第四話 『——化、物」
——家に帰ると、マイがどこにもいなかった。
最近はもう、妹は完全に家に引き篭もっていた。今日は日曜日——両親も自宅にいるし、最悪の事は起きないだろうと多寡をくくっていた。それらが、裏目に出た。
向こうにいた時は、自分の事しか考える必要がなかった——いや、考える余裕がなかった。誰もが自分の命を守る事のみに終始し、そしてそれこそが正しい在り方だった。自分が眠るときは決して武器を手放さず、どころか横になる事すらしない。それだけ持っていたはずの警戒心は、自分以外の人間にはとんと働いていなかった。
「やられたッ……!」
朝のランニングから帰って来た時はまだ、父も母もいた——問題はその後。昨晩の勉学で、高校一年分全ての復習と出されていた課題の全てを終わらせてしまった俺は、高まった知的欲求を満たす書物を調達すべく、本屋へと行く事にした。
先日に購入した新品の衣類を纏い、散髪の際に教えてもらった方法で髪を整え、財布と携帯を持ち、家を出る。その時はまだ、妹は部屋から出て来なかったものの『今から出掛けるけど、なんか欲しいものとかあるか?』という問いかけに、『何もいらない』と答えが返って来た。
俺が家を開けたのはほんの三時間ばかし。
最初の違和感は、開きっ放しの玄関。続いて、乱れた玄関の靴の並び。そして、全く感じられない人の気配。答えに辿り着くのに要した時間は、ほんの一秒だった。
手掛かりを求めて、電話を掛けながら靴を脱ぎ散らかし、廊下を駆ける。階段を上がり——妹の部屋の戸は、開きっ放しだった。マナーモードに設定された携帯が、シャッターの降りた暗い部屋で光を点滅させていた。
——妹はどこにも、いなかった。
踵を返し、今度は階段を駆け下りる。電話の掛ける先を変更する——相手は母。電話はすぐに繋がった。
『もしもしキョウヤ? どうかし——』
「母さん! マイがいないッ!」
『え? どこかに遊びに——』
「母さんが出掛けたのはいつ!?」
『な、なによ。どうかしたの? 確か二時間くらい前に、昔の同級——』
「父さんはいつ出掛けた!?」
『キョウヤ、いい加減にっ……』
「いつだ!?」
「……私が出る、十分くらい前だったかし——』
俺はそこまで聞くと既に電話を切っていた——やはり母は、あれだけ過保護に自身の子に接しながら、その本当に大切な部分はなにも見えていない。気付いていなかった。でなければ、あんな呑気な返答ができるはずもない。
父へは電話を掛ける事すらしない——しても意味がない。
「どうする……どうすればいいッ……!」
自分が想像以上に焦っている事を感じる。だが、手が思いつかない。ここには『探索魔法』なんてものは存在しない。……いや、その代わりに今の俺は何もかもを一人でやる必要はないのだ。
再び携帯に指を掛け——今度は警察に。
——でも。
ほんの僅かに、躊躇いを覚えた。この事実が原因となって、妹の学校での立場や風聞に影響が生まれるのではない、という憂慮。
——いや、手段を選んでいる場合か。
何か起きてしまってからでは遅いのだ——俺は電話を掛けた。
「警察ですか!? お願いします、助けてください——妹が、誘拐された可能性があります」
俺は事情を説明した——……
* * *
警察はまず、こちらの早とちりを指摘し、再度の確認を奨めてきた。だが俺はそれを遮り、自分が最初にあの男との争いを目撃した日から順に、起きた出来事をまくしたて、さらには男の車のナンバーを伝えた所でようやく、『少々お待ちください』と言う言葉が聞け、上司とおぼしき人間の『お電話変わりました。もう少し詳しくお話をお聞きしてもよろしいですか』という対応が始まった。
そのあまりの対応の愚鈍さに苛立ちを覚えながら、説明を繰り返した。そこまでしてようやく、『すぐに捜索を行います』という(どこが”すぐ”なんだ)結論に至らせる事ができた。
話しながら俺は、既に家からかなり離れた場所まで来ていた。電話が終わった後、さらに加速して走る。
——判断が、甘過ぎた。
俺は自分の中に渦巻く衝動と、今の生活を壊す事への恐怖で揺れていた。なんとか穏便に、牽制のみで諦めさせようとしていた——だが、甘過ぎたのだ。異世界にいた時と何も変わらない。やるときは、ただ徹底的にやるべきだったのだ。
「ただで済むと、思うなよ……」
肉体は緩慢で……だがその思考は次第に加速され始める。戦場にて自身の生き残る僅かな可能性を見つけ出していた、あの時の感覚だ。俺は警察には連絡を入れた際、同時にいくつかの住所を伝えていた。
——あの男、ハナゲの潜伏先とおぼしき建物の住所だ。
なぜそんな場所を知っているのか。それは毎日行っていたランニングに答えがある。俺はランニング中、街であいつの車を見かける度にその場所、進行方向、曲がった交差点などを全て記録していった。そしてそれを基準にして、コース自体も毎日変更し……最期は裏路地を使い先回りする事で追跡する事で、いくつかの、頻繁に出入りする建物を特定していた。
——元々は”穏便な”解決を図るために行っていた情報、だったんだけどな……くそッ。
このような形で必要となるとは、思っていなかった。……だが、もう、手加減はしない。徹底的に、潰す。警察には、俺が最もハナゲが潜伏していると思しき建物——”以外”の建物の住所を教えた。保険と、いざというときのために。
全てを警察に任せる事は、できなかった。それでは”罰”が足りない。
「誰にも、邪魔はさせねえ……俺が、潰す」
俺は、自身の頬が釣り上がっている事を自覚し……しかし今度はそれを、隠そうとはしなかった——……
* * *
——三人称視点——
薄暗い倉庫……車が四台は入るだろう大きめのガレージの中に、男の声が響いた。
「なあ、マイちゃん……君が悪いんだよォ? オレぁ何度も言ったよナ? ただ、君とお話がしたいだけだって……何度も、何度も何度も何度も言ったよなァ!?」
「ひっ……こ、来ないでっ!」
少女の恐怖に震えた声もまた、ガレージに響いた。
「そ、そんな怯えなくても大丈夫だヨ。オレぁマイちゃんの嫌がる事なんてするつもりないんダ。……ただ、こうして二人きりで、ゆっくりお話できればそれでよかったんだヨ。なあマイちゃん、オレぁ君の事が好きだ……大好きなんだよォ」
「い、いや……嫌ぁッ! 来ないで! 嫌ぁッ!」
そこにいたのは、壁際まで追いつめられ、怯えてペタンと腰を落としてしまっている少女。そして、血走った目で少女に迫る金髪の男だった。
「お、オレぁよ……最初、彼女にフラれた腹いせに合コンに参加するようになっタ。で、何人もの馬鹿な女共を抱いてる内に気付いたんだよ……所詮、愛なんてこんなもんなんだっテ。でもそんなとき偶然、マイちゃんに会ったんだヨ」
男の興奮は徐々にエスレカートしていった。
「君は他の誰とも違っタ。上辺で気持ちの悪い笑みなんか浮かべないで、自分の感情をはっきりと言ったんだよ——『自分が惚れる相手は、自分で決める』っテ。瞬間、オレぁ目が覚めたんダ。いつもいつも、宛てがわれるように出会う女と遊んで、それで全部知ったような気になってタ」
「ぃ、ぃや……離してっ……離してっ!」
男の声と、少女の声は苛烈さを増していく。男はさらに少女へと近付き、その細い肩を強く掴んでいた。
「ひっ……いだ、い……ゃ、めッ……!」
「マイちゃん、君はオレの運命の相手なんだヨ! 君がオレの目を覚まさせてくれタ! オレと付き合ってくレ! マイちゃん……マイちゃん、マイちゃん、マイちゃん! オレと、オレと……!」
「い、嫌ぁ……! 離、せぇーッ!」
声と共に、ドンとを突き飛ばしたが聞こえた。男がよろめきぶつかった棚に乗っていた工具入れが地面に落ち、当たりに散らばった——激しい音がガレージに木霊した。
シンと一瞬の静寂がガレージを支配する。しかしそれは嵐の前の静けさを思わせた。男の目が、変わった。何か超えてはいけない一線を超えてしまった事を少女もまたその瞳を見て理解し、悲鳴さえをも失った。
「なぁ……なんでだヨ……なんでなんダ……? なんでオレを拒絶するんだヨ……? オレぁ君さえいてくれたら良いんだヨ。君さエ……。それとも何か、一緒にいられない理由でもあんのかヨ……?」
男のあまりに異様な様子に、少女は身体を固まらせていた。
「あの餓鬼か? あのキョウヤとかいう餓鬼と付き合ってるから、ダメだとでも言うのカ? でもそんなわけなイ……オレぁここ十数日間、ずっとマイちゃんの事を見てたんダ。だから知ってル……あの餓鬼はお前の兄貴だロ?」
そのときふと、男の動きが止まった。そしてまるで壊れたロボットのようなぎこちない動きで首を傾げながら、訊ねた。
「——まさか本当二……兄貴の事を愛してるとでもいうつもりじゃないよナ?」
「……っ……ぁ……」
少女の恐怖に怯え強ばった喉では、否定の言葉を吐く事すらできなかった。だがそれを、男は違った意味にとった。つまり、否定できないイコール事実、という意味で。
「嘘だ……噓だ噓だ噓だぁッ! 君はそんな間違った事をするわけなイッ! マイちゃんはオレの天使なんダッ! そんな、間違った相手に惚れるわけがなイッ! 君は自分で惚れる相手は選ぶといっただロ!? 君はオレを選ぶべきなんだァッ!」
男は少女を引き倒し、地面へと押さえつけた。
「こんなのハ……間違ってル。君はあの餓鬼によって汚染されてしまってるんダ。オレが正してやル……オレが君を、正しい姿に修理してやル……!」
男は少女に馬乗りになり、そして脇に散らばっていた工具の一つを手に取った。
「オレだけノ……本当のマイちゃんに今、直してあげるからねェッ……!」
悍ましい色の炎を目に宿した男は、その手に持ったプラスドライバーを高く振り上げ、そして振り下、ろ——
「——あァ゛?」
その手が、ピタリと止まった。
ゆっくりと男が背後を振り向く。少女の視線もまたそちらへと向いていた。そこにいたのは——
「——化、物……ひ、ひぃイイイイイイッ!?」
男はその存在を視認すると同時、恐怖の悲鳴をあげた——……