ロッカールーム
もう、戻らなければ。感傷に浸る間もなく、私の頭は習慣的にそう思った。こんな時でもバイトの事へ頭が回るなんて、なんてずれた人間なんだろうと自分のことながらそう思った。
私の手が倉庫の取手に触れる。それを思い切って横へと引いた。
―――がっ
「?…あ、れ」
開かない。
なんでだろう。目の当たりにした事実を受け入れることができなくて、私はもう一度腕に力を込める。
―――ガッ
やはりだ。開かない。外に何か突っかかり棒のようなものでもあるのだろうか。いや、もしかしたら押すタイプのドアだったのかもしれない。
入ってきた時は明らかに引き戸だったそれを、私は忘れたふりをして押してみた。もちろん開くはずもない。私はあきらめきれずにさまざまな方向へドアを引っ張った。
手前へ引いたり。車庫のようへ上へ押し上げるたり。自動ドアのつもりなのか、手前に足をタンっと突き出し、戸が反応してくれるのを待ってみたり。
(まさか内側からは開けられない仕組みだったとか!?)
そんな事を考えてみるも、こんなそこらによくあるような倉庫が、自動ロックという高機能を持つとも思えなかった。
私は、はあはあ言いながら戸を押したり引いたり蹴ったりした。だが倉庫の戸は虚しさに拍車をかけるような音を立てるばかりで、まったくその口を開こうとはし無かった。重い扉は、その内部に私という食物を閉じ込めて完璧に口を閉ざしてしまったのだ。まさかこのまま消化されやしないだろうか。そんな馬鹿な話…と思う反面、あったらどうしようという不安が小さく首をもたげる。
まったく微動だにしない扉を前に、私の中の不安と苛立ちがつもりにつもり溢れだそうとしていた。ネズミの駆ける音もしないその場所で、私という存在だけが音の発信源となる。いまいるこの場所の「空気」「雰囲気」といったものは、今そこにいる唯一の生き物である私にゆだねられていたのだ。きっと、今私が笑っていれば、どんなに暗い倉庫の中でも「楽しい場所」という代名詞がつけられたかもしれない。だが、「唯一の生き物」「その場の空気を握る存在」である私は、どうしようともそんな気分にはなれなかった。
「何なのよ!」
大声を出すと、倉庫の中に自分の声がわんわんと響いく。その場の「雰囲気」は一気に急降下を始めた。もう光が差し込むことが無いかのような、絶望の糸が張り詰める。
鼓膜に痛い自分の声の反響音に耳を抑えて、私は自分を落ち着かせようと深く息を吐いた。
「まったく、何なのよ」
出てくる言葉も、心で思うところもそればかりだった。
戸に寄り掛かり俯くと、ひやりと冷たい地面が見えた。
ずっとここに閉じ込められたままなのだろうか。それは嫌だ。だが本当にそうなったら?
不安が私に尋ねる。
いやだ。私はすかさずそう答えた。そんなの嫌だ。絶対嫌だ、と。
仕方が無い事だ。ずっとこんな場所に一人でいるなんて、だれが尋ねられてもそう思うはずだ。冷たいし、暗いし、じめじめしているようで乾燥しているようでもあって。テレビもラジオも、ミュージックコンポもない。普段はありがたいはずの、雨風を防いでくれる屋根も、今では果てしなく邪魔な存在となっていた。空も見えないので、ここで暮らすとしたら私には昼夜のない人生が待っているのだろう。
…いやだ。
まただ、わがままな私が首を持ち上げる。いつもはそんなものいもしないのに。今日はいろんな私が顔を出しては帰って行く。普段は怒鳴ったり、泣いたり、駄々をこねたりなどしないのに。きっとあいつのせいだ。
「帰りたい。帰りたいよ・・・」
膝を抱えて、私の体は小さく小さく丸まった。顔は自然と膝に埋もれ、自分がどんな顔をしているのか、自分ですらもわからない。きっと情けない顔には違いないのだろうが。
そう思うといやな思考はいくらでも出てきた。
どうせ、私というバイト一人が消えたところで、困る人間は一人も居やしない。
暗いもの、黒いものが、自分という存在の中からにじみ出る。それは倉庫の暗闇へと溶け、濃厚な負の空気を作りだしていた。
自分の存在が何なのか。生きてる事に意味はあるのか。自分の必要性。この社会の必要性。生きてることの必要性。死についての思想。
すべてがなんとも思えなかった。どうでも良い自分がいた。
そう言えば、なんでこんな生きる希望もないのに自分は生きてきたのだろう。
簡単だ。死にたくなかったから、ただそれだけではないか。
じゃあ、生きたいのかと尋ねられると、その理由も見つからず素直に首を縦に振ることはできなかった。別に、誰に訊かれたというわけでもないのだが。
いつの間にかいつもの自分を取り戻しつつあった。泣いたり、怒ったり、怒鳴ったり、笑ったり。「興奮」というのだろうか。そんな、通常では存在しているかどうかも疑問だった喜怒哀楽の波は、引き潮へと向かってく。それと同時に、私は負の空気で埋め尽くされようとしているこの場所を受け入れようとしていた。悲しいことかもしれないが、今の自分にはこの暗く冷たい倉庫という箱がお似合いな気がしたのだ。
「きゃっ」
後ろにがくりと身が揺れる。倉庫が口を開いたのだ。
私はいきなり動いた戸に反応しきれず、バランスを崩してそのまま後ろに倒れそうになった。
「大丈夫?」
上を見ればどこか見覚えのあるおばさんの顔。
ああ。と私は一旦動きを止め、そして落着きを取り戻す。目の前に現れたおばさんをじっくり観察してみれば、そのおばさんの正体を見破ることができる沢山の情報がありあふれていた。
見慣れた服装。淡い緑の作業着に、同じ色の三角巾。白いゴム製の長靴。右手に持てれたモップ。
掃除のおばさんではないか。
私のバランスの崩れた体は掃除のおばさんが受け止めてくれていた。呆然とする私を、同じように茫然と見下ろすおばさん。
「すみ、あ、ありがとうございます」
私は彼女に支えられたまま辺りに目をやる。
どうやらここは掃除用具の溜め置き場だったらしい。よく見たら積み上げられた段ボールには、洗剤の名前などが書かれているではないか。
自分で入っておきながら、そんなことにも気付かなかった私は、自分自身に少々幻滅をした。
「山田さん、遅刻よ!」
早足の私にぴしゃりとした声が飛ぶ。
レジ部責任者の菅原さんだ。彼女の注意を受け、私は亀のように首をすくめた。なにしろ彼女にはなかなかの迫力がある。
「すいません」
素直に謝る私へ、彼女は表情を和らげた。
「珍しい事だし、そんなしつこく言うつもりは無いけど、無理してるなら言ってちょうだい。この頃の皺寄せはあなたばかりに回ってるんだから。今月の休みも呼び出しちゃったし、」
心から申し訳ないと思っている言葉だった。確かに最近の私のシフトときたら、決められた既定の時間を越している。月に100時間。普通は一人のバイトをこんなにも働かせてはいけないはずなのだが。
「大丈夫ですから」
嘘ではない。今の私と来たら、バイト以外する事が無いのだし。
「そう?休みが欲しかったらいつでもいってね。学生の子なんかは遊ぶ時間欲しさでいきなり『今日休みます』とかいってくるんだから。困るったらないわ」
「ははは、そうですか。はい。じゃあ休みたくなった時はお願いします」
四十代半ばの彼女は、たまに母親のような顔を見せる。バイトの中には彼女を嫌う者もいるが、私には理解不能だ。
だいたい、若いバイトは自分の失態を注意されている事を判っていないのだ。注意されるとすぐにバイト仲間に陰口し、口うるさいばばあだの何様のつもりだだのと言うのだ。まったく。なに様はどっちだ、とたまに思う。
でも、結局はそんな些細なこと、自分はなんとも思っていないのだろう。どうでも良いという、色のない感情。
***
沢山のロッカが面白い位にいくつも並ぶ。上と下の二段に分かれているが、下の段は見るからに使いづらそうだ。自分が上の段でよかったと心底思いながら、仕事を終えた私は軽い着替えをすませようとしていた。
私がこの仕事を始めてから約一年。
ただのレジ打ちである事には変わりはないが、特に不満はない。
もしかしたら自分の仕事はこのままレジ打ちで終わるかもしれない。そこら辺にあるようなスーパーに勤め、そこら辺にいるようなフリーターにまぎれ、そこら辺にありそうな人生を送る。目的なく生きてる自分を認識するものの、矯正しようなどとも思わない。自分の人生はきっとこのまま音沙汰もなく終わる事だろう。そう思う。
(…そんなもん、だよね)
そう思うと、自然に心が苦くなるのはなぜだろう。
心に味覚など存在するはずもないのに。
「何変な顔してんだ?」
「ぇ?」
気がつくと、そこには何と賢太がいた。ロッカーの戸の裏に掛けてある、顔くらいしか映らない鏡の中に。
こいつは鏡なら何でもいいのか?
私はあきれながらもロッカーを触れる手に力を入れる。
バンっ
閉まるロッカーの内側で、中にかけてあった鏡が落ちたのか、ゴトンという音がした。一番近くにいたパートのおばさんが、不信な目で私を見ている。
はぁ、と私はため息をついた。
先ほどの人生の話だが、“音沙汰もない”とい言葉はなかった事にしよう。なぜなら、賢太という存在が、今さっきも私の目の前にあった時点で、私の平凡な人生は全くの“非現実的な人生”へ変わってしまっているのだから。