第8話 はじめての特別課外授業7
地球はドミニオンである。そのドミネーターは定かではないが、いくつもの世界律が存在している。そしてもう一つ確かな存在があった。それが地球ドミニオンの唯一の使徒、地球の守護者である。魔王や上級天使のようなドミネーターでさえ一撃で消し去るほどの力を持った無敵とも思えた守護者は、その力の大半を失っている。
守護者は地球を守るために虚無と戦ったからだ。
虚無、それはすなわち死だ。
奈落の力を得た魔物はそのエゴによって不老不死となる。確かに年を取り、寿命を迎える魔物は確かに存在するがそれは、そのように己を定義したに過ぎない。魔物は本質的には永遠の存在なのだ。
だが、その魔物でさえ死ぬ。
奈落の生み出す無限のエネルギーに終着をもたらす存在。善でも悪でもない。ただの破壊と静寂そのもの。”真の死”。それが虚無だ。
虚無は、ある日、消え去った。それは長きにわたる大戦が終わる夏の日であったとされる。
だが虚無は帰ってきた。
すべてを消し去る絶対の無として。
地球の守護者はこれと戦い、両の翼を失った。
そのパワーソースである愛を宿す白き羽根も、罪を宿す黒き羽根も、虚無へとたたきつけられ、そしてその一部が。
守護者の力の一部でしかないはずのそれは、守護者という存在の絶大さゆえに恐るべき力を秘めている。黒き羽根はただの少女をドミネーターへと変貌させ、白き羽根は地球の世界律を揺るがすほどの奇跡を起こす。
血の楔に抗い下剋上を狙う吸血鬼。人々を己の論理で救い導こうとする天使。”神”への反逆をもくろむ魔王。人類への反抗をもくろむ亜人。さらなる力を求める魔術師や宇宙からの来訪者たちさえ、その力を狙い、もしくは危険視している。羽根はいまや、あらゆる勢力が無視できないパワーソースなのだ。
そして、その羽根が最も多く、降り注いだ街。
それが、この池袋である。
「素晴らしいな、この力は。」
池袋のホテルの一室で、満足そうにリーセル公子の端正な顔が歪む。右手でワイングラスを弄ぶ彼のもう片方の手には黒い羽根が浮かんでいた。それは奈落からエゴをくみ上げ、絶大なる力をもたらす、まごうことなき羽根である。
「あのくそ親父が一撃だ。」
「ふふっ、私の働きも少しは褒めてくれないのかしら?」
喜色満面のリーセル公子に絡みつくように女がしなだれかかる。その背には白い翼があった。それは紛れもなく御使いの翼だ。けれど、その顔は同じ天使が見たら顔をしかめるほどの欲望にまみれていた。
「ああ、すべては君が私のもとに羽根をもたらしてくれたおかげだ、トリセッテ。」
「早く、あの子を私の前に連れ出して、リーセル。」
トリセッテと呼ばれた天使は懐から銃を取り出し、恍惚とした表情で嘗め回すように手で弄ぶ。
「私はお姉さまを奪ったあいつと、その間に生まれたあの醜い小娘を、殺してしまわないといけないの。」
さきほど彼女は天使であるといった。あれは訂正すべきであろう。確かに彼女の肉体は魔物として分類するならば天使であろう。だが、たとえ肉体が天使のままであろうと、”神”以外に心奪われた者を天使と呼べはしまい。とするならば、彼女はとうの昔に、堕天していたのだ。そう、自分の姉に心奪われた、いつともしれぬ遥か過去に。
「だが、果たして、彼らが生きて地上に戻れるかな。性質の悪い鰐が下水には住んでいると聞くからね」
リーセルが笑う。
下水には鰐がいるという。
家で飼うにはあまりに巨大になりすぎたそれを、下水に放ったのだ。そうやってその場所に居もしない生物を”自然に返す”なんてことは、ばかげた話だが珍しい話ではない。
下水はそうやって放たれた外来生物の園であり、鰐はそれらを食らってさらに大きくなっているのだという。
まぁそれらはすべて噂に過ぎない。
だが、人の噂は時として形を持つことがある。
例えば口裂け女。噂が広まるにつれ、彼女の姿は多くの人間が目撃した。彼女は”実在”し、”偏在”したのだ。
この鰐もまた、下水には鰐がいる、という”物語”から生まれた怪物であった。
この鰐が確固たる形を持つに至ったのは、もはや信仰さえされず、その名前さえ失った霊獣を食らいつくしてからである。
かくて鰐は水の属性を得て、地下のあらゆる水場を己のテリトリーとした。
水場を通し、鰐の知覚が、自分の領域へ引き入れた獲物を見つけ、一声うなる。
追いすがる伝説から逃れるすべはない。
「くそったれめ!!」
毒づきながらロビンは引き金を引く。銃弾が鰐の白い巨体に吸い込まれる。だが、銃弾が着弾する直前に、鰐の体が水のようにゆらめき、銃弾は力を失い、どこかへと流されていく。
さっきからこの調子だった。
ロビンが携行している武器は一通り試してみたが、効いた様子がない。
鰐が尻尾で水面をたたく。同時に、尻尾が水面と同化し、波立つ水面が鋭利な槍となってロビンとプリミエラに襲いかかる。それと同時に水が意志でも持つかのように二人の足を取る。
舌打ちして、ロビンがプリミエラを庇う。プリミエラがどこからか取り出した錫杖に祈る。
絵になるな、と場違いなことがロビンの頭を一瞬よぎった。
同時にロビンの前に光り輝く障壁が現れる。悪しきを退けるという障壁がバキバキと派手な音を立てながら割れ、幾分か勢いが緩和されたであろう水の槍がそれでも機動スーツの装甲をガリガリと削る。スーツの内部では搭載したAIがダメージに対して警告音を発する。対魔物戦闘を想定した機動スーツのダメコンシステムがなければ、当の昔にロビンはミンチになっているだろう。だがそれも限界が近い。
「だ、大丈夫ですか?」
「気にしなさんな。……お姫様に死なれちゃ俺が会長に殺されちまうからねぇ。」
その前に死にそうだけど、とロビンは付け加えるのはやめておいた。
ロビンがまだ動けそうなのの見た鰐は不服そうに、唸り、また水へと深く潜った。さきほどからこれの繰り返しだ。水に潜るとほどなくして姿を消してしまう。機動スーツの対魔物センサーはあたりに広がる地下水脈そのものから魔物の反応を返している。姿を現しているとき以外はこのありさまだ。これではどこから鰐が出てくるのか見当もつかない。
「くそっ、なんなんだあいつはよ。センサーはどこもかしこも敵だって喚いてやがるしよ。」
「多分、変質した水の精霊の一種ではないでしょうか?水に隠れているのではなく、水そのものと同化しているのです。」
「なんとまぁ、で、そいつはどうしたらいいと思います?」
「もっと水の少ない場所へいくしか。」
プリミエラが力なくつぶやく。送信してもらった地図には確かに地下水脈が途切れる場所はある。そこまでいけば一息つけるだろう。だが、このあたりは一面の地下水脈が広がっている。それはつまり、あの鰐の顎がそこら中にあるのと変わらない。
「(逃げ切れるか?……)」
ロビンは目的地へとできるだけ急ぎながら考える。自分が生き残る方法ではない。探すのは任務を果たすための方法だ。ロビンは現実主義者だ。夢は見ない。理想は抱かない。
なんとか鰐の足止めができれば、躊躇なく彼女を先に行かせる。だが、今はロビンだけがこの場に残ることで、プリミエラの生存率が上がるかはよくて五分五分。実際、プリミエラの協力がなければ、ロビンは何度か死んでいるし、おそらくその次の瞬間には彼女も食い殺されていただろう。
追ってくる鰐は余裕なのか、慎重なのか、それとも陰険なのか、今のところはちまちまとした攻撃しか仕掛けてこない。だが、開発組ご自慢の汎用対魔物弾は効いた様子がない。暗殺用に持ってきた対デーモン用の弾丸はあるが、プリミエラの言う通り精霊ならこれもおそらく大した痛手は与えられまい。
「開発組の連中には帰ったらしこたま愚痴ってやる。……待てよ?精霊か……。」
背後から飛んできた水の槍を物陰に隠れてやり過ごしながら、ロビンがスーツの中で密かに笑う。あれが精霊ならば気を引く方法はある。あれを使えばいけるはずだ。
ロビンがプリミエラに自分の学園用端末操作して渡す。
「これに映ってるのが、ここの地図だ。とりあえず出口、赤い点のとこに向かって走ってくれお姫様。青い点は、地図もらったときに他の連中がいた場所だが、多分移動してるから、気にすんな。黒い部分は未探索領域だから絶対に足を踏み入れねぇでくれ。」
早口にまくしたてるロビンをプリミエラが不安げに見上げる。
「というわけで、あれはなんとかひきつけておくから、ちゃんと逃げてくれよ。」
「けれど、それではロビンさんが……」
「なに、俺も死ぬ気はねぇさ。」
「で、では約束してください。無事に帰ってくると。」
「ああ、約束する。なんならデートしたっていいぜ?」
「デ!デートですか、か、考えておきます。」
「ほら、とっとと行きな。」
「約束ですからね?」
後ろ髪を引かれるような様子のプリミエラを送り出し、ロビンはトランクから一房の髪を取り出す。七色の髪と呼ばれる宿った霊力の残滓からちょっとしたお守り程度の効果を持っている。だが、それとは別にもう一つ意味がある。
「GYAAAAAA」
鰐がひときわ大きく吠え、燃えるような瞳でロビンを見据える。その姿は獲物を狩る狡猾な狩猟者ではない。ガチガチと歯を鳴らし、仇敵を見つけた復讐者のような憎悪を放っていた。
七色の髪は、簡単に言えば精霊の骸の一部だ。これを持っているということはすべからく精霊の敵であるという意味に他ならない。
「さぁ、おいで、鰐公ちゃん。俺と遊んでもらうぜ?」