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人待ち橋

作者: 沖田 秀仁

永代橋東詰の茶店に老人と娘がいた。

             人待ち橋

                             沖田 秀仁

 竿の先で幟が千切れるほどはためいた。

鉛色の空で風が唸り、身を切るような風が大川から吹きつけた。

 日暮れとともに永大橋袂の人混みも潮が引くように疎らになり、橋詰めの茶店で足を止める客もいなくなった。見廻りの途次に立ち寄ってくれる八丁堀同心有馬佐内も今日は急ぎの用事でもあるのか、店先から声だけ掛けて手先二人とともに早々に風に吹かれて橋を渡っていった。夜の闇が沁みだした薄暗い釜場の蔀から、長兵衛は店先へ視線を遣った。

「お菊、少し早いが店仕舞いとするか」 

 判で押したように木場人足の佐平は仕事の退ける五つ半過ぎに姿を見せて、牛の涎のようにいつも長っ尻を決め込む。やっとのこと佐平が腰を上げたのを汐に、長兵衛は釜場から声をかけた。師走の夕暮れ時に氷のような川風に吹かれて茶店で一休みする酔狂な客は佐平以外にはいないだろう。

「あいよ。雲行きが怪しくてどうやら雪になりそうな塩梅だから、早仕舞いした方が良いかもしれないね」お菊は店先の縁台を雑巾で拭く手を止めて、声のした方へ視線を遣った。

 風が板囲いの床店を吹き飛ばすように襲い掛かり、お菊の解れ毛が風に舞った。お菊は前掛けの上から着物の裾を左手で抑えて雑巾を手桶に戻した。いくら拭いても凍てつくような川風が砂埃を巻き上げて、縁台ばかりか三畳ぽっちの奥座敷さえもざらついた。

「どうだ、佐平はお前の手を握ったりするのか」

 釜の火の始末をつけながら、長兵衛は屈み込んだままの声でお菊をからかった。

「何言ってンだい。元岡っ引のお父っつあんを怖がって誰も手出しなんかしやしないよ」

 年が明ければお菊も二十と三になる。世間では行かず後家と陰口を叩かれる齢だ。冗談にからかうどころではなく本気で婿を心配しなければならないが、お菊がその気になるかどうか一抹の不安があった。本人がその気にならなければ強引に誰かと所帯を持たせることなぞ出来ない相談だ。

人にはそれぞれ他人に言えないわけがある。お菊の心の奥に秘めた人がいることは初から分かっていた。だてに人間を五十年からやっているわけではない。が、そのことを直に確かめられないもどかしさがあった。二人は父娘のようにして暮らしているがお菊は長兵衛の実の娘ではない。恋女房のお重と長年連れ添ったが、ついに子宝には恵まれなかった。

 お菊と巡り会ったのは二年近く前の春のことだった。

陰鬱で息が詰まりそうだった十四年間の天保年間が開けたら、弘化を五年の二月途中ですぐに嘉永に年号を変えた年のことだった。長兵衛は二つ年下の女房のお重を前年の冬に急な流行病で亡くした。惚れあって所帯を持ちお重とは三十年近く暮らした。そのお重に先立たれてすべてに張り合いをなくし、一月近くも呆然と腑抜けになっていた。もはや岡っ引として数人の下っ引を顎で使う気力をなくしてしまった。その上自身も足腰が弱ってきたこともあって岡っ引として三十年近く預かってきた十手を返上したが、生きてゆくためには働かなければならない。年寄りだからと天からお足が降ってくるわけではないのだ。

幸いにも長兵衛には始末屋の女房が残した蓄えがあった。最盛時には下っ引を五人も使う門前仲町の腕っこきの岡っ引だったため袖の下には不自由しなかったが、お重は稼ぎの割に口煩く贅沢を戒めて暮らしの隅々まで始末に努めた。時には吝嗇と紙一重の余りの始末振りに些細なことから口喧嘩になることもあっが、独り者になったため仕舞屋から長屋へ移ろうと箪笥を開けて亡くなったお重の着物を整理していると、畳紙の底に整然とかなりの小判や沽券が残されているのを見つけた。思わず長兵衛の目から涙が落ちた。お重は老後の暮らしに備えてこつこつと蓄えていたのだ。

小体な茶店を持つのはここ数年来の夫婦の希望だった。十手を返上して隠居したら気の利いた小女を雇って門前仲町に茶店でも出して暮らすのも悪くないと、長火鉢を挟んで夜長話に話していたものだ。事実五十の坂を越えてから長兵衛は腰や膝に疲れが出て、朝から晩まで歩き廻る岡っ引稼業が辛くなっていた。しかし、お重はその念願を叶える暇もなくさっさとあの世へ逝ってしまった。

女房に先立たれた年老いた岡っ引は惨めったらしくていけない。人から怖れられてこそお役目も勤まろうというものだが、同情を買うようになっては年貢の納め時だ。

夢にまで描いた茶店だったが、幟を上げて実際に始めてみると隠居仕事というわけにはいかなかった。小女を雇っていないせいかもしれないが、なかなか客が寄り付かず、たとえ店先の縁台に腰を下ろしても橋袂と気忙しい往来のせいかゆっくりと寛いでくれなかった。お足を稼ぐ仕事はなんでも傍目に見るほど甘くないものだと思い知らされた。

それでも店開き初日には顔見知りが付き合いで来てくれたが、それも初日と次の日の二日だけだった。十日ばかりは一見の客もぽつりぽつり来たが、やがて客は一人も寄り付かなくなった。元岡っ引の老爺が独りで切り盛りしていると分かると腰を落ち着けて過ごす客はいなくなり、仕入れた団子も饅頭も売れ残った。足腰はまだ負けない自信はあったが、茶店を始めてみると客相手の立ち仕事と慣れない上に気疲れして草臥れ果てた。いつやめようかと思いつつ、長兵衛は決まりのように毎朝幟を上げて湯を沸かし、夕暮れには稼ぎのないまま灰ばかりになった釜を始末して帰る日々を過ごした。人知れず苦悩している間にもいつしか季節は移り春爛漫となっていた。世間はやれ向島長命寺だ、やれ墨堤だと花見に浮かれているが茶店は相変わらず閑古鳥が鳴いていた。

ある日の昼下がり、長兵衛は釜場から出て店裏の石組の上のわずかな空地に佇んだ。そして初夏を思わせる日差しのきらめく川面に花筏が流れるのを眺めて溜息をついた。誰か小女を雇って手伝わせるほど稼ぎの上がる商売でないのは目に見えているし、お重の残してくれた蓄えもすっかり底をついてしまった。

八方塞だ、とわずかに頭を振って襷を外した。呆然と肩を落として俯いているといつしか紐を両手で伸ばしてそれをじっと見詰めていた。「首を括るなぞとは、なんてこった」と長兵衛は縁起でもねえとルブルッと首を竦ました。

自分を奮い立たせるべく大きく息を吸って眦を決し、石川島沖へ昂然と顔を上げたがそれも長くは続かなかった。もう一度ため息を吐こうと肩の力を抜くと、すぐ隣から「ふっ」とかわいい溜息が聞こえた。

 首を巡らすと長一尺幅ばかりの石組に若い女が立ち、先刻までの長兵衛と同じように遥か夕暮れの江戸湾に視線を泳がせていた。惚れた男に袖にされ思い詰めているのか、すっかり気落ちしているのは肩を落としたその立ち姿から見て取れた。

 長兵衛は親切心を起こして丸まっていた背筋を伸ばし表情を和ませた。つい今しがたまで自分が塞ぎ込みグウの音も出なかったのだが、そこはお節介焼きの江戸っ子だ。

「おい、」と声を掛けようとしたが、その刹那に女は胸元で両手を合わせて数間もの高さから大川へ身を翻した。

「あっ」と声を出すまでもなく、幻でも見ているかのように女はゆっくりと落ちて、花筏の漂う水面に吸い込まれて消えた。「大変だ」との声が喉元で固まり、金縛りにあったかのように長兵衛は手を大川へ差し出したまま大きく広がる波紋を呆然と見詰めた。

 一瞬後には金縛りから解けたが、長兵衛は口を大きく開けて徒に両手をばたばたさせるだけだった。誰かを呼ぼうとしたがどういうわけか思いと気持ちが鬩ぎ合って、声が喉の奥で塞き止められた。幸いにも近くを下っていた荷足船の船頭がすぐに船を寄せて長柄の鉤を器用に帯に掛けて女を引き上げてくれた。

「目の前を天女が降ってきて肝が冷えたぜ。足でも滑らせたかい。爺さんの身寄りかえ」

 大声で聞かれると、長兵衛は即座に「そうだ、ありがとうよ」と応えた。

 自分の娘かと問う船頭になぜそうだと答えたのか、長兵衛にしっかりとした考えがあってのことではなかった。が、若い女が身を投げるのには必ず深いわけがある。ここで長兵衛が乗り出さなければ女は自身番へ連れて行かれ、身投げした曰くを書き留められる。それも銭になるかどうか天秤に掛ける岡っ引がお為ごかしに根掘り葉掘り聞かれてのことだ。

 この界隈を縄張りとしているのは長兵衛の下っ引をしていた弥助だ。足を棒にして働く気の良い男かと思って跡目を譲ったが、岡っ引になった途端に強欲で冷淡な一面が顕になった。立場によって人は変わるものだが、自分に見る目がなかったと後悔したものだ。

 弥助に若い女の詮議を任せるわけにはいかない。嵩にかかってどんな因縁を吹っかけるか分かったものではない。行く当てがなければ料理茶屋や水茶屋の仲居へ口を利いて斡旋料をせしめるか、悪くすると岡場所にでも平気で売り飛ばしかねないと咄嗟に思った。

 荷足船の船頭が橋袂の船着場へ女を移すと、屯していた船頭たちが女を茶店へ運んできた。すでに意識は取り戻しているのだろうが恥ずかしさからか女は横たわって黙っていた。

 女を茶店の奥座敷に寝かせると長兵衛が思案する間もなく、斜向かいの床店で糸瓜水を売っている老婆のお米が身投げと察して様子を見に来てくれた。

永代橋の袂で商売をしていると年に数回は身投げに出くわす。黙って震えている娘にずぶ濡れのままでは風邪を引きかねないと、地味な着替えを風呂敷に包んで持ってきた。

「わっちぐらいの齢になると大抵のことには驚かないが、若い娘は深刻に考えるからね」

 そう言って、お米は歯のない口を開けて笑った。

 長兵衛は娘に行く当てがなければ自分が引き取らなければならない。そのことをお米に話して「年は取っているが儂も男だ。夜はお米さんの家にこの娘を寝させてやってくれないか」と頼み込んだ。お米はふと汚いものでも見るような眼差しをして、

「その齢にもなってお前さんはまだ男かい、いやだねえ」と笑った。

 大川から拾い上げたその女がお菊だった。質素な着物に化粧気のない素顔に整えられたことのない地蔵眉にくっきりと澄んだ双眸をしていた。どこか田舎娘の面影を宿す印象から、お菊がどんな素性の女か一目見ておよその見当がついた。

一昔前のこと、関東一円のみならず全国が悲惨な冷害に見舞われた。平生から重い年貢を課されていた農民はたちまち深刻な飢餓に陥った。その飢餓地獄から逃れるために村を棄てた浮浪人が江戸に流れ込み、市中は寺社といわず辻といわず浮浪人であふれた。冷害は天保四年から始まって九年まで断続的に襲い、後に天保の飢饉と呼ばれた。

当時の記録によると田植えをするのに綿入れを着てやるほどだったと記されている。

 餓死や逃散により村人がいなくなり遺棄され『潰れ』といわれる村が各地にみられた。後にお米がお菊から問はず語りに聞き出したことだが、お菊の村も度々の飢饉に見舞われ、武州の山里から口減らしのために江戸へ奉公に出されたという。お菊はまだ十を幾つも出ていない齢だったが、それでも村娘の多くが女郎として女衒に売られていったことを思えば幸運だったと親に感謝しなければならなかった。 

小さな風呂敷包み一つを持たされて、お菊は檀家寺の住職の紹介で山里から日本橋の呉服商近江屋へ女中奉公に上がった。飢餓の毎日から逃れることはできたが、奉公先が極楽というのでもなかった。思い出しただけでもわが身の哀れさに涙が出るほどの苦労を何年も重ねて一人前の女中になり、やがて年頃になって手代の平治と人目を忍ぶ仲になった。

しかし胸にともった恋心ほどにこの世は甘くはなかった。

近江屋は上方に本店を置く江戸店だった。近江屋の男たちはおしなべて近江の在の出だった。江戸店には厳しい仕来りがあり、近江屋では奉公人同士の色沙汰はご法度とされていた。近江屋の奉公人は適齢期を迎えると『国帰り』といって一月ばかり故郷の近江へ帰って在の娘と所帯を持つことになっていた。慌ただしく親の決めた国許の娘と祝言を挙げると、再び江戸店で十数年間を単身で過ごした後に近江屋から暖簾分けにより独立する仕来りだった。祝言を上げた血気盛んな若い日々でも女房の柔肌と接するのは年に数回ばかり、仕事で大坂へ帰る途中に立ち寄る折しかなく、あたかも修行僧のような厳しい毎日を送った。その禁を破って店の女中に手を出したり、郷里の妻以外の女と所帯を持つなどしたりして仕来りから外れた者は『外れ者』と呼ばれて店を追い出される決まりだった。

 平治は国許へ旅発つ前夜お菊に必ず独りで帰ってくると固い約束をして江戸を後にした。お菊も平治の言葉を露ほども疑わなかったが、平治からは何の音沙汰もなかった。色香匂うばかりの十八娘もいつしか年増といわれる節目の二十歳を過ぎた。仕事に追われ薄暗い店の奥で苦悶の日々を過ごしていたが、三年目にしてついに平治との前途に悲観したお菊は番頭が止めるのも聞かず八年も勤めた店を辞めた。しかし行く当てがあろうはずもなく、小さな風呂敷包み一つだけを小脇に抱えて二日ばかり一人で江戸の町をさまよった。三日目の夕暮れに江戸湾を望む永代橋の袂まで来ると、意を決して大川へ身を投げたのだった。


 三日ばかり、お菊は家に籠って塞ぎ込んでいた。

だが何かを切っ掛けにして、若い女はしなやかな若木のように立ち直るものだ。

お米がどんなおまじないを掛けたか知らないが、お菊は日々元気になりものの十日と経たないうちに表情が明るくなって、薄化粧した目鼻立ちはすっきりと垢抜けた。

 やがてお菊が茶店で働くようになるとみるみる客がついた。

埃で薄汚れていた茶店も掃除が行き届き、お菊の華やいだ容姿に橋袂の火除地を行く人が足をとめた。奉公先で古い女中からよほど仕込まれたのだろう、お菊は長兵衛が止めなければ倒れるのではないかと思われるほど休むことなく健気に働いた。燕が低く川面を飛び交う頃には永大橋袂の長兵衛の茶店は朝から客で賑わい上々吉になっていた。

師走に入っても客足はそれほど落ちなかった。縁台を拭き終わると駒下駄を鳴らして入って来て、お菊は裏の石組みから雑巾がけの手桶から水を捨てた。撒かれた水は川面を吹き渡る風に飛沫となって散る花弁のように広がり、切れ切れに大川の水面に降り注いだ。

「おや、とうとう落ちてきやがったか」

 杮葺の軒先から掬い上げるように空を見上げて、長兵衛は呟いた。道理で冷えるはずだ。

 店仕舞をするといっても敷居に雨戸を二枚ほど嵌め込んで紐で縛ればお終いだ。その雨戸も店横の軒下に押し込んでいるのを引き出せば良いだけだ。たったそれだけの簡単なことだが、少しばかり長兵衛には荷が重くなっていた。晴れた日にはなんでもないことも、風の強いときは思わず腰に構えをしてしまう。上背は五尺と五寸で人様に負けないというよりも並の男より三寸ばかり大柄な体躯に恵まれているが、それも四十の声を聞くまでのことだ。今では饅頭泥棒の小僧を追いかけるのにさえ難儀するだろう。お役目を返上したのは当然のことだったのだと、十手がなくなり寂しくなった懐をそっと撫でてみた。

「お父っつあん、戸締りならわっちも手伝うから」

と、奥で水を使っていたお菊が小走りに出てきた。

 お菊から「お父っつあん」と呼ばれるつど、長兵衛は鼻の奥がツンとする。暮らし始めた当初はどう呼ばせるか思い悩んだものだが、お菊はあっさりと「お父さん」と呼んだ。ついに子宝に恵まれなかった長兵衛は心から喜んだし、元岡っ引を父と呼ぶ娘に悪い虫は近寄らない。そのまま長兵衛はお菊に父と呼ばせることにした。

「これしきのこと、お菊の手を借りるほどのこともねえや」

 とは言ったものの、長兵衛はもう一度粉雪の舞う空を見上げた。

 若ければなんでもないのだろうが、風がある日に店の横から戸板を引き出して敷居に嵌めるのは一苦労だ。時として両手を広げて持った戸板ごめ大川へ吹き飛ばされそうになる。よろけないようにするのも一苦労だが、そのことは誰にも知られたくない。いつまでも人々から「仏の長さん」と呼ばれ十手持ちの親分と畏怖されていた頃の自分でいたかった。

 両手を広げて戸板に取りつき、長兵衛が力を入れようとしたところ「親分」と声をかけられた。長兵衛のことを親分と呼ぶのは以前住んでいた門前仲町の人たちと、長兵衛が使っていた元下っ引の数人だけだった。

 戸板から手を離して振り向くと、下っ引を勤めていた辰治が立っていた。

「なんだ辰か、家業の包丁人に戻って修行に励んでいたンじゃねえのか」

 長兵衛は辰治に懐かしさを覚えたが、つい口を突いて意見が出た。

「へい、毎日親方に叱られながらやってまさ。焼き物から煮物と、一から鍛えられて。そんなことより親分、ちょいと教えて下さい。三年前の春吉の事件ですが」

 と、下っ引の頃の眼差しで辰治は長兵衛を見詰めた。

辰治は小料理屋『磯源』の倅だった。『磯源』とは父親が棒手振の魚屋から身を起こして始めた小料理屋だった。門前仲町の箱の入る料理茶屋には敵わないが、値段の割に美味い料理を出すと評判をとっていた。元々包丁人修行に身の入らない親不孝者だったが、捕物好きが嵩じて二十歳を前に長兵衛の後をついて廻るようになった。父親だけでなく長兵衛も家業に身を入れるように意見したものだが、ついに匙を投げて下っ引に取り立てた。

磯源の親方は倅を殴りつけ勘当すると脅したようだが、ついに倅の熱意に根負けし世間様に迷惑を掛けるよりはマシだろうと諦めたようだ。それが三年ばかり前、長兵衛が十手を返上するほんの二年ばかり前のことだった。

 好きこそものの上手なり、とは良くいったものだ。辰治は仕事の呑み込みが早く一年足らずで一人前になった。何よりも下っ引で必要な足で稼ぐ聞き込みを嫌がらなかった。弥助たち古株の下っ引が袖の下を取って大きな顔でのうのうとしているのと違って、辰治は長兵衛が町の見廻りに出かけると欠かさずついて来た。

 辰治を自分の跡継ぎにと考えないわけでもなかったが、小料理屋の倅だし二十三と行く末のある者に下っ引稼業を続けさせて碌なことはない。十手を返上するのを汐に、長兵衛は家業の小料理屋を継がせようと有無を言わせず足を洗わせた。辰治は口を捻じ曲げて横を向いたが、それ以後小料理屋の板場で包丁人修行に励んでいると風の噂に聞いていた。

「春吉の件だと、」

 と、長兵衛は三年前を思い出すかのように目を細めて雪の落ちてきた空を見上げた。

 春吉とは芸者の権兵衛名で、親がつけてくれた名をお稲といった。三年前に深川富ヶ岡八幡宮脇の入堀の辺で木の枝に紐をかけて縊死したことになっている。それほど美形というのでもなかったが、勇み肌の地蔵様といった顔立ちで憎めない愛嬌があった。

何よりも曲がったことが大嫌いでたとえ大尽から声のかかったお座敷でも、小判の力で女をモノにしようとする類の男なら勝手にさっさと帰ってしまう。どちらかというと小柄で華奢な体つきと、大の男を圧倒する体力があるわけではないが、春吉が一度首を横に振ると金輪際縦に振ることはなかった。その代わり富ヶ岡八幡宮祭礼の打ち上げなど神輿を担いだ町内の若い衆から声が掛かれば、一銭の稼ぎにもならなくても気軽に座敷を勤めた。春吉は深川界隈ではおきゃん芸者でその名が広く知られていた。橘家の抱え芸者だが旦那を取らされてはいなかったものの、既に十九と芸者としては難しい齢に差し掛かっていた。

生家は蛤町の貧乏長屋だった。父親は勘助といって盤盥を天秤棒の両方に吊るして売り歩く棒手振の魚屋で、貧乏人の子沢山を絵に描いたような三男四女の子がいた。棒手振の稼ぎでは夫婦二人の口を養うにも苦労するが、子沢山では養いきれず長女のお稲は七つの齢に子供屋へ奉公に出された。しかし、辰巳芸者の春吉に貧乏ったらしいところは微塵もなく艶やかな声で都都逸や常磐津などを唄わせれば当代随一と謳われていた。

「それがどうしたい」

 と長兵衛は手繰り寄せ記憶をなぞりながら、首を捻じ曲げて辰治に視線を落とした。

「儂は跡目を弥助に譲って御用聞きを辞めたンだ。元岡っ引に御用の話を聞くのは筋違いというものだろうが、三年前の春吉の一件がどうかしたか」

 軒下の雨戸に掛けた手を離して、長兵衛は辰治に向き直った。

 長兵衛が十手を返上すると、辰治も弥助の下では下っ引を続ける気はないとして家業の手伝いに戻った。長兵衛はそうするのが良いことだと思ったし長続きするのを願っていた。しかし、どうやら辰治は捕物の真似事から全く足を洗ったわけでもなさそうだった。

「二日前に山本町の子供屋桔梗家の抱え芸者の玉之助が殺された一件と、三年前の春吉の一件と手口が似ていると思えてならず、親分のお考えをお聞きしたいと思いまして」

 と、辰治は淀みなく一気にしゃべった。

 言い間違いのないように道々何度も反芻しながら来たのだろう。

 長兵衛は雪模様の空をふり仰ぎながら、三年前の師走を騒がせた事件を思い起こした。

年の瀬も残り僅かとなった夜半、春吉は深川の材木商大黒屋の座敷がお開きになって相仕と箱回しの三人で深川随一の料理茶屋『平清』を出た。芸者たちは客人の使う玄関ではなく、廊下の途中にある横玄関を使うのか仕来りだ。春吉たちが帰ったのは「五つ」頃だったと下足番の親爺が憶えていた。泊まりでない限りその時分に帰るのはいつものことで異変は何も認められなかった。ただ橘家のある山本町へは門前仲通を西へ行かなければならないのを、どうしたわけか春吉だけが東へ行って八幡宮の白壁と三十三間堂の白壁の間を油堀から脚のように伸びて門前仲通に止まる入堀の辺へ土手道を下りている。

「お前たちと平清を出て、なぜ春吉だけが一人で入堀へ向かったンだ」

 と、長兵衛は右手に握った十手を左手に軽く打ちながら相仕のお万に訊いた。

 お万は橘家の抱えの芸妓ではないが腕の良い三味線の師匠で、山本町の仕舞屋で近所の子供屋の半玉たちに稽古をつけていた。芸の虫のような女で余り色気を感じさせないが、稼ぎが良いため齢は三十の半ばと大年増ながら浮気男の出入りの切れ間のない女だった。

仕舞屋の玄関口に出て来ると横座りして、お万は婀娜な眼差しで長兵衛を見た。

「親分も男なら、芸者が後生だから独りにしておくれ、と頼めば何があるか分かるだろうさ。わっちが料簡して目を瞑ったとしても咎め立てされないと思ったのさ」 

 そう言うと、すでに橘家の女将から叱られた後なのか、首を竦めて鼻筋に皺を寄せてちょこんと頭を下げた。春吉は男と逢瀬を持ったのだと、お万は言外に仄めかした。

「それで、春吉が逢いに行った相手は誰だ」

 当然のことながら、長兵衛は訊かなければならない。

 するとお万は「野暮だねえ、旦那は。そんなことは聞かないものさ」と澄ました顔でしゃらっと言ってのけた。しかし野暮は平生のことだ。

「馬鹿野郎、こちとらは御用の筋で聞いているンだ。知らないで済むと思うのか」

 と怒鳴り飛ばしたが、暖簾に腕押し。お万は「知らないものは、知らないよ」と怒鳴り返してきた。それに対して「ナニを」と長兵衛が弥蔵に腕を捲くると、お万はワッと大声を出して板の間に頑是ない子供のように厭々をして泣き伏した。

「似ているだと、」

 と長兵衛は眉間に皺を寄せて、五尺一寸ほどのきゃしゃな辰治を睨みつけた。

 捕物が好きなのは仕方ないとして、いい歳をして家業に身を入れもしないで事件と聞けば走り回っていてどうするのか。叱り飛ばしたい思いが長兵衛の形相を険しくした。

「へい、どっちも腰紐で首を縊っているのも同じなら、背丈ほどもない木の枝に紐の輪を掛けて座るようにして首を縊っていたのも同じなんでさ」

 と言って、さらに言い募ろうとした辰治を長兵衛が「待ちねえ」と押し止めた。

「三年前の春吉の件は儂が入堀脇の松林へ検分に出向いたから良く知っているが、縊死に違いない、として町奉行所は一件落着に処したはずだぜ」

 長兵衛は八丁堀の旦那から言われたことを、辰治に言ってみた。

 辰治は悔しそうに唇を噛んで腕組みをしたが、明快な反論が出来ないためにか俯いた。

「他に何か気になることでもあるのか」

――なければ帰れ、というように長兵衛は辰治を睨んだ。

「気になることは大有りのコンコンチキでさ。二人ともこれっという死ななけりゃならない理由が見当たらないし、書置きらしいものも見つかっていない。第一縊死した当日まで平生と何一つ変わらなかったンだぜ」

 辰治はそう言ってさらに言葉を継ごうとしたが、茶店の奥から「お父っつあん」とお菊の声がした。

「中へ入ってもらったらいかがですか、外は吹きっ晒しで寒いでしょうから」

 言葉に続いて駒下駄の足音が近づいてきた。

「いや、この男は辰治といって客じゃない。お菊にとって初顔かも知れないが、儂が岡っ引だった頃に下っ引として使っていた門前仲町の小料理屋『磯源』の倅だ」

 と、長兵衛は出てきたお菊に辰治を紹介した。

 辰治はお菊を見て驚いたように目を見張った。小さく頷くでもなく、

「二年ばかり親分の下っ引を勤めさせてもらいました、門前仲町『磯源』の辰治でさ」

 と何とも締まらない挨拶をして、辰治は恥じたようにお菊を見詰めた。

 親の言うことも聞かず下っ引になったほど向こう意気の強い男にしてはいやにしおらしく、まるで借りてきた猫のようだと、長兵衛は珍しいものでも見るように目を丸くした。

「磯源なぞ知らないだろうよ、この娘は。第一、門前仲町へ行ったこともあるかどうか」

 長兵衛はお菊を辰治に引き合わせてそう言った。

ただし、どんなはずみから弥助の耳に入るか知れないため、遠い親戚の娘を預かっている、と言い足すのを忘れなかった。お菊は辰治と長兵衛の醸す雰囲気から御用の筋と察して、軽く頭を下げると店仕舞いに奥へ入っていった。

「あの通り気働きのする娘だ。儂の姪だから妙な気を起こすンじゃないぞ」

 と、長兵衛は辰治に釘をさした。

 辰治は盆の窪に手を遣って「余り似てないようですが親分のご親戚ですかい」と呟いた。

「春吉の一件に得心のいかない点があるのなら、弥助に感づかれないように探ってみな。耄碌した儂の知恵でも役に立ちそうなら手を貸すぜ。ただし、本物の手を貸せというのなら無理だ。十手もないしこの齢だ、満足に賊と立ち回りもできないだろうからな」

 そう言うと、長兵衛は辰吉を置き去りにして中へと入っていった。

 辰治は「へい」と頷いて、呆然と茶店の中を窺うように立ち尽くした。しばらくの間、頬を刺すように冷たい風が吹き荒れるのにも構わずに辰治は橋袂に突っ立っていた。


 辰吉が帰って間もなく、釜に炭を足していると表がにわかに騒がしくなった。

 首を伸ばして蔀越しに表を見ると、盆を持ったお菊が中へ入ろうとするのを中年男が立ち塞がってからかっていた。長兵衛は釜場から出ると男の背後へ近寄り「詰まらねえことはやめろ」と肩を掴んだ。振り返ったのは弥助で「怒ることはねえや」と口を尖らした。

 長兵衛はお菊に弥助の肩越しに「中へ入れ」と目顔で言って、「儂に何の用だ」と聞いた。かつては同じ屋根の下で暮らしたこともあるが、とうの昔に親子の縁は切れていた。

「相変わらず堅物だな。御用があるから来たンだが」と拗ねたような目つきをした。

「東海道の宿場町を片っ端から荒らしまわっている胡麻の蠅が高輪の大木戸から江戸の町へ入ったということでさ。八丁堀が目の色を変えて追いかけていますぜ」

そう言って、弥助は背伸びして長兵衛の肩越しに奥へ入ったお菊を探すような目をした。

「妙な話だぜ、東海道の胡麻の蠅が江戸の町へ入るなんざ。陸へ上がった河童だな」

 と、長兵衛は腕を組んだ。

 宿場町を荒らすのは盗人でもあまり上等とはされていない。土地に不慣れな旅人相手に盗みを働くのと、江戸市中で盗むのとでは仕事のやり口がまるで異なる。従って、街道の胡麻の蠅は江戸の町へ入らないのが通り相場だった。長兵衛はなぜか胸が騒ぐのを感じた。

「そいつは江戸にいたことがあるのか」

「なんでも日本橋は近江屋という上方に本店のある江戸店の手代だったとかいって、齢は二十と七、上背は五尺二寸で名は平治とかいう野郎でさ」

 弥助はそう言って再び通路の奥へお菊の姿を探すような視線を向けた。

 その目つきはいかにも物欲しそうな下卑た眼差しだった。辰治たち下っ引仲間が弥助を無類の女好きで呆れるほどだという話は本当のようだった。

「日本橋は近江屋の裏通りで見かけた者がいるってことで。橋袂には大勢の人が通るから、変な野郎を見かけたら報せてもらいたいってことでさ。なんなら縛り上げても構わねえと。そいつはとっくの昔に凶状首になった野郎だから手加減はいらねえンでさ」

 声を潜めてそれだけ言うと、弥助は火除地の入り小口に突っ立って待っていた小柄な下っ引に目配せして引き上げた。

 盗人の刑罰は鞭打ちから打首と千差万別だが、盗んだ金子によって明確な線引きがあった。この世との分かれ道は十両と定められ、それ以上盗めば凶状首といって死罪だった。

 長兵衛は弥助たちが人込みに呑まれて見えなくなるまで後姿を見送った。


 橋袂の広場は火除地といって人が棲むのを禁じられている。

 人が暮らせば明かりや煮炊きに火を使い、火除地本来の意に反するからだ。

 床店の戸締りを済ますと銭目の品を道具箱に入れて家へ持ち帰る。糸瓜水を向かいで商うお米の誘いもあって長兵衛は茶店を開くと門前仲町の仕舞屋を引き払って、永代橋からそれほど離れていない北川町飛地の長屋へ居を移した。お米もその徳右衛門店の北筋の奥から二番目の家に独りで暮らしていた。夫は十年以上も前に亡くなり、黒江町の紅屋へ嫁いだ一人娘が一緒に住んではと誘ってくれたが断った。たまに会うだけなら姑も明るく話し好きな老女でいられるが、一緒に暮らして鼻突き合せれば相手の嫌なところが見えてくるし鼻についてくものだ。老女二人の不仲が元で娘夫婦の間に隙間風が吹くようになると、それこそ元も子もない。その代わり、良く売れるが値の張らない糸瓜水を紅屋から仕入れることを条件に、売りに出ていた火除地の床店の沽券を手に入れてもらった。

「お月様は遠く離れているから仰ぎ見て綺麗だと思うのさ。あれが夜通し目の前にあった日にゃ、鬱陶しくていけないだろうじゃないか」

 と言って、お米は大口を開けて一人で笑ったことがあった。

 人は誰もが心に寂しさを抱えているが、同時に我侭の身勝手さも棲み付いている。若いうちは世間が広く見えて、その分だけ心の中を覗き込むことが少ないが、齢を経るとそうもいかない。年寄は何かと厄介な存在だ。

 徳右衛門店は門前仲通の八幡橋詰め中島町にすっぽりと抱えられたような北川町飛地にあった。通りに面した表店には煙草や塩などを商う小店が並び、その中ほどに三尺路地が口を開け、中に入ると六尺路地を取り囲むように九尺二間が片側八軒の棟割長屋が建っている。その入り小口の家が長兵衛で、右隣にお米とお菊の住む家が仲良く並んでいた。

 かつては門前仲町の親分として行灯建ての一軒家に暮らし、下っ引の居候なども二三人置いていたものだが、お米の誘いもあって思い出の詰まった家に暮らす苦しさから逃れるように引っ越した。どうせ昼間は橋袂の茶店で過ごし庭なぞ眺める暇はないだろうと、庭どころか窓すらもない九尺二間に移ってきた。しかし、こうしてお菊が一緒に暮らすと分かっていたら門前仲町の行灯建ての借家を越さなければ良かったかと後悔しないでもなかった。だがそう思うのも長兵衛の気持ちがそれだけ落ち着いてきた証なのかも知れない。

 この時代、高直な灯し油を無駄にしてはいけないと、残照の残っているうちに夕餉を済ましたものだ。そのため、秋口から冬場にかけて夕餉時が早くなる。日の長い時期なら五つ半時にお米の家で三人揃って夕餉の膳を囲み、後片付けを女たちに任せて町内の鶴ノ湯で冷え切った身体を温める。そしてやっと人心地がつき、長屋へ帰ると湯冷めする前に夜具に包まって寝てしまうのが長兵衛の暮らしだった。

その日もそうした段取りで町内の千年湯と御大層な名の付いた湯屋から帰ると、手拭を掛け終わらない内に辰治が訪ねてきた。どうやら八幡橋の袂で長兵衛が河岸道を長屋へ帰ってくるのを待っていたようだ。

「何の用だ」と問うまでもなく、辰治は三年前の縊死事件を切り出した。

「春吉は大黒屋の座敷に出た帰りに入堀の畔で首を縊ったということですが、」

 と言って、辰治は確かめるように長兵衛の顔を覗き込んだ。

 長兵衛は湯冷めしないように縕袍を羽織って手炙りを抱え込んだ。

「ああ、それであの一件は落着しているぜ」

と、なおも長兵衛は取りつく島のないような言い方をした。

「親分、そうつっけんどんに言わないで、ちょいと聞いて下さい」

 ややむくれた顔をして、辰治は長兵衛を睨んだ。

 誰も春吉が首を縊ったとは思っていない。何を悲しくて花の盛りの芸者が裾模様を着たまま縊死しなければならないのだ。しかし、時代が悪かった。小粋な姐さんの意地を通せる時代ではなかった。

「いや、一件落着とされた事件を蒸し返すのは良くねえ。それはつまり御上の裁きに非を唱えることになるンだぜ」

長兵衛は前屈みに辰治の顔を見ないで呟くように言った。

自分の方が分の悪いのを認めつつ、建前を話しておかなければこの若者が飛んでもない苦労を背負い込むことになるのが目に見えるようだった。

「親分は知っていなさる。春吉は縊死したンじゃなくて、殺されたってことを」

 と、長兵衛が最も怖れていた言葉を辰治は口にした。

「おいらはまだ掛け出しの下っ引でおろく改めにすら立ち合せてもらえなかった。しかし、春吉の首筋に吊るされていた痕とは別の紐の痕が残っていた、と親分が書役の茂助さんに話しているのが油障子を通して外にも聞こえていましたが」

 真剣な眼差しで、辰治は長兵衛を真っ直ぐに見詰めた。

 手炙りから視線を上げて、長兵衛は浅く溜息をついた。若者は真っ直ぐで良いな、と眩しそうに目を細めた。

「それで、辰治は春吉の件と今度の玉之助の件を探って、一体どうしようというンだ」

観念したように、長兵衛は背筋を伸ばして辰治に上り框に腰掛けるように目配せした。

有馬佐内の旦那が非番月だったため北町同心馬場新之丞が乗り出した。従って長兵衛が春吉の一件を差配するわけにいかなくなり、代わって入舩町の為安が後を引き継いだ。

為安は長兵衛より二つか三つばかり年下の古い岡っ引だが、門前裏の掛け小屋のような賭場を切り盛りする胴元も勤めていた。つまり二足の草鞋を履くあまり評判の良くない男だが、若い頃には石工をしていた名残か腕っ節の強さでは誰もが一目置いていた。

春吉の一件は探索の途中で下りたため、誰がどのような証言したのか分からない。しかし、そのことは門前仲町の町役嘉右衛門に頼めば口書を見せてくれるだろう。手順とすれば自身番に春吉の一件と関わりがあると思われる者を為安が呼んで、話を聞いて口書を作り町奉行所の吟味役へ提出したのだろうが、その写しが自身番に残されているはずだ。

「春吉は男と逢うために一人で入堀へ行ったのではないかとお万は言っていたがな、」

 長兵衛は昔の記憶を手繰り寄せるように言葉を紡いだ。

「男と逢うために、三十三間堂の入堀へ行ったと相仕のお万姐さんが言っていたと」

 と、辰治は長兵衛の言葉を怪訝そうに繰り返した。

「辰はなにか、不満でもあるのか」

 と、長兵衛は辰治を見上げて辰治の双眸に不審の色を見つけた。

「それなら春吉は逢った男に殺されたということですかい」辰治はそう言って首を傾げた。

「春吉は逢った男に殺されたンじゃなくて、手前で首を縊ったンだろうが」

 あくまでも長兵衛は町奉行所の裁きにこだわった。

「当時、おいらは二十歳になったばかりの半分大人の間抜けな小料理屋の二代目だったけど、春吉のことは妙だと心に引っかかった。お座敷からの帰りに春吉は相仕や箱回しの小女を連れて、磯源にちょくちょく顔を出していたンだ。だから、おいらには分かるンだ。春吉はまかり間違っても首を縊って死ぬようなことはしないと」

 と、辰治は口惜しそうな目で長兵衛を見た。

 確信に満ちた辰治の口吻に圧倒されて、長兵衛は「お前は、」と睨むように見上げた。

「お前は春吉の何を知ってるンだ。当時の辰は儂の下っ引になる前で、磯源の板場で包丁人修行をしていたはずだ。それも余り身の入らない半端な修行を、な」

 そう言って、長兵衛は「あっ」という形に大きく口を開けた。

 口を開けはしたが声は出ていない。ただだらしなく口を開けたまま、目付きだけが不審そうに辰治を睨みつけていた。

「ああ、おいらは春吉と二世を契っていた。橘屋の女将がしつこく春吉に旦那を取れと勧めるから、春吉は近いうちに芸者をやめておいらと所帯を持つ約束をしていたンだ」

 辰治は今にも泣き出しそうに顔を歪めて、長兵衛から目を逸らした。

――この野郎、と長兵衛は辰治に微笑んだ。若い者は何をしでかすか分からない。親の目を掠めて僅かな暇を作って、命がけで惚れた女と逢瀬を重ねるものだ。

「それじゃ、儂の下っ引になったのは春吉を殺した下手人の尻尾を掴むためだったのか」

 長兵衛は町を見廻る自分のあとをついて回っていた辰治を思い出した。

小料理屋の倅にしては捕物が好きな腰の定まらない厄介な野郎だと思っていたが。

 しかし、それでは辻褄が合わない。長兵衛はおろく改めの後ですぐに事件探索から外された。本来ならその後を引き受けた為安の下っ引にならなければならないはずだ。

「そういうことじゃないンでさ。腕扱きの岡っ引になるには良い親分に就かなければ」

 そう言って、辰治は長兵衛の疑念を晴らすようにピョコリと頭を下げた。

 そればかりではないだろう、と長兵衛は睨んだ。為安の家は門前仲通を門前仲町から東へ二町ばかり行き、堀割に突き当たって尽きたところでその堀割を汐見橋で渡った向こう側の入舩町だ。辰治の家からは門前仲町に家のある長兵衛の方がよほど近い。何かあっても山本町の磯源から駆けつけるには長兵衛を親分にする方が何かと利便が良いからだろうか。長兵衛はそのように辰治の心の動きを読んだ。

「それで、春吉の一件が玉之助の一件と似通っているのはどういうところだ」

 長兵衛は辰治に話の続きを促すように顎をしゃくった。

 早いとこ話を聞いてやって、買置きの下り酒を冷でクィッと引っ掛けて夜具へ入り込まないと湯冷めしているのか背筋がぞくぞくしてかなわなかった。

「へい、玉之助の場合も死ななけりゃならない理由が見当たらないし、座るようにして腰紐で縊死していやす」と、辰治は簡明に話した。

 一つの事柄を平易にしてきっちりと説明できるのはお頭の働き具合の良い証だ。

「お前は玉之助とも親しかったのか」と、怪訝そうな眼差しで長兵衛は辰治を見詰めた。

「玉之助もウチを贔屓にしてくれて、お座敷からの帰りにはウチに寄って相仕や箱回しの労をねぎらっていたンでさ。そういえば玉之助の相仕もお万姐さんだった」

そう言うと、辰治は小首を傾げた。

「なんだと、玉之助の相仕もお万だったのか」

長兵衛は目を剥いて喰い付くように聞き返した。

なんということだろうか。二件ともお万が相仕を勤める芸者が縊死したとは。偶然とは思えない附合だ。三日前の事件だけを単独で判断してはならないと瞬時に悟った。

「辰治、お万のコレが誰か知らないか」

 と、長兵衛は右手の節くれ立った親指を突き出した。

辰治はその古ぼけた将棋の駒のような親指を見詰めて首を横に振った。お万は半玉や芸者だけに三味線を教えているのではない。近所の隠居やお店者など希望する男たちにも日にちを決めて教えていた。単に男出入りを見張っていても分かるものではない。しかし、婀娜な三十女の独り暮らしが男日照りで独りをかこつことはない。そうしたことも同じ町内で小料理屋をしている磯源なら噂が風に乗って伝わっているかと思ったが、客商売をしている女同士の口も存外堅いもののようだった。

「ナニ、男女の仲は隠しているようでも露見するものだ。界隈の噂好きを探ってみな」

 長兵衛はそう言って、辰治に「あまり一人でやろうとするな。弥助の目もあるからな」と釘を刺すことも忘れなかった。

 長兵衛が指示すると、辰治は安堵の笑みを漏らした。長兵衛が力を貸してくれるものと合点して踊るような足取りで帰った。その遠ざかる足音に耳を澄ましつつ長兵衛は苦笑いを浮かべた。とうに十手を返上して岡っ引稼業から足を洗っているが、捕物の匂いを嗅ぐとどうしても気持ちが逸ってしまうのは性分のようだと思わざるを得なかった。


辰治が宵の口に長兵衛の家を訪れてから三日が経った。

南町奉行所本所改役同心有馬佐内は判で押したように七つ前に立ち寄る。

傾いた日差しに木枯らしが吹き抜けて、板壁囲いの橋袂の茶店は体の芯まで冷えた。

「玉之助の一件だが、縊死ということで落ち着きそうだな。南の御奉行遠山景元様も事件が越年することを嫌われていなさる」

――だから早々と決着させるしかあるまい、と言うべき語尾を有馬佐内は呑み込んだ。

「旦那、三年前の一件といい、今度の一件といい、師走の仏は自害ということで閻魔様にも年越しの仕事を抱えることがないように、体良くあの世へ送られるンですかい」

 不満を露にして、長兵衛は腰を屈めたまま縁台の有馬佐内を睨みつけた。

 長助から長兵衛と名を変えて先代の旦那から手札を受けた頃には、有馬佐内はまだ洟垂れ小僧だった。同心の家に生まれたというだけで齢が到って同心になりはしたが、心構えも捕物の腕も先代には遠く及ばない。歯痒さに町方同心の頬桁の一つでも張ってやりたい思いを込めて睨みつけた。

「ひどい剣幕でおいらを睨むが、お前が岡っ引の後釜に推した弥助も自害だろうと言って、おいらの幕引きに疑義を挟まなかったぜ。それとも長兵衛、お前は何か掴んでいるのか」

 話の途中で気づいたように、有馬佐内は険しい眼差しで長兵衛を見上げた。

「いえ、何を掴んだというのではありませんが。弥助が玉之助縊死の一件を自害で幕引きに同意したンですかい」

 と、長兵衛は合点のいかない怪訝そうな顔をした。

 岡っ引の稼ぎの極上ネタは自害一件の差抜きだ。差抜きとは差紙を引き抜くこと、つまり事件としないで病死扱いにすることだ。そうすれば世間を騒がせることはないし、関係者が町奉行所へ差紙で呼び出されることはない。縊死したのが芸者なら尚更のこと、抱えの子供屋に厭な噂がたつのを恐れて病死として御上に届けるように袖の下を弾んでくれるものだ。それが早々と自害で町方が決着させれば稼ぎの粗方が芥子飛ぶことになる。せっかくの稼ぎのネタを弥助が易々と見逃すのに合点がいかなかった。

「いやに喰いつくな。玉之助はお菊と同じでお前の姪か何かだったのか」

 と言って、有馬佐内はにやにやと笑った。

 有馬佐内はお菊が長兵衛の姪でないことは知っているのだろう。ただ世間に対して害毒を及ぼさないから目を瞑っているのだと暗に仄めかした。しかし、長兵衛にとってそんなことはどうでも良いことだった。

それよりも長兵衛は生前の玉之助をあまり良く知らなかった。二年前まで門前仲町に暮らしていたから半玉の玉之助と路地などで会っていたはずだ。しかし、それでも記憶にないのは男も五十の坂を越えると年相応の大年増の方へと関心が移るのだろう。

「いえいえ、儂は年寄りで辰巳芸者の誰が誰だか町で擦れ違っても見分けがつきません。ただ、これからまだまだ稼げる二十歳前の芸者が縊死するものかと、」

 と言いかけて口を噤んだ。これ以上言葉が過ぎると御正道批判に受け取られかねない。

「年寄りだと。長兵衛は五十と二、三だろう。亡父は亡くなる年まで町を見廻る途中で芸者から付け文をもらっていたぞ。確か亡くなったのが還暦まで三年ばかり前だったが」

死んだ齢を指で折ってから、口元へ両手をもっていってフーと息を吹きかけた。

それを汐に、手先の孫八が立ち上がった。そろそろ帰らなければならない刻限だ。

「旦那、そろそろ神輿を上げて頂きませんと、日が暮れちまいますぜ」

 親が子に言うように、孫八はぞんざいな物言いをした。

孫八は先代の手先を務めて有馬佐内が芥子髷の頃から屋敷にいるが、それが増長につながってはまずいのではないかと、長兵衛は狐顔に頬骨の突き出た顔を見た。悪相がいよいよ般若に近づいたか、と浅く溜息をついた。しかし、有馬家の身上が保てるのは孫八が人の良い有馬佐内に代わって縄張りの商家から臆せず袖の下を取り立てているからだ。

「奉行所へ出す一件綴りを今しばらくおいらの手元に留めておくゆえ、長兵衛が玉之助の一件で掴んだことがあれば早々に確かめるンだな」

 有馬佐内はそう言うと立ち上がり、柄を握って差料の位置を改めた。

 永代橋へ向かって歩もうとして、何かを思い出したようにくるりと振り返った。

「弥助が言ってたぜ、誰か知らないが玉之助の一件に首を突っ込んでる者がいる、と」

そう言うと、有馬佐内は二人の手先を従えて師走の人の流れとともに橋へと消えた。

見えなくなるまで同心主従の後姿を見送っていたが、ふと我に帰ると辰治のことが気になった。弥助が辰治のことを知らないわけがない。一時は同じ下っ引を勤めていたし、今も二人は同じ門前仲町界隈に暮らしている。有馬の旦那に玉之助のことを探っている者がいる、と告げたのは自分に対する警告なのか。

「お菊、今日は早仕舞いとしよう。ちょいと門前仲町へ行く用事ができた」

 奥へ声をかけると、声の後を追うように長兵衛は細い土間を釜場へ向かった。

 釜場の棚には細身の薪を削って作った一尺五分の木刀が置いてあった。それを手にすると、かつて十手を懐に差していたように懐の帯の間に挟んだ。

 簡単に戸締りを済ませて、火除地を横切って斜向かいの糸瓜水売りの床店に顔を出した。

事情を話すとお米は店仕舞いして急いで夕餉を支度すると言ったが、磯源へ顔を出すには腹を空かしてゆくのが礼儀だろうぜと断った。

「あんまり磯源の倅を捕物へ誘い込むンじゃないよ。せっかく倅が包丁人修行に戻って親方は安堵したところなのだろうからさ」

 と、お米は長兵衛を叱るように言った。

 岡っ引の使っている下っ引が何処の家の生まれでどんな者か町の人たちは知っているのか、と長兵衛は新たな驚きを覚えた。

「辰治は氏素性からいっても下っ引になるような子じゃないンだからね」

 と言い募るのに、長兵衛は「それじゃまるで儂が辰治を捕物に引きずり込んだみたいじゃないか」と笑いながらこたえた。

「へええ、違うのかい。昔から料理茶屋には大悪党が出入りして、小料理屋には小悪党が出入りするものだから、事件の探索に好都合と下っ引にしたンじゃないのかえ」

 ずばずばと、お米は歯に衣を着せずに言った。

 必ずしもお米の指摘が外れているわけでもないが、これだけ口が達者なら娘の嫁ぎ先で厄介になるわけにはいかないと得心して長兵衛は微笑んだ。もっとも、そうしたことを自分でも承知していればこそ、お米は黒江町の呉服屋に身を寄せなかったのかも知れないと得心するとともにその賢明さに感心した。

 お菊のことを頼むと目配せすると「気の回り過ぎる男は持てないよ」と突き放した。

 早仕舞いしたため西の空にはまだ残照があった。その茜色の明かりが闇に溶け込むのと競うように長兵衛は門前仲通を急いだ。縊死で事件処理してしまうのを、せっかく旦那が先延ばししてくれている。一刻も早く下手人の目星をつけなければならないが、と先を急ぐ足運びよりも気の方が急いた。ただ行く道々、先ほどのお米の伝でいけば弥助を町の者はどのように見ていたのだろうかと考えた。

弥助が下っ引になるのに誰一人として肝を焼く者はいなかったはずだ。そればかりか生まれ落ちてからこの方まで、弥助を構う者すらいなかったはずだ。なぜなら山本町の裾継と呼ばれる岡場所の女郎が生んだ父なし子だったからだ。

生れてから小石のようにあっちへ蹴られこっちへ転がされて厄介者の扱いを受けていたが、半分大人になりかけてついに岡場所から追い出された。まだ十三四歳の仕事もなければ住む家もない弥助を憐れんだお重が長兵衛に御用を手伝わせてもらえないか、と言ったのが下っ引にしたもとだった。弥助の母親はとうの昔に瘡毒で亡くなっていた。

 お重がいた頃の弥助は生まじめに勤めを果たす下っ引だった。子に恵まれなかったお重は弥助が一人前になると近所の棟割り長屋を心配した。挙句に嫁を世話しようとしたが、そのことはついに実らなかった。しかし、長兵衛が十手を返上して後釜に弥助を据えると途端に人が変ってしまった。いや、弥助は元のまま何一つ変わっていないのかもしれない。元来がそうした人物なのをお重と長兵衛が見誤っていただけなのかも知れなかった。

 そうした思いを胸に抱きつつ、長兵衛は先を急いだ。

 なぜか弥助が今度の一件を自害で済ませようとしているのではないかと思えた。なぜなのかと問われれば明快に答えるわけにはいかない。それは元岡っ引の勘だが、有馬佐内が口にした言葉に頬を張られたような気がして不意に辰治のことが気になった。

三年前の春吉の一件も有馬佐内が急いで自害で決着させたのだと思っていたが、実はそうではなかったのかもしれない。町の見廻りにいつも従えて歩いていた弥助が「今度の一件は自害でしょう」と念押ししたのに、「そうだといえるほどきっちり調べ上げたのか」と長兵衛は聞き返さなかった。いや、そうではない。問いただせない自分がいた。

 春吉が自ら命を縮めなければならない理由はどこにも見当たらなかった。だがいわば時代の力に口を封じられた。辰治に指摘されるまでもないことだ。春吉は幕府の奢侈禁止令に平然と背いて金糸銀糸の裾模様の引き摺りを着て町を歩き、ハラハラする周囲の者を気にもせず瑠璃や珊瑚の簪を挿して座敷に上がった。意見でもしようものなら春吉は「芸者がしみったれた真似をしたらお仕舞いさ」と胸のすくような啖呵を切った。ただそうした行状を町奉行所へ讒訴した者がいたらしく、春吉の身辺はにわかに剣呑になっていた。

それが時代というものなのかもしれない。町衆は無責任にも禁止令を足蹴にする春吉にヤンヤの喝采を浴びせたが、御正道に背いて良いことは何もない。長兵衛は春吉や橘家の女将にそれとなく意見したが、女将はまだしも春吉は決して耳を傾けようとはしなかった。

春吉が首を縊った遺体として見つかったのはそうしたことがあった挙句のことだった。間違いなく誰かに殺されたと考えるのが尋常な状況だったが、何かを怖れるかのように誰一人として自害とする決着に異を唱えなかった。それは長兵衛も同じことだった。

 しかし決してそれが許されることではないということは赤子にもわかることだ。たとえ時代がどうであれ、お天道様が西から昇ろうと、あってはならないことだ。だが、それを許してしまった。春吉の一件が自害とされたことを知っても、長兵衛は御調べがどうなっているのかと旦那に聞かなかったし、沈痛な顔をしたまま黙って触れようともしなかった。

 それから間もなく料理茶屋の商い停止のお触れが出たり、深川中の岡場所が取り壊しになったりして粛清の嵐が吹き荒れた。途端に富ヶ岡八幡宮界隈の火が消えたようになって寂れてしまった。今になって振り返ると僅か二年足らずのことだったが、その歳月は誰も触れたくない屈辱と汚辱にまみれた忌まわしい記憶として残っている。

 時の流れを寛政の御代へ戻そうとした水野忠邦が老中を罷免され、鳥居耀蔵が南町奉行を更迭され丸亀藩預かりになって悪夢のような時代が終わった。徐々に深川は昔日の賑わいを取り戻しつつあるが、町の人たちが負った心の傷はあまりに深くて痛みに耐えかねているようだ。だからなのだろう、あの頃のことはいまだに誰も口にしたがらなかった。

 暮れかけた町を急いで門前仲町へ向かい、御影石の二ノ鳥居が夕闇に浮かび上がって見えるあたりで左へ折れた。そこには富ヶ岡八幡宮の白壁に沿って油堀から入れ込んで門前仲通で堰き止められた入堀があり、山本町を抜ける六尺河岸道が堀割に沿っていた。

長兵衛は歩き慣れた河岸道を行き、入堀の中ほどの磯源の暖簾を掻き分けた。

小料理屋磯源は間口五間ばかりだが、奥へ細長い店だった。真ん中に六尺ほどの三和土の通路が板場と仕切る暖簾に遮られるまで続き、その両側に入れ込みの座敷があった。ただ小料理屋といっても磯源は往事から料理茶屋に負けないほどの食材と味で客を呼び、料理茶屋が停止となってからは深川の数少ない味処となっていた。いまでは料理茶屋も逼塞から解き放たれて商いを再開したものの、暖簾を下ろしている間に腕扱きの包丁人が散ってしまい、傍目にも昔日の勢いを取り戻すほどにはなっていない。その分だけ磯源は客を呼び、夕暮れの書き入れ時ともあって入れ込みの座敷は混雑していた。

上がり小口に半分だけ尻を乗せて、片足を雪駄の上に置いたまま奥の板場を見た。それを注文の催促と思ったらしく「お一人かえ」と年の頃十五六の半分子供が駒下駄を鳴らして出てきた。

「辰治はいるかい」と、注文をとりにきた小女に聞くと怪訝そうな眼差しで睨まれた。

「適当に、夕餉を頼むぜ」慌てて付け合せのように言ってから、長兵衛は小女を見上げた。

 すると小女は小首を傾げて「熱燗はいらないのかい」と重ねて聞いた。

 小料理屋の売上の半分以上は酒だ。料理は肴として注文するぐらいで、飯で腹を満たすつもりの者は一膳飯屋へ行く。その後で懐の暖かい者が小料理屋へ入って美味い肴を摘んで上等な下り酒を味わうのだ。日雇取りなら差し詰め一膳飯屋で腹をくちくさせてから屋台で水っぽい安酒を飲むのだ。

「若旦那は板場が忙しいから抜けて来ないだろうけど、名前だけでも伝えてみるよ」

 そう言うなり、小女は「さあ、言ってみな」とばかりに顎をしゃくった。

 お仕着せの茜千本縞の着物に紺前掛けに紺襷と、年増の着るような衣装だけに小女の若さが際立って見える。それも計算した上でのお仕着せなら、衣装を見立る磯源の親方の眼力はたいしたものだ。

 待つほどもなく、三和土を踏む下駄の音が近づいてきた。

「親分、あの一件でわざわざ来て頂いたンですか」

 腰を折る辰治に、長兵衛は慌てて首を横に振った。

「いや、そうじゃねえ。お米婆さんの飯も良いが、たまには門前仲町でも評判の料理を味わいたいと思ってな」そう言って、長兵衛は辰治の手元を見詰めた。

 辰治は酢の物の小鉢を手にしていたが、長兵衛の視線に気づくと「ああ、これはおいらのほんの心尽くしでさ」と長兵衛の前の盆に置いた。

 入れ込みの座敷に卓や台は置かれていない。小女は料理や酒器を盆に載せて運んでくると、盆ごと客の前の座敷に置く。座敷にあるものといえば客の求めに応じて巡らして仕切りとした腰高屏風が壁際に立てかけてあるほどで、座布団の一枚すら置いてなかった。ただこの時節には寒さ凌ぎに幾つかの手炙りが広い座敷の方々に置かれていた。

「ほお、済まねえな」そう言って、長兵衛は小鉢の中を覗き込んだ。

「昨日、今日のこと弥助が顔を出さなかったか」

 下に視線を落としたまま、長兵衛は屈み込んだ辰治の耳元で聞いた。

 鉢の料理を聞かれるものと思っていた辰治は驚いたように長兵衛を見た。

「見廻りの帰りに有馬の旦那が茶店に寄られて、玉之助の一件は今しばらく日にちを置いてお調べになるといわれた。弥助は誰かがこの一件に嘴を挟んでいけない、と旦那に言ったらしいぜ。お前のことではないかと思ってな」

――心配になって来てみたのだが、と問うような眼差しで見上げた。

「板場の蔀から裏路地は見えるがお万の家は少しばかり離れているため見通すことはできねえから、ここ三日ばかりおいらはお万の家の斜向かいにある三味線屋のお節に頼んで、奥の店座敷から行灯建ての玄関口を見張っていただけだが」

 それが弥助の言う嘴を挟む者にあたるのだろうか、と辰治は小首を傾げた。

 お万の家は磯源の裏筋にあった。三尺路地を挟んで小商いの煙草屋や筆屋や長屋などが軒を連ねる雑然とした一角だ。磯源の勝手口を裏路地へ出れば店玄関の河岸道の風情とは様変わりだ。お節というのは辰治と同じ年の三味線屋の看板娘だったが、今では三味線の胴皮張替職人と所帯を持ちすでに看板娘とは言えない。だが芸伎などの女客の多い店先でちゃきちゃきと商売をこなしていた。

「それで、お万を訪ねてくるそれらしい男はいたか」

 長兵衛は声を落として囁くように聞いた。

「いえ、それらしい者が出入りするだろうと思って張ってみましたがね。男で出入りするのはおいらの知っている素性の知れた者ばかりでした。それにしても男ってのは大年増であろうと空家の女がいるとなると嗅ぎ付けてやってくるものですね」

 くすりと笑って、辰治は神妙な顔つきをした。

「ふむ」と長兵衛も小首を傾げた。

「あの家に裏口はなかったか」

 長兵衛が聞くと、辰治は真似たように「うむ」とあの辺りの様子を思い浮かべた。

「確か政兵衛店の六尺路地へ出る勝手口があって、そこの井戸を使っていますがね」

 そう言ってから「怪しい者が長屋の六尺路地へ入り込めば頼まなくても長屋の女たちが騒ぎ立てますよ」と付け足した。

 辰治が言うまでもない。見知らない者が長屋の六尺路地へ入って来れば女たちのみならず、見知らぬ者なら男たちが顔を出して声をかける。ましてや女所帯のお万の許へ通う男がいれば一日と経たずして噂になるはずだ。

「辰治のいう通りだが、商売柄お万に男の噂は禁物のはずだ。三味線を習う弟子の多くは若い娘だからお万の身持ちが良くなければ親も習いごとに通わせないだろう。しかし万が一にも勝手口から出入りする者がいたとして、儂やお前の耳にその男の噂が入らなかったとしたら、どうしてだ」謎掛けのように呟いて、長兵衛はすっくと立ち上がった。

 長兵衛が何をしようとしているのか、辰治にも阿吽の呼吸で通じたのだろう。奥へ行く長兵衛の後を黙ったまま辰治はついて行った。板場へ入ると四人ばかりの包丁人と二人の追廻しの小僧が手を止めて驚いたように目を見張る中を、長兵衛と辰治は仇討へ向かう主従のように言葉一つ発せずに勝手口を出た。

 江戸の土地の一割にも満たない町割に人口の半数にあたる町人が暮らしているため町割はいつも過密だ。そのためか、日が暮れた刻限にもかかわらず路地に人の気配がある。

何処かへ寄り道した帰りなのか、家路を急ぐ半纏姿の人足や振り売りを済ませて帰る天秤棒を担いだ棒手振の姿なども薄闇の中にあった。三尺路地を油堀へと向かっているとほんの十数間ばかり先に、三味線屋の店先にこぼれる僅かな明かりの前を誰かの姿が切り絵のように現れて横切ったような気がした。

「親分、弥助じゃないですかね」

 年上の弥助を辰治は呼び捨てにした。

 そう言われれば確かにそうだ。弥助は夏場でも寒そうに五尺四寸の背を屈め加減に足を前へ投げ出すようにして歩く。それが四十に近くなって何処となく貧相な陰りを帯びてきている。

――何処へ行くのか、と思うまでもなく富ヶ岡八幡宮沿いの河岸道へ出る路地へと消えた。

「長屋の路地から出てきたンですぜ、あの野郎は」

 辰治の物言いはピンと張った糸のような厳しさを伴っていた。

 辰治の口吻に非難の色が現われていても仕方ないだろう。跡目を譲るまで長兵衛は気づかなかったが、弥助は下っ引仲間にたかっては岡場所へ通っていたようだ。

無類の女好きですぜ、と弥助のことを門前仲町の番太郎が教えてくれたのは長兵衛が茶店の主になってからのことだった。世間では弥助がそうなら親分の長兵衛はもっと輪をかけた女好きだろう、と噂していたようだ。人は陰で誰から何を言われているか分かったものではない。

「政兵衛店へ行って確かめよう」

 長兵衛は辰治にそう言うと、ずんずんと足を速めた。

 三味線屋に到るまでの路地を挟んだ斜向かいに、政兵衛店の三尺路地が板壁に寒々とした細い口を開けていた。長兵衛はその両側の壁が鬩ぎ合う暗がりへ足を踏み入れた。

「おう、徳蔵はいるかえ」

 入り小口の右角に立つと、長兵衛は柿色の行灯の色を油障子に見て声をかけた。

「日暮て家移りの話はしないよ。明日また出直すンだな」

 と、つっけんどんな徳蔵の声がした。

「誰かと勘違いしちゃいないか、儂は長兵衛だ。聞きたいことがある」

 腰鷹油障子に顔をつけるようにして、長兵衛は叱るように言った。

 もう齢は七十に近いだろう。徳蔵が耄碌しても仕方ないが、十以上も若い女房のお勝の方が先に惚けてしまった。長屋の女たちが手を貸してくれるから何とか政兵衛店の差配が勤まっているようなものだった。

「なんだ、長の字か。儂はてっきり弥助かと思って」

 と言いつつ徳蔵は土間に下り立ち、かっていた芯張り棒を外した。

「弥助が来ていたのか」戸が開くのも待ちきれず、長兵衛は油障子越に声をかけた。

「ああ、手下の下っ引を住まわせてくれと連れて来て。長兵衛親分の頼みなら一も二もなく聞かなけりゃならないが、弥助のことはな」

 と、戸を引き開けると徳蔵は長兵衛を睨んだ。いたって弥助は評判が悪いようだ。

「済まないな、儂が跡目に据えた男が飛んだ眼鏡違いで。ところで普段、弥助はこの長屋に顔を出していないか」

「この長屋に顔を出すンじゃなく、お万の家へ勝手口からこそこそ出入りしているぜ。なんとも岡っ引の癖に泥棒猫のような真似しやがって。十手持ちも地に落ちたものだ」

 と、徳蔵は口を極めて罵った。

 弥助がそこまで嫌われているとは長兵衛にとって驚きだった。

「なんでも弥助は売りに出ている裏通りの角の荒物屋だった仕舞屋の沽券を買い取って近々家移りするようだ。それで下っ引が近くの政兵衛店にいれば何かと便利だと思ったンだろうが、差配として許すわけにはいかねえ。それをしつこく頼んできやがって、」

――野暮も極まったものだ、と徳蔵の顔は能弁に言っていた。

「そうか、仕舞屋の沽券を買うとは弥助はどんな金蔓を見つけたのか。どうせ碌なことではないだろうが。それで、弥助がお万の許へ通っているのはいつからだ」

 長兵衛は聞くべき事を切り出した。

「いつからと聞かれても返答に弱るが、随分と以前からだな」

「随分と以前、とは春吉の縊死があった以前からということか」

 そう言って、長兵衛は徳蔵の目の色を窺った。

「ああ、その事件より二年ばかり前だろうよ。鳥居って嫌な男が南町の御奉行に就いて間もなくだったからな」

――お前さんが変なやつに岡っ引の跡目を譲ったばっかりに、といわんばかりの恨みがましい眼差しで徳蔵は長兵衛を見た。

 しかし、それほど早い時期から弥助はお万の家へ出入りしていたのかと驚いた。まだお重が亡くなる三年も前のことだ。そういえばお重が借りてやった永代寺町の棟割長屋を出て、黒江町の裏店に屋移りしたのが三年前だったか。

 当時すでに弥助は三十を二つ三つ出ていたが、まだ独り者なのがお重の気がかりだった。ああした所で生まれ育ったから正面から女に惚れるのが苦手なのかね、と心配したりしたものだ。だがそれは子に恵まれなかった儂とお重が子供を特別なものだと勘違いしていたからだ。子供は真っ白でもなければまっ黒でもない。大人の縮図に過ぎないのだと、今の長兵衛なら自信を持って言えるが、当時のお重と長兵衛は世間の三十男と弥助を別物だと思い込んでいた。手元に引き取ってから二十年近く育てて情に眼鏡が曇っていたのだろう。

「女郎の生んだ子を裾継でも持て余していた長の字が引き受けた、と聞いた時には普通の者にはできないことだと頭が下がったものだ。今でもその気持ちに変わりないが、問題はそいつがどんな男かっていうことだ。子供はいつまでも子供じゃない、齢が到れば知恵もつくし色気もつく」

 そこまで言って、徳蔵は言い過ぎたとばかりに首を竦めた。

 弥助のことについて他人から指摘されるのは長兵衛にとって辛いものがある。引き取ったときが既に半分大人になりかけていたし、あっちの方は手がつけられないほどませていた。女郎の中で育ったため何かと面白がって男女の交わりを語って聞かせるだけではなく、馬鹿なことに子供だった弥助の目の前で実際に演じて喜ぶ客もいたようだ。そんな子供がなぜか哀れでならなかった。それが甘くなった元かもしれなかった。

「面目ない、子供を育てたことがなかったから、ついつい甘やかし過ぎてしまった」

 と、長兵衛が盆の窪に手をやっていると「親分」と辰治の声が背後から叱った。

「親分、差配さんに聞かなければならないのは弥助とお万の仲ではなかったかと」

 話が明後日の方まで行きかねないのに、辰治は痺れを切らした。

「親分、お万は三味線の師匠だけでは暮らせないから相仕として座敷にも出ていたとして、料理茶屋が商い停止となっていた間、何をしてたつきの糧にしていたンでしょうか」

 と、辰治が後ろから長兵衛をけしかけるように聞いた。

「おう、それだ。徳蔵から見て、お万はどうやって暮らしていたのか、分かるか」

 長兵衛は辰治に背中を押されて前のめりになりつつ問いかけた。

 徳蔵は辰治の言葉に頷きつつ「旦那からお手当を貰っているはずだよ」と呟いた。

「お万の旦那とはいったい誰だ」

 と聞きながら、長兵衛は顔を潰されたような面目なさでカッと頭が熱くなった。

 町内のことなら何でも知っているはずだと自負していたが、実はそうではなかったのだ。

「知らないのか、入舩町の親分だよ」と言ってから、徳蔵は怪訝そうな顔をした。

「なにお、為安がお万の旦那だったのか」と叫びそうになって、長兵衛は口を噤んだ。

 目を白黒している長兵衛に、徳蔵は「本当に知らなかったのか」と重ねて聞いた。

――ああ、本当に知らなかった、と喉まで出かかって長兵衛は固く口を噤み続けた。

 なんてこった、儂の面目は丸潰れだ。

長兵衛は岡っ引として四十の坂を越えてから怠惰だった自分を恥じた。今にして振り返ってみると、足で稼がなければならない聞き込みも下っ引に任せっぱなしだったような気がする。だから、そうした世情の噂話が耳に入りにくくなっていたのだ。

「それなら弥助は為安の女に手を出していた、ということなのか」

 やっとの思いでそう呟くと、長兵衛は顔を暗くして俯いた。


 磯源に戻って長兵衛は客の退いた座敷に胡坐をかいた。

「親分、どういうことなンですかね」

 傍に座った辰治が呟くように聞いた。

「どうやら儂はここ十年ばかり岡っ引として碌に仕事をしていなかったようだ」

 返答にならないことを呟いて、長兵衛は肩を落とした。

「それなら今からでも怠けていた埋め合わせをして下さい」

 辰治は長兵衛をけしかけるように言った。

――ああそれなら、と長兵衛はゴソゴソと雪駄に足を落として立ち上がった。

「何処へ行こうとなさるンで」辰治は長兵衛の引き締まった顔を見上げた。

 表へ向かって歩き出そうとした足を止めて「言わずと知れたこと、事件の口書を見なければ仔細は分からないだろうぜ」と、長兵衛は決然とした面持ちでこたえた。

 何処へ行こうとしているのか、と思いつつ辰治は長兵衛の後を追った。

 間もなく、長兵衛が路地から門前仲通に出ると鳥居の方へと向かったので、何処へ行くつもりか辰治に見当がついた。事件の口書があるのは町奉行所と事件のあった町の自身番だ。口書を清書して町奉行所へ差し出し、下書きとなった原本は反故にするのでなく自身番に保存される決まりだ。春吉の件も玉之助の件も富ヶ岡八幡宮脇の入堀の土手下で縊死し自害したとして処理された。結局は自害とされて事件扱いされなかったが、そう処理したのは町奉行所で取りあえずは関わりのある者から口書を取って差し出さなければならない。したがって二つの事件一件綴は門前仲町の自身番に残されていることになる。

 門前仲町の町役は嘉右衛門という老舗呉服屋の隠居が勤めていた。齢は長兵衛よりも三つばかり上だった。門前仲町の自身番に長兵衛が顔を出すと、

「おやどうした風の吹き回しだね、これは珍しい。長兵衛さんは茶店の親父になっと思っていたが、どうやら納まりきれないで昔の岡っ引に戻ったようだね」

 と、町役がからかった。

 書役と番太郎は夕餉でもとりに家へ帰っているのだろう。町役の他に誰もいなかった。

「町役さん、三年前の春吉の件とつい先日の玉之助の件の口書を見たいのだが」

 単刀直入に、長兵衛は切り出した。

 町奉行所へ差し出したものの下書きになったとはいえ、口書は取り調べの端緒になる大事なものだ。長兵衛が岡っ引ならまだしも、十手を返上した町方下役人でもない者に口書を見せるわけにはいかない。そうした道理は十二分に承知した上で長兵衛が頼み込んでいるのが分かっているだけに町役は「うむ」と唸った。

「岡っ引ならまだしも、長兵衛さんは十手を返上したただの町衆だ。それに大事な口書をさあどうぞ、と見せるわけにはいかない。町役としての勤めもあることだから、」

 と、嘉右衛門は鶴のように細い首を捻った。

 だが突然「よいしょ」と手炙りに両手を突いて立ち上がると、

「儂は夕餉に家へ帰らしてもらうよ。長兵衛さん、四半刻ばかり留守を頼む。その間に何をしようと儂は知らないことだからね」

 と呟きながら上がり框まで来ると長兵衛を見て、ちびた下駄を履いて帰って行った。

 四半刻ばかり時をやるから勝手に口書を見るのなら町役の預かり知らぬことだ。つまり、四半刻の間に見ろという謎かけだった。

 引き摺るような下駄の足音が遠ざかると、長兵衛は切り落としの座敷に上がり書役の文机の後ろにある書棚にとりついた。辰治も座敷に飛び上がったが、長兵衛が書棚を独り占めしたため手持無沙汰に長兵衛の肩越しに首を伸ばした。

「おい辰、暗くていけねえ。行灯をここへ」

 と、長兵衛は目が薄いのは齢のせいではなく、暗さのせいだと叱るように言った。

 天保通宝ほどの大きな字で書かれている表題が読めないのは明かりがないためばかりではないが、辰治は従順に角行灯を長兵衛の手元へ寄せた。

「ふむ、ここは天保十三年。そうすると次の紙の山か」

 と呟きながら積み重ねられた書類を見ていたが「これだ」と声に出した。

長兵衛の手には『春吉自害一件』と書かれた表紙のついた紙縒りで綴じられた冊子が握られていた。長兵衛は顔を近づけ、それを斜めにして角行灯の明かりに曝した。しかし間もなく「おい辰、一つ読んでくれないか。儂の目は齢のせいで昼のお天道様の明かりでないと文字が拾えねえときていやがる」と音をあげた。

 長兵衛に代わって辰治が冊子を行灯にかざすと「ふむふむ、」と読みだした。

「親分、お万と春吉はあの夜、大黒屋の屋敷に呼ばれていますぜ。本所のある寺の本堂の普請があって、上棟式の後の宴に呼ばれて行っていたようです。その帰りのことわっちは春吉と佐賀町は万波の船頭三五郎の船で送られてゆく途中、春吉が八幡宮の入堀に着けてくれというから入堀へのり入れて春吉一人を下して船で山本町の河岸まで帰った、と」

 そう読み上げて、辰治は不審そうな顔をあげた。

 お万が長兵衛に語った話と口書の内容は明らかに食い違っている。この違いはなんだろうか。料理茶屋平清の座敷を早い宵の口に下がって帰ったとお万は長兵衛に語った。そうしなければなになかった理由とは何だろうか。

 続きを読むように促すと、辰治は不振そうな表情のまま紙面に視線を落とした。

「次に船宿波万の船頭三五郎がお万の証言に相違ないと、言っていると、」

 と言いつつ、辰治はぱらぱらと紙面を捲った。

「えーと、平清の女将が春吉とお万が玄関を出たのが五つ過ぎだと、証言してますね。門の掛提灯の明かりに二人の姿が浮かんで見えて、右手へと黒板塀に消えた、と」

――二人だと、と辰治が眉間に皺を寄せて顔をあげた。

 長兵衛にお万が語った話を思い起こすと、あの夜は箱回しも入れて三人だったはずだ。とすると、箱回しはいついなくなったのだろうか。

「おう、橘家へ行くぜ」

 そう言うが早いかすぐに立ち上がると、長兵衛は急いで雪駄を履いた。

 橘家の女将に聞かなければならないことがあった。深川は芸者の置屋を子供屋と呼んだが違うのは呼び名だけではない。置屋の場合は別に芸者を差配する見番があって、客は見番を通じて呼びたい芸者を名指しする。だが深川の場合は見番がないためじかに芸者を抱えている子供屋に声を掛けることになる。つまり、深川の子供屋の女将は置屋の女将の仕事と見番の仕事も兼ねてやっていることになる。橘家の女将に聞けばあの夜の春吉の相仕と箱回しとお座敷にはどこから声がかかっていたかが分かるはずだ。

 磯源は箱の入らない小料理屋だが、商売柄辰治もそうしたことは承知している。なぜ長兵衛が急に生き生きしだしたか瞬時に得心した。

門前仲町の自身番から山本町の橘家へ行くには再び三味線屋の前を通らなければならない。二人して急いでいると「おや、かくれんぼでもしているのかえ」と店先のお節が声を掛けた。短暖簾を手際よく仕舞い込み、これから亭主の力を借りて大戸を下ろそうとしているのだろう。

「かれんぼをしているのはおいらたちじゃないぜ。三年前の事件の方だ」

 通り過ぎる一呼吸ほどの間に、辰治はそう教えた。

 まさに辰治の言うとおりだ。かくれんぼしていた真実に光を当てようとしている。長兵衛が当番月の為安に後を任せたが、碌な取調べをしなかったばかりか真実を捻じ曲げている。その理由が何なのか、もうじき分かるだろう。

「おう、邪魔するぜ。女将はいるかい」

 と、長兵衛は岡っ引さながらに格子戸を引き開けた。

玄関土間の向こうには式台があり、ぴんと張った真新しい障子が閉ててあった。

「こんな忙しい刻限に子供屋へやって来る野暮天は誰かえ」

 声とともに明かりと足音が近づき、膝をついた女将が障子を開けた。

「なんだい、元岡っ引の長兵衛さんじゃないか。わっちは弥助の野暮天かと思ったよ」

 と、岡っ引をも恐れない物言いで女将は長兵衛に笑って見せた。

 昔からそうだが、お松は縦よりも横のほうが大きいのではないかと思える体躯をしている。年の頃は四十の半ばを過ぎたはずだが、市松人形のような顔立ちと白い肌をしていた。

「そうよ、その元岡っ引の長兵衛が三年前の事件の辻褄合わせに来たンだ」

 と、長兵衛は左手で右袖をたくし上げて弥蔵に構えた。

「ヘンだ、非番月だからと探索を放擲した岡っ引が何を今更。春吉が野暮な御政道の禁令を無視して金糸銀糸の裾模様で押し通したからって血祭りに上げられた。お前さんはその張本人じゃないけど、為安に後を任せて頬被りしたンじゃなかったかえ」

 鼻息も荒く、お松は長兵衛を睨みつけた。

 そういわれれば面目ない。長兵衛は為安の調べがおかしいと言い縋るお松に非番月を楯に探索から手を引いた。それを今更、とお松が詰るのはもっともだ。長兵衛はきっちりと頭を下げて、

「ちょいと教えてくれ。春吉が縊死した晩の箱回しは何処の誰だ」

 長兵衛は身を乗り出し、岡っ引の眼差しでお松を睨んだ。

 するとお松は「ああーあ、これだからね」と大袈裟に慨嘆した。そして、黙ったまま天井を指差した。長兵衛は指先の天井を見上げて「この家に二階があるのか」と聞いた。

「ナニいってんだ。あの世へ行っちまったよ、今日が初七日だった」

 お松は口の端に嘲りの笑みを浮かべて、憐れむように長兵衛を見た。

「今日が初七日ってことは芸者玉之助のことか」

 と、長兵衛の後ろから辰治が声を放った。

「ああ、ウチにいたときは半玉の玉次郎。本名はお玉といってね、春吉の妹さ」

 そう言うと島田髷を揺らして首を振った。

「二人は貧乏な棒手振の娘で八人兄弟さ。春吉が長女でお玉は末っ子。芸者になった姉が白いお飯が食えるって教えたンだろうね、年端もいかないうちからウチに来て。春吉の箱回しをさせていると、門前の小僧よろしく芸を覚えてね。独り立ちさせようかと思っていた矢先にあの事件だ。姉は岡っ引に殺された、とお玉は言ってたけどね」

 と言って長兵衛と辰治が目を剥いたのに、お松はこくりと頷いた。

 しかし岡っ引に殺されたとは尋常ではない。玉之助は誰から何を聞き出したのだろうか。

「ウチも商売柄ことを荒立てたくないのでお玉を取り合わなかったら、とっとと商売仇の桔梗家へ移ったンだよ。春吉と違ってお玉は二枚証文じゃなく自前芸者だったから、立て替えていた衣装代などの借銭を桔梗家が払って、わっちも事を納めたのさ。それがこの七日前に春吉と同じように縊死したと」

――それはないだろう、とお松は首を振った。

――ああ、それは尋常じゃない、と長兵衛も首をゆっくりと横に振った。

「親分、もう一度自身番へ引き返して玉之助の一件綴を改めてみましょうや」

 辰治がけしかけるように畳み掛けた。

 桔梗家へ聞きに行くのはその後でも良いか、と長兵衛は頷いた。自害として年内の処置を望む弥助が差配して関わりのある者から口書を取り、玉之助一件として整えているはずだ。有馬佐内の旦那に差し出すための体裁は整えてあるだろう。

 山本町の三尺路地を今日は何度通ったことだろう。そう思いつつ急いでいると、十間ばかり先の角の板壁から巨大な人影が湧いた。腰に差料がないことから浪人者ではない。長兵衛は足を緩めず突き当たるように進んだ。影が腰を落として身構え両手を胸の前で固めた。匕首を引き抜いて長兵衛が来るのを待っているのは明らかだった。

 長兵衛は右手を懐に入れて、十手代わりに差してきた細身の薪を握り締めた。

「辰、後ろを用心しろ」前に視線を据えたまま、長兵衛は声を放った。

 喧嘩に匕首を使うのは博徒かやくざだ。町衆は決して得物を手にしない。博徒ややくざは殺す目的があって立ち向かって来るのだから、どんな卑劣な挙に出るのも躊躇しない。細い路地の場合は前後から同時に突きかけるのが彼らの常套手段だった。

「お前は幕裏の銀次じゃないか。匕首を引き抜いておいらを殺そうっていうのか」

 はたして、辰治が後ろから迫る男に声を放った。

 幕裏とは門前仲町の紅白幕の後ろ、つまり路地裏の掛け小屋で行われる博奕場のことだ。胴元は十手持ちの為安で、岡っ引が二足の草鞋を履くのは珍しいことではなかった。すると前から来る大男は賭場で用心棒を勤める仙五郎か。

「力士崩れの仙五郎、儂を殺れと誰に命じられた。親分の為安か」

 ことさら大きな声で、長兵衛は叫んだ。

 山本町の路地で叫べば薄い板壁一枚隔てた家の中にいても耳元で呼びかけるのと同じだ。仙五郎と名を呼ばれて目の前の男の腰が引けた。すでに目玉がギラギラと光るのが見えるほど近づいている。自棄になったように仙五郎が腰を落として突いてきた。それを迅速の払いで匕首ではなく篭手を薪で強く打った。十手ほどではないが薪の一撃も効き目があり、仙五郎の手から匕首が飛んだ。が、そのまま体当たりに来る大男を狭い路地では避けようもない。長兵衛はぶちかましを胸に食らって吹き飛ばされ、三味線屋の大戸に叩きつけられた。路地に倒れた長兵衛に大男がのしかかって来ようとしたところ、不意に「ああっ」と悲鳴をあげた。仙五郎の肩に心張棒が打ちつけられていた。

「この界隈で悪さをする者は三味線屋の長治が許さねえ」と、甲高い声が響いた。

 山本町には岡場所もあれば何軒かの子供屋もある。向こう見ずな腕っ節自慢の破落戸が入り込みやすいが、それを許しては山本町が悪の巣窟になる。この町に暮らす男たちは体を張って町を守っていた。

「おい巳ノ吉、縄を持って来い。縛り上げてやる」

 店の奥へ向かって叫びながら、長治は仙五郎を撃ちつけた。

 形勢不利と判断したのか、仙五郎と銀次は狭い路地をばらばらに逃げ出した。

「辰、後を追うな。それより自身番へ急ごう」

 長兵衛は声をかけて、急ぎ足に門前仲町へ向かった。

 自身番には番太郎が手炙りの番をしていた。長兵衛の顔を見ると「また十手持ちに戻ったんですかい」と声を掛けてきた。十年来の番太郎も三十過ぎといい年になっている。

「いえね、目付きがあの頃に戻っていなすったから」と、聞きもしない言い訳をした。

「おう、玉之助の一件綴を見せてくれ」

 と、長兵衛は岡っ引当時の口調で命じた。

 すると番太郎は素直に応じて、棚から真新しい冊子を取りだした。

「有馬の旦那の御意向ですかい。門前仲町を縄張りとする二人の岡っ引があんまり無茶をするものだから」と、為安と弥助のことを非難した。

 そうだったのか、と長兵衛の胸の内で呟く声がした。為安と弥助が碌でもないやつだと思っていたのは長兵衛だけではなく、町の人たちはとうの昔からそう思っていたのだ。ただ長兵衛の耳に入らなかったのも弥助を長兵衛夫婦が引き取って育てた遠慮からだった。

 番太郎の差し出す一件綴を辰治が受け取り、しゃがみ込むと上がり框に移された角行灯に翳した。

「玉之助の一件で口書を取られているのはお万と箱回しの豆太郎、それに縊死体を最初に見つけた船頭の三五郎でさ」

「三年前と箱回しが違うだけで同じ取り合わせじゃないか。安三郎、豆太郎とは桔梗家の半玉か使用人か」と、長兵衛は番太郎に聞いた。

「いや、豆太郎はお万姐さんの内弟子でさ。大事な三味線を預けるには身内のほうが良いとか言って、二人前の花代をせしめているという話だ。そんな無茶が通るのも為安親分の睨みが利いているからに違いないが」

 番太郎はそうこたえて、「長さんがいた頃はそうじゃなかった」と付け足した。

 自尊心をくすぐられるような面映さと、弥助に十手を継がせた自分の不明さに恥じる気持ちが綯い交ぜになって胸を掻き毟られた。

 春吉の一件も旦那が非番月なのにかこつけて為安に後を譲ったが、最後まで自分が事件として始末していれば玉之助も死なずに済んだのかも知れない。そうした思いが募って、

「辰、幕裏の賭場へ乗り込むぜ」と、長兵衛はいきり立った。

 すると辰治は慌てて袖を掴んで首を横に振った。

「親分、おいらと親分の二人が乗り込んじゃ駄目ですぜ。有馬の旦那に事の顛末を報せて差配を仰がなくちゃ。それが岡っ引としての決まりのはずですぜ」

 色をなして、辰治が長兵衛を引き止めた。

 辰治のいう通りだ。岡っ引は町方同心が私的に使う者に過ぎない。十手を笠に着て悪行を働く手合が絶えないため御上から何度も岡っ引使用禁止令が出されたほどだ。したがって岡っ引にはほとんど何も権限はなく、下手人を捕縄で縛ることすら禁じられていた。

「ああ、それもそうだな。道理を通そうとする者が無理を働いては何にもならねえ、か」

 そう言って、長兵衛は肩から力を抜いた。

 明日にでも見廻りに永代橋を渡ってくる有馬の旦那に三年前の一件から今回の件まで顛末を包み隠さず申し上げるしかない。その結果、旦那がどのような判断をなさるかを見守るしかないだろう。なにぶんにも、自分は十手を返上した身なのだから。

 そう思いつつ、自身番の腰高油障子を引き開けた。


 翌朝、いつものようにお菊とお米の三人で永代橋袂へ出掛けた。

 聞き込んだことを有馬佐内に話すつもりで、見廻りに橋を渡って来るのを待った。

 しかし釜に火を入れて支度していると、店の前で法被姿の職人たちが立ち話するのを小耳に挟んだ。何でも払暁に入舩町の角で岡っ引が縊死したと話しているようだった。

そうした事件があったのではおそらく夜明けを待って自身番から使いの者が走り、有馬佐内と二人の手先は早船で門前仲町へ行ったのだろう。したがっていくら待っても有馬の旦那が四つ過ぎに茶店に声をかけて深川へ見廻りに行くことはないことになる。

「済みませんが、なんという名の岡っ引が縊死したンで」

 いきなり茶店から顔を出して尋ねる茶店の親父に、法被姿の男たちが顔を見合わせた。

「弥助、とかいったか。縊死したというが、あれは地蔵吊りだな」

 と、年嵩の職人が物知り顔に語った。

「その地蔵吊とは一体何でしょうか」と、長兵衛は聞いた。

「おいらたち石工なら誰でも知っているが、作った地蔵様を運ぶには首に紐を掛けて背負うのさ」と、年嵩の石工が一日の長を示すように胸を張った。

 地蔵吊りとは初耳だった。つまり石工たちは地蔵様を作るとそうやって運ぶというのだ。為安が後ろから首に紐を掛けて後ろに向き、腰を撥ね上げれば相手は縊死するのと同じ状態になる。首を縊ったのだから声も出せないし手足をばたつかせる間もなく昇天する。それを肩から下ろさずに木の枝に下げれば、縊死したのと見分けがつかなくなるというわけだ。春吉と玉之助、それに弥助の縊死はすべて為安の仕業ということになるのだろう。為安は元石工だった。

 すぐにも門前仲町『磯源』へ駆けて知らせに行こうと思ったが思い止まった。既にそうした調べはとっくの昔についているだろう。立て続けに同じような手口で縊死したのでは南と北と差配違いでも有馬の旦那も為安をそうそう見逃すわけにもいかないだろう。

店に入ると長兵衛は釜に炭をくべながら気を鎮めた。齢は争えないし、すでに十手を返上した老人に過ぎない。ちょっとした昨夜の立ち回りですら、今朝は起きるのに腰が痛くて難渋した。

 当然のことだが御用の筋から誰も呼びに来ないため、長兵衛は世間の片隅に忘れ去られた者のように意気消沈した。普段でも口数の少ない長兵衛が塞ぎ込んだため、お菊やお米はどこか具合が悪いのではないかと心配した。

 陽が大きく傾いた頃に、有馬佐内が二人の手先を従えて茶店に寄った。

「為安も昨夜のうちにお万の家へ押しかけてお万を縊殺した後に、その場で本人は匕首で心の臓を刺し貫いて自害していたぜ。これで門前仲町を縄張りとする岡っ引は南北とも代わることになったが、いっそうのこと長兵衛が十手持ちに戻ったらどうだい。それがかなわぬとすれば誰かを弥助の後釜に据えなければならないが、誰が良いかな」

 疲れきった顔をして有馬佐内は緋毛氈の縁台に腰を下ろした。

 三年前のあの夜に春吉がどうして入堀へ行ったのか、おそらく辰吉との仲を知っていたお万が為安から頼まれて「辰吉が富ヶ岡八幡宮脇の入堀で待っている」とでも言付かったかのように耳元で囁いたのだろう。だからお万が他に男をつくっても為安は我慢していたのだろう。が、しかし弥助がお万の口から春吉殺しと玉之助殺しの下手人を聞き出して為安を脅していたに違いない。それでついに昨夜の凶行に及んだのだろう。

 急に雲行きがおかしくなって風が出た。孫八が「旦那」と早く切り上げるように促した。

「弥助は儂の眼鏡違いでしたが、辰治なら間違いないと思いますが」

 と、長兵衛は辰治を推した。

 磯源の親方には恨まれるかもしれないが、門前仲町の人たちからは歓迎されるだろう。

「おお、辰治か。辰巳(深川)を治めると名に出ているな。あの若者なら己の欲望に負けることはないだろう」

 そう言ってからからと笑うと、有馬佐内は立ち上がって鉛色の空を見上げた。

 空からはついに白いものが舞い始めていた。瞬く間に雪は簾となって辺りの色を消した。孫八に引き摺られるようにして有馬佐内の姿も百二十八間もの橋へと消えた。

長兵衛は去ってゆく有馬主従を見送ってから、店へ入ろうとして足を止めた。

微かな臭いがした。遠い昔に嗅いだ憶えのある臭いだった。それは江戸へ流れ込んだ浮浪人たちの放つ垢と汗と体臭の入り交ざった異臭として長兵衛の記憶に甦った。

長兵衛はとっさにお菊を表に出してはならないと思い、

「お菊、今日も早仕舞とするぜ。奥座敷を片付けてくれないか」と声を掛けた。

 お菊は「あいよ」と返事をして、奥座敷の仕舞に取り掛かりに奥へ入った。それを見届けてから、長兵衛は戸板を立てかけた隣の板壁との隙間へ足を進めると、

「出てきな。そこにいるのは分かっている」と囁いた。

戸板が浮いて身の丈五尺二寸ばかり、三十年恰好の頬の削げた薄汚れた男が出てきた。震えるような薄木綿の着流しに羽織った江戸縞の羽織の襟元からから綿がはみ出ていた。

「お前は近江屋の手代だった平治だな。八丁堀が目の色をかえてお前の兇状首を追っているぞ。お菊と一目だけでも逢いたい気持ちは分かるが、よしてくれないか」

 声を殺して長兵衛は平治を睨んだ。

「お菊にとってお前は既に死んだ男だ。今更のこのこお菊の前に出て何を言うつもりだ」

 この男に情をかけることはできない。心を鬼にしなければと、長兵衛は身構えて奥歯を噛み締めた。何があろうとお菊を守らなければならないと鋭い眼差しで睨んだ。

一瞬男は目を吊り上げて憤怒の色を刷いたが、やがて哀しそうに目元を和ませると小さく頷いた。そして身を翻すと何も言わずに小走りに雪の降りしきる永代橋へ向かった。

 長兵衛は見送ることもなく、何事もなかったかのように戸板を引き出していると、

「お父さん、誰かいたの。声がしたようだったけど」

 と、お菊が店の中から声を掛けてきた。

「いや、空で唸る木枯らしだろうよ。八丁堀の旦那が帰ったきり、誰もいやしないぜ」

 そう言って、雪簾に消えてゆく橋上の男の後ろ姿を目で追った。

 待ち続けた男はついに待ち続ける男としてお菊の胸の中に仕舞い込むしかないだろう。

 平治には悪いが、お菊をいつまでも人待ち女にしておくわけにはいかない。大川河口に架かる永代橋をお菊の人待ち橋にしてはならない。お菊の長いこれからの人生に思いを巡らして、一つ辰治の尻を叩いてみるとするか、と思い定めて戸板を両手で抱えあげた。                終


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