小説は読み手に向けて書く必要がある
小説を読む、という行動は思った以上に簡単で難しい。
文章を読むことはある程度の教養があればできるが、小説である以上、それを理解し自分の世界に落とし込むのは集中力や想像力が必要だからだ。この場合の落とし込むとは、映像を見ているかの如く文章を脳内で再現するということになる。
例えば机の上に花瓶がある、という表現が小説に出てくるとする。
ある人は、机があるなら部屋があり、部屋があるなら家があり、家があるなら町がある、といった定型の世界観に落とし込むことで、机の上の花瓶を想像する。またある人は、草原のどこかに机がぽつねんとあり、そこに花瓶が置かれているという非現実的な想像をして、場合によっては宇宙空間に存在する机と花瓶が視点の位置によって机の上の花瓶と捉えられたのだと考えるかもしれない。
ここで重要なことは、その読者の世界には必ず机と花瓶というアイテムが存在し、それを起点として周囲の状況が形作られている、という点である。当然のことだと思うかもしれないが、これはかなり強力な暗示ともいうべき表現であることを今一度確認してほしい。
さて、ここで話は冒頭に戻る。小説を読む、という行動は思った以上に簡単で難しい。読み手は文章を映像に置換し、その細部は己の記憶や経験に基づいて形成されるため、書き手が意図した世界を完全に理解することはほぼ不可能であるのだ。そして、その不可能を0とするなら、書き手はそれを1や2、できることなら10まで引き上げる必要が出てくる。
もちろんこれは、書き手が世界観を読み手に理解してほしいと切望していることが前提のものだ。理解されたくないし、してほしくない人には当然、必要のないことである。
話を戻そう。世界観を理解してほしいならば、その細部に目を向ける必要が出てくる。先ほどの例を使うなら、一つしかない窓が北風で揺れ隙間風が吹き荒む小部屋の中央には古ぼけた木製のサイドテーブルがあり、その上には無地の陶器である花瓶に枯れた赤いバラが一輪刺されたまま置かれている、といった具合だ。もちろんこれは完全な表現ではない。完全な文章があるとすれば、それは小説ではなく状態を表す記号となる。そして誰も記号などを小説では求めず、誰も望まないことをわざわざする必要はない。
ここでもう一度話は戻る。書き手が無の世界に作り出したアイテムは強力な暗示ともいうべき表現である。アイテムに限らず、動きや変化、状態も読み手の脳にしつこく食いついてくる。この暗示が矛盾を抱えていた場合、その世界はどうなるだろか。結論は見えている。破綻だ。
書き手は世界観を常に意識しなければならない。その世界での真実や法則、ルールやマナー、果ては小石の価値まで意識する必要が出るかもしれない。それができないのであれば、今書き手が存在する世界を基準として設定するほかない。そしてその世界を基準とするなら、世界の基準から外れた真実や法則、ルールやマナーは、作り上げた別の世界では当然のことであると理解してもらうために細部の意識をもつ必要がある。書き手が完全犯罪と言うのであれば、その世界では完全犯罪とならなければならないのだ。一分の隙も許されない。
もちろん書き手にそこまでを求めているわけではない。小石の価値だの何だのと考えていては埒が明かない。ただ、少なくともその世界観における矛盾は抱えないでいただきたい。
読み手が小説の理解に悩んだ瞬間、その世界は崩れつつあることを理解してほしいのだ。