第一章:転生と認識、そしてわずかな違和感
目覚めた瞬間、まず視界に広がったのは、見慣れない天蓋の内側に揺れる繊細な刺繍だった。
淡い金糸で織り上げられた蔦模様が、朝の光を受けてわずかに煌めいている。
……ああ、これは間違いなく、庶民の部屋ではない。
むしろ、行き過ぎた趣味の良さを感じさせる、貴族の寝室だろう。
身体を起こすと、絹のシーツがするりと音もなく滑り、肌に触れる感触が妙に現実的で、逆に夢ではないことを強く主張してくる。
私は、ゆっくりと自分の手を見た。
白い。
細い。
そして、見覚えがない。
爪の先まで手入れされたそれは、かつての私の生活圏には決して存在しなかった種類の手だ。
ここまでくれば、結論はそう難しくない。
——転生、である。
しかも、ただの転生ではない。
この部屋、この身体、この違和感のある既視感。
私は知っている。
この世界を、設定として。
かつて暇潰しに遊んでいた乙女ゲーム——『エンジェリック・ブレッシング学園』。
その中で、主人公に理不尽な嫌がらせを繰り返し、最終的に華々しく断罪される存在。
悪役令嬢。
その名を——エリシア・ヴァルディア。
鏡台へと歩み寄り、そこに映る顔を見た瞬間、私は確信する。
金糸のような髪。
整いすぎてやや冷たく見える目元。
そして、完璧に整えられた“悪役令嬢然とした”造形。
ああ、間違いない。
私は今、ゲームの中の悪役令嬢になっている。
それも、最終的に公開処刑じみた断罪イベントで社会的に抹殺される、あの役回りに。
……正直に言えば、あまり嬉しい役どころではない。
だが、同時に思う。
「回避すればいいのでは?」
単純な話だ。
私は既に未来を知っている。
どの場面で何が起こり、どの選択が破滅に繋がるのかも、ある程度は把握している。
ならば、そのフラグを折っていけばいい。
——理屈としては、極めて簡単。
そこまで考えたところで、ノックの音が部屋に響いた。
控えめでありながら、訓練された正確さを感じさせる音。
「お嬢様、失礼いたします」
扉が開き、現れたのは侍女のリリネット。
淡い栗色の髪をきちんとまとめ、無駄のない動きで一礼する。
記憶にある通りの人物。
そして同時に、私にとっては最初の重要な分岐点でもある。
原作において、エリシアはこの侍女に対して極めて高圧的に接し、結果として彼女を遠ざける。
そのことが後に、悪評拡散の一因となる。
つまり——ここは改善可能なポイント。
「おはよう、リリネット」
なるべく柔らかく、しかし違和感のない声音を意識して言葉を発する。
すると、彼女の目がほんの僅かに見開かれた。
「……おはようございます、お嬢様」
ああ、これは成功だろう。
少なくとも、原作のエリシアならこの挨拶はしない。
つまり、既に分岐は始まっている。
そう思った矢先。
「本日は、王立アストレア学園への初登校日でございます」
その言葉に、胸の奥で何かが小さく軋んだ。
来た。
物語の本格的な開始地点。
ここから先、ヒロイン——リュミエル・フェリシアが登場し、全てが動き始める。
私は軽く頷きながら、思考を巡らせる。
まずやるべきことは明確だ。
ヒロインに関わらない。
嫌がらせをしない。
そして、目立たない。
これで大半の破滅フラグは回避できるはず。
……はず、なのだが。
なぜか、妙な引っかかりが残る。
記憶の中のゲームは、もう少し——こう、滑らかに進行していた気がする。
何かが違う。
具体的にどこが、と問われれば答えに窮する程度の差異。
だが、その違和感は、霧のように確かに存在している。
「お嬢様?」
リリネットの声に意識を引き戻される。
「ああ、ごめんなさい。少し考え事をしていただけよ」
「ご体調が優れないようでしたら——」
「いいえ、大丈夫」
むしろ、これからが本番だ。
私はゆっくりと立ち上がり、窓の外へと視線を向ける。
広がる庭園。
整えられた花々。
そして、その向こうに見える王都の輪郭。
美しい世界。
そして、同時に——明確な終わりが設定されている世界。
だが。
「その結末、少しばかり書き換えさせてもらうわ」
誰に向けるでもなく呟く。
運命があるというのなら、それは絶対なのか。
それとも、ただの“推奨ルート”に過ぎないのか。
確かめる価値は、十分にある。
そのとき、ふと脳裏に一つの疑問が浮かぶ。
——もし。
もしも、この世界が本当にゲーム通りに進むのだとしたら。
なぜ、私は“こんなにも自由に考えられる”のだろう。
悪役令嬢は、もっと短絡的で、衝動的で、分かりやすい存在だったはず。
少なくとも、こんな風に冷静に状況分析などしない。
……妙だ。
ほんの些細な違和感。
だが、無視するにはわずかに強い。
私はその感覚を胸の奥に留めたまま、侍女に身支度を任せる。
鏡の中のエリシア・ヴァルディアは、完璧な笑みを浮かべていた。
それはきっと、誰が見ても“理想的な令嬢”の表情。
けれど、その裏で。
私は静かに考えている。
この物語が、本当に“既知のもの”なのかどうかを。




