第三話 『俺が、守ってやる』
もはや完全な日課となってしまった念入りな柔軟、街を網羅するかのようなランニング、実戦不足を補う筋トレ、さらには、剣——の代わりに学校の授業でも使っている竹刀に重りを付けた物を用いた、素振り。それらのメニューをこなした後、読書(しかも大半が立ち読み)以外に趣味がなかったためわりとあった貯金を携え、ショッピングモールへと向かった。
店員さんの方から寄ってくる服屋で薦められるがままに服を買い、同じモール内で『この服に合う物を』と靴を見繕ってもらい、そして予約を取っていた美容院へ行って髪を整えてもらった、その帰り道。
——お、オシャレ怖ぇえ……!
なんだこの額、今日だけでいくらぶっ飛んだんだ……? こんだけあったらラノベが50冊は、いやもしかしたら100冊買えるんじゃあ……!?
なんて事を思いながら歩いていた、その時だ。
「……ゃめ……なせっ……」
「……んだよ……いい……だろ……」
その声は、家からほど近い場所——丁度、数日前にあの男とマイが言い争っていた場所から聞こえて来た。嫌な予感はあっという間に確信に変わり、俺は買ってきた服と靴、整髪料の入った紙袋を地面に投げ捨てて駆け出していた。
「……やめて、よ! 離せよッ!」
「んだよォ! いいじゃねえかちょっとくれェ! 別にヤらせろっつってんじゃねえんだよォ! だから言っただろうがァ、俺は真剣にマイちゃんに惚れたんだっつっただっつのォ! だから、一回くらいいいじゃねえカ! ちょっとお茶しようぜ、ってお願いしてるだけだろォ!」
近付いた事ではっきりと聞こえるようになる——間違いない、マイとハナゲの声だ。
角を曲がるとそこには、車から降りてマイの腕を掴むハナゲの姿があった。俺はすぐさま叫んだ。
「おいテメェ、何やってやがるッ!」
ハナゲは「あぁッ?」とこちらにガンをくれる。
「……チッ」
こちらをジッと見た後、ちらりとマイに視線を向けるとその腕を放した。マイが「お、おに……キョウヤ!」とこちらへ走って来、抱きついた。
俺もレイプ未遂犯として疑われていたはずなのだが……そんな俺に抱きついてしまう程、恐かったということだろう。彼女は、演技ではなく本気で怯えていた。
「……マイちゃん、また来るから」
そう言うと男はゆっくりと車へ戻り、排気ガスを撒き散らし、去って行った。
「……っと、大丈夫かっ?」
男の車が見えなくなった途端に崩れ落ちかけたマイの肩を掴み、支える。彼女の手は、嫌いなはずの俺の服を掴んだまま、震えていた。
「……あーもう、ほんとサイッアク……死ねば、いいのに」
そうマイは毒を……いや、強がりを吐いて笑う。だがその表情はとても悲痛なもので、俺には『助けて』『恐い』と言っているようにしか見えなかった。
——そのとき。
「——ぃッ……!」
頭の奥を鋭い痛みが走った。痛みに抑えた手に、ぬめりとした感触を覚える。見れば真っ赤に染まっている。もう片手にはいつの間にか剣を握り、周囲には人間の死体が転がっていて、前方には異形の化物共が。
全身に恐怖と狂気と憎悪とが一瞬にして満ち、渦巻く。
——殺さないと。殺される。殺すしかない。殺せ。殺される前に。殺し尽くせ。
『殺』という文字が脳内を埋め尽くし——
「——アニキ?」
気付くとそんなものは綺麗さっぱりなくなっていた。周囲は住宅街だし、目の前にいるのは妹だけ。もちろん死体なんて転がってないし、剣も血もどこにもありはしない。
「……ぁ、れ」
——なんだ、今のは。幻覚……いや、フラッシュバック、か……?
ついに、起きてしまったそれ。胸に残っていた感情は、この平穏が壊れる事に対する恐怖……ではなかった。これは——
——愉悦……?
俺は咄嗟に口元を手で覆い隠した。掌で感じたのは、頬の釣り上がり歪む口元。
——何、考えてやがんだよ俺は……もうここは戦場じゃねえんだ。異世界じゃない、平和な日本なんだぞッ……!
そう言い聞かせようとしているにも関わらず、口からは自然と言葉が漏れていた。
「マイ——お前は俺が、守ってやる」
俺には彼女がその言葉にどんな表情を浮かべたのか、見る事ができなかった。
現れた敵の存在に歓喜し、溢れだそうとする笑声。戻って来たのに戻って来れなかった自分に対して絶望し、漏れだしそうになる吐き気。その両方を抑えるのに、必死になっていた。
頭の中には既に、あの男の首を切り裂く自身の姿がはっきりと浮かんでいた——……
* * *
それから度々、男の車を見かけるようになった。視線を向けるとすぐに去って行くのだが、それによってマイが受ける心的疲労は相当なものだった——逃げるかのように、息を切らして玄関に駆け込んでくる事もあった。
あっという間にやつれ、外出の頻度もめっきり減り。だが両親に相談しようとする様子はない。
——まあ、それも……そうか。
もし俺が何か自身の手に負えない事に追われたとしても、両親に助けを求める事はしないだろうから。以前の俺ならなおさら——今の俺でさえ躊躇う。……俺と妹の不仲の原因は、決して互い二人だけの物ではない。それほどまでに、俺達の両親は、親として失格だ。
夕食を食べながら、ちらりと視線を他の三人へと向ける。
「ねぇマイちゃん、何かあったんでしょ? お母さんに相談してみない? お母さんはマイちゃんの味方よ? あなた、受験に受かった後、変なお友達と遊ぶようになったじゃない? お母さんね、マイにはちゃんとお友達を選んで欲しいのよ。ちゃんと、”いいお友達”とだけ仲良くするべきだと思うの。……ほら、髪もそんな染めたりして、パーマもあてて……様子が変なのには、その辺りの事と何か関係があるんじゃないの? ……まさか、知らない男と——」
俯いて食事を摂るマイに言葉を投げかける母。
「……だか、ら! ……なんでも、ないって。……チッ、うっせえんだよクソババァ……黙ってろよ……」
そのあまりのしつこさに、変な勘繰りに苛立ちの込もった暴言を吐く。……それが彼女のSOSである事に、両親は気付こうともしない。
どころか、それを聞いた父は視線すら向けずに淡々と、義務のように言う
「マイ、お母さんに向けてなんだその言葉使いは」
「……っせーな、もう! あーもう、うっざッ!」
マイは叫ぶと、皿を引っ掴み居間から出て行った。
「マイちゃん! ちょっと待ちなさい! マイちゃん、ねえ! やっぱりなにかあったんでしょ!?」
母の声に妹は止まる事なく。どたどたと階段を駆け上がる足音、乱暴な扉の開閉音が続いて聞こえた。
「ねぇキョーヤ、あんた何か知らない? どう考えたってマイちゃんの様子、おかしいわよねえ? お父さん、あなたもそう思うわよね?」
「さぁ……」
そう返しながら両親を見る——一方的に話す母と、相槌さえ打たない父の会話とは到底呼べない。しかし、誰もおかしいとは指摘しない。
過保護な母と、無関心な父。あるいは、優しい母である己の姿に陶酔する女と、ただ己の付属品としか家族を見ていない男。
母に相談すれば待っているのは、自身の現状を周囲へ『相談』の名目で言い触らされるという屈辱が。父に相談すればもっとも簡単で安直、その場しのぎの……引っ越しや、警察へ即連絡(しかもそれは、『何かが実際に起こるまで警察は動けない』→『なら、仕方ない。我慢しなさい』という流れを全て見越した上でのもの)というただの無為が、待っている。
帰って来た、という事に興奮して何もかもが輝いて見えていたが……こうして落ち着いてみれば、問題だらけ欠陥だらけの日常だ。
「……はぁ」
小さく溜め息を吐き、視線を妹が去って行った扉を見る。
——早く、なんとかしないと……。
戦場にて死線を幾度もくぐった果て。いつの間にか覚えるようになっていた、特殊能力にほど近くさえある直感が伝えてくる——肌がピリピリと震える。
もうすぐ何か酷く嫌な事が起きると、そうはっきり感じていた——……
* * *
そして、起こるべくして事件は起きた。
——マイの誘拐、という形で。
俺は自分の思慮があまりにも足りていなかった事を、ようやく理解した——……