除夜の鐘と共に
「お疲れ様、じゃあ、良い年を」仕事納めの最後の日。職場の同僚と居酒屋で騒いだ。恒例の挨拶を交わして
別れたが、何故か酔えずに気が滅入った。それほど酒は強くは無いはずだが・・・。街は人で溢れかえっていた。
雅人と同じに、仕事納めのサラリーマン、若いカップルに子供連れまで混じっていた。時間はまだ9時だ。
帰っても誰もいない雅人は、一人ブラブラ歩きだした。酔っ払いを苦も無く避ける自分に驚いた。かなり飲んだはずだが
酔いは殆ど無い。不思議に感じながらも、軽い足どりに心までが軽く感じられた。真っ直ぐ駅まで続く繁華街を、雅人は
人ごみを縫って進んでいった。わき道を覗き込み、良さそうな店を物色しながら歩いていたのだ。物色といっても、
実際に内容はわからない。ぼったくりにのバーやキャバレーも多いのだ。遊びなれていない雅人は、結局ブラブラふらつくことしか
出来なかった。既に駅が視界に入ってきた。足どりは軽いが、いつものパターンに終わりそうな感じがしてきた。残る最後の
わき道を覗いたとき、雅人は不思議な感覚に捉われた。見るからに場末の飲み屋があるだけだが、足は知らずにわき道へと
吸い込まれて行った。赤提灯、立ち飲み、そしてスナック。どれも雅人の趣味ではなかった。懐にはボーナスの残りが
入っていた。こんなところで飲むのならと、振り返ろうとした時、小さな看板を見つけたのだ。小料理屋の看板で「美子」と
書かれていた。すりガラスの引き戸の上は、僅かに覗ける透明ガラスが埋め込んであった。雅人は何気なく見るつもりが、
ガラスに張り付きそうなほどに見入ってしまった。カウンターだけの小さな店だが、店主らしい着物姿の女性が一人で動いていた。
洗物でもしているのか、せわしなく流しの前を行ったり来たりしていた。時おり見えるその顔は小顔の日本的美人だった。
雅人は引き込まれるように店の引き戸に手を掛け、一気に開いた。
「いらっしゃいませ」透き通るような声と、透き通るような肌。僅かに目じりが上がり、おちょぼ口の美人だった。この界隈では
何度も飲んでいたが、この店自体の記憶すら無かった。かと言って、新店舗でもなさそうだった。
「何なさいますか」女性は箸置きと箸を置いて雅人に尋ねた。
「じゃあ、ビールを」女性はにっこりと笑い、ビールとグラスを出した。
「どうぞ」女性がビールを傾け、雅人はグラスを傾けた。
「初めてですよね」お通しを出しながら雅人に尋ねた。
「ええ、まあ」美人に引かれて入ってきたとは言えなかった。
「美子です。どうぞ、御贔屓に」やや吊り上った目は、笑うと一本の線になる。今風の美人ではないが、雅人は不思議とこの美子に
惹かれた。お腹もいっぱいのはずだが、雅人は薦められるままにつまみを平らげた。結局二時間居たがお客は雅人一人だけだった。
「明日は、大晦日、御予定はありますか」帰り際に美子が尋ねた。雅人はその言葉の意味が理解出来ずに、首をひねった。
「いえ、明日は休もうと思っていましたが、いらっしゃるのであれば、開けてお待ちしています」
「はあ?」まだ、意味が理解出来ずについ、声を出してしまった。
「いえ、お見受けしたところ、独身に見えたもので、寂しい大晦日を過ごすのならば、ご一緒にと・・・」美子の言葉を理解した
雅人は、はっきりと驚いた。まさか、自分ひとりの為に営業するとは思えなかったのだ。
「ほかにもいらっしゃるんですか」余計なことだと思いつつも、雅人は尋ねずには居られなかった。
「いえ、今日のお客様は、貴方だけですから」美子は恥じらいの表情で雅人を見つめた。『春が来た』雅人は心からそう思った。
「はい、来ます。必ず来ます」雅人は力いっぱい答えた。
「でも、なぜですか、初めての客なのに」またも余計だと知りつつも尋ねてしまった。
「私も、一人で大晦日を迎えるのが寂しくて・・・」雅人は有頂天だった。美子の恥じらいの表情も、店のつまみも雰囲気も
居酒屋でしか飲まない雅人には全てが新鮮だった。しかも、料金は高くは無い。雅人は九時の約束をして店を出た。目抜き通りには
まだ多くの人が歩いていた。振り返ると、美子の看板は見当たらなかった。店が有ったあたりは暗く闇に埋もれていた。もう、店じまい
したようだ。雅人は駅に向かった歩き出した。先ほど以上に足は軽く感じられた。『こんなことがあるのか〜』雅人は店での会話を
思い出し、一人顔がほころんだ。翌朝の目覚めは最高だった。あれだけ飲んでも二日酔いにもなっていなかった。『美子』では、ビール
だけだったが、五本は飲んでいるはずだった。しかし、気分がいいことに越したことは無い。それ以上考えもせずに、雅人は風呂に飛び込んだ。
夜が待ち遠しい。夕方には電車に乗って、昨日の街に降り立った。時間はある。雅人は目抜き通りには向かわずに、駅前のパチンコ店に入っていった。
調子の良い時には、全てが良いようだ。僅かな元手で大勝し、その一部の出玉でハンドバッグを交換した。お礼のお土産も出来て懐も
暖かい、上手く行けば正月も一緒に居れる様な気がした。足どりは昨日よりさらに軽くなった。まるで羽が生えたように、宙を滑るようだ。
『美子』看板は消えていた。ほかの客が入らないようにだろう。雅人の心も軽くなった。
「こんばんは」雅人は静かに引き戸を開けた。
「お待ちしてました」美子はそう言ってカウンターから出てきた。
「あの、これ」雅人は景品のハンドバッグを差し出した。
「何かしら」受け取りながら美子は尋ねた。
「いえ、お礼です。わざわざ誘って頂いた」雅人は照れくさそうに答えた。景品どころは雅人は女性にプレゼントをした事さえなかったのだ。
バッグを選ぶのも随分と長い時間かかったのだ。
「そんな、私が一人で寂しかっただけですから」それでも、美子は嬉しそうに笑った。
「さあ、どうぞ、おでんにしましたけど、お嫌いですか」
「とんでもない。お好きです」この言葉に、二人は吹き出した。店は休業と言う事もあって、美子も一緒にお酒を飲んだ。
「あの」不意に雅人はまじめな顔で尋ねた。
「はい、なんですか」
「お正月は、お暇ですか。良かったら初詣でも・・・」酒の勢いで、雅人は尋ねた
「わたしと?」美子は驚いたように聞き返した。
「すいません、御迷惑でしたね」頭をかきながら謝った。
「とんでもありません、いいんですか私なんかで」美子は嫌がってはいない様だ。
「わたし・・・いえ、美子さんが良いのです」本心で、そう思った。
「まあ。嬉しい」美子は両手を合わせて喜んだ。
「本当ですか」雅人の目が光った。
「出来たらずっと一緒に居てほしいくらい」俯き加減で答えた声は、次第に小さくなっていった。
「一緒に居ます、ずっと・・・」その途端、雅人の目は回りだした。
「ほんとうね」美子の声も遠くに聞こえ始めた。
「は・・・い」どうにか発した言葉は、それが最後だった。
ゴーン・・・・・ゴーン・・・・・。
除夜の鐘が鳴り始めた。雅人の頭にはその音が微かに響いていた。
ゴーン・・・・・ゴーン・・・・・。
「・・・・だわ」美子が話しかけている。そう思ったが、身体の言う事は聞かなかった。
ゴーン・・・・・ゴーン・・・・・。
「・・・・寂しくないわ」
「え?」いきなり声が出た。声と思っただけかも知れない。
「もう、ずっと一緒、寂しくないわ」美子は確かにそう言った。
「何がで。。ぎう・・ごぶ・・ぼ。ごぼ」雅人の言葉は声にならなかった。
ゴーン・・・・・ゴーーン・・・・。
「これで、百八つ目ね」不意に雅人の視界が宙に浮いた。そして雅人の目に映ったのは、バラバラにされた自分の身体だった。どうやら百八つ目は
、首を切り落とされたようだ。除夜の鐘もそこで鳴り止んだ。そこには美子の笑い声がこだました。
そこのわき道にあった店は、二十年も昔に取り壊されていた。
店主の女性は、年の瀬に強盗に押し入られ、滅多刺しで殺されていた。その後、毎年若者が姿を消すが、誰も気づきはしなかった。
ここは東京のど真ん中、一人が姿を消しても騒がれない街。そして今年も一人の若者が闇の餌食となった。知らない店で古風な美人を
見たら気をつけてください。闇の世界に引き込まれるかも知れません。