第1話
■ヤクシニー
インドの神話におけるヤクシャ――夜叉の女性の総称。
森の妖精、財宝の神、豊穣神としても扱われる。
男の夜叉とヤクシニーは、ガンダーラ美術により菩薩として表現されるようになり、女神のような像が多い。
ジャイナ教では守護神として扱われ、スリランカではヤカーと呼ばれる悪霊とされる。
仏教において、ヤクシニーの代表はハーリーティー――鬼子母神である。
(※参考 Wikipedia「ヤクシニー(夜叉)」)
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言うか言うまいか迷っていたが、母の愛美なら受け入れてくれると思い、決意した。
「母さん、彼女できたんだけど、今度家に連れて来てもいい?」
夕食後にアイスを食べている時、俺は思いきって母に打ち明けた。
父は海外に単身赴任しているので、俺は実質母と二人暮らしだった。
「へぇ、初耳」
カップアイスを食べていた母は、俺を見て目を瞬かせる。
「そりゃ、今初めて言ったし」
「どんな子? 可愛い?」
母は一人掛けのソファに深く腰かけたまま、微笑んで尋ねてくる。
その様子を見て、好感触だと理解し、安堵した。
俺の母はいわゆるバリキャリだ。
かといって男勝りな性格をしている訳ではなく、家庭ではごく普通の母親で、俺が部屋をちらかしたり、約束を破ったりすると相応に怒るが、基本的には優しいと思う。
大手企業に勤めている事もあり、身だしなみはきちんとしている。
『見た目に手を抜くと、相手に舐められるから』と言ってエステにも通っているし、年齢の割には若く見えて美人なほうだ。
友人からは『智也の母さん、綺麗で優しくていいよな』と言われるけど、俺にとっては普通の母親である。
母は上昇志向の強い人で、実家を出て働き始めたあとは、遊ぶ間もなく積極的に資格をとり、今のポジションに至る道を作った。
そういう生き方をしてきたからか、母は俺にも〝早めの人生設計〟を勧めてくる。
教育ママという言い方は古いが、そういう部類に入るかもしれない。
だがやり方が上手かったので、「勉強しろ」と頭ごなしに押しつけられた感覚はなく、友達と切磋琢磨して勉強をし、有名大学に合格できた。
一つ後悔すべくは、『大学合格まではよそ見をしない』と母と約束したから、二十歳になる今まで彼女ができなかった事だ。
周囲から美人と言われる母の息子なので、不細工ではない……と思っている。
けれど女子慣れしていないし、いかにモテるか、どうやって女子と話せば興味を持ってもらえるか、などには疎い。
周りの友人も、世間で言うには〝ガリ勉〟タイプで似た者同士だ。
幸か不幸か、そのお陰で「お前、彼女いないの? だせ~」という扱いは受けなかった。 大学に入った今、やっと張り詰めていたものを緩め、少しは楽しい時を過ごせたらと思っている。
と言ってもいい会社に就職するために、就職活動を頑張らないと、今までの努力が水の泡になってしまう。
母は『彼女なんて、社会人になったあとゆっくり探せばいいじゃない』と言っていたが、言い方は悪いがやっぱり〝練習〟したい。
と言っても、母に紹介しようと思っている彼女――由美とは、まじめに付き合っているつもりだ。
「同じ学部で、同じサークルに入ってる由美っていう人。可愛いし、性格もいいと思う」
「ふーん、じゃあ今度連れてきて」
「分かった。俺も由美もバイトあるから、今度の週末ね」
「オッケ」
「父さんは今度いつ帰ってくるの?」
「先月帰ってきたばっかりだから、また当分あとじゃない?」
父は商社勤めをしていて、出張が多かった。
今はワンランク上のポストにつくため、アメリカに単身赴任をして実績を積んでいる途中だ。
父は優しい人で、よく俺と遊んでくれた。
キャッチボールやサッカーの相手、大学に合格したあとは、お祝いと言って男二人でドライブし、温泉に泊まった。
時々しか会えないけれど、いい父だと思っている。
アイスを食べ終えたあとスマホを弄っていたら、つけっぱなしのテレビからニュースが聞こえてきた。
画面の中では男性リポーターが夜の河川敷を背景に、真剣な顔で切断された遺体が発見されたと言っている。
物騒な話だけど、今どき珍しい訳じゃない。
警察のサイトを見れば、令和六年の報告で、令和五年では九万人以上の人が行方不明になっている。
男性は五万七千人以上、女性は三万三千人弱。
そのうち、十代から二十歳代の行方不明者が四割だ。
若年層は家族関係、仕事関係、高齢になると認知症の関係が多いとの事だ。
どこかで生き延びているなら幸いだけれど、騙されて誘拐された挙げ句殺されたパターンもありそうだし、臓器売買やもっとヤバそうな話も絡んでいそうだ。
そういう話を見ると、自分は恵まれていると思う。
金に困って路頭に迷う心配はなさそうだし、家族関係もいい。
就職したあとの人間関係までは分からないが、今まで大きく人と衝突してはこなかったので、なんとかなったらいいなと思っている。
ただ、職場の人間関係ガチャ、上司ガチャみたいな言われ方もあるし、何事も〝絶対〟はない。
「そういえば、一人暮らししたいって話だけど……」
大学に合格してから母にずっと交渉していた事を口にすると、母はチラッと俺を一瞥して言った。




