


 「努」

 「ママ、努、こんな所に居た」

 「良かった。もうどこへ行っちゃったのかって、心配したじゃない」

 「もういいじゃないか。あんまり怒るのも良くないんじゃないか」

 「大体あなたがちゃんと見てくれてさえいれば」

 「ああもう勘弁してくれ。疲れているんだ。付き合っただけでも褒めて欲しいくらいだ」

 ガキの腕に力がこもる。

 さっきまでいた女の子も、もうすでにどこかへ行ってしまっていた。

 まったくくだらない。

 俺は爪を立て、男の子の腕から逃げ出し、来た道を戻る。

 ヒラヒラと男の子の頭の上で舞っていたものが、頭から離れずにいた。

 契約書と大きく見出しが付けられていたその紙に書かれた期日は、七年後の今日の日付である。


 それまで待てって言うことかよ。


 森へと入って行った俺は、それを聞くためにはあの場所へ戻るしかないと思った。

 全速力で駆け抜けて行く。

 草花が足にぶつかって来てひどい痛みが全身を襲う。

 速度を落としようにも、足が勝手に動いてしまっている。

 目に光が浸みる。

 鼻につく匂いが堪らずに、顔を顰める。

 耳鳴りが酷かった。

 勢い余って飛び出した俺は、いきなり目の前に人が現れ、驚き目を瞑る。

 次の瞬間、雷の轟き音が頭上で響き、寒さが襲ってくる。

 首のあたりがやけに痛み、息がしづらくなった俺は、苦し紛れに天を仰ぐ。

 ゆらゆらと揺れる足が見え、俺はギョッとなる。

 ひらりと俺の目の前に何かが落ちてきた。

 あの契約書だった。

 雨粒が勢いよく落ちてくる。

 まるであの時見た光の粒のように……。


 「早速ってことか」

 深く息を漏らし天を仰ぎ見る。

 ぐるぐると旋回する木漏れ日。

 毛が逆立ち、カチカチと耳の奥で音を聞いたような気がする。

 「よし、うまくいったようだな」

 長い尻尾を立て、俺は優雅な足取りで、目的を果たすために近づいていく。

 誰のためじゃない俺のために。

 これからどうすればいいのか、まったく見当がつかなかった。

 雨風をよけるためにベンチの下へとすばやく移動して、しばらくヨスを窺うことにした俺は、そのままうとうとと眠ってしまう。


 「とりあえず、ノルマは100でいかがでしょ」

 逆光で顔が見えない相手に、怪訝な顔をする。

 と言っても、本当にそんな顔になっているのかも、相手に見えているのかも定かではない。

 俺の中で眠っていた感覚だった。

「あなたが助けなければならない相手はすぐに分かるようにしておきます。あなたは存分にご自分の力を発揮してくださればいいだけです」


 耳がぴくぴくとなる。

 人の気配を感じる。

 閃光が走り、男の子の姿が浮かび上がる。

 「思ったとおりか」

 永田努。10歳。いじめによる自殺。

 概要が頭に浮かぶ。

 「首つりとはいただけないね」

 ギシギシときしむロープに目をやり、結び目を解く。

 鈍い音が地面に響く。

 計算だと、むせ返り命は助かる予定である。

 楽な仕事だと思ったのもつかの間、少年は雨に打たれたまま、動こうとはしなかった。

 「畜生。面倒くせぇな」

 動かない少年の顔を覗き込む。

 地面に生臭いものが流れ出していた。

 「初仕事だ。これぐらいの失敗はするさ」

 言い訳をしたものの、オロオロとその周りをまわることしかできないでいる俺に、天の声が聞こえてくる。

 俺は言われるがまま、長い尻尾を立て、ゆっくりと回転させる。

 カチカチ。

 耳の奥で音が鳴る。

 そして俺は今度は慎重にロープを解く。

 もしかしたら、厄介な仕事を引き受けてしまったんじゃないかと、次の瞬間、後悔し始めていた。

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