血統、そして名付けの契約
I. 鉄枷と疑惑
「おい、歩け!ノロノロするな!」
憲兵の荒々しい怒声が、夜の静寂を切り裂いた。
藤原 暁の両腕には、冷たい鉄枷が食い込んでいる。まるで、魂まで縛り上げるかのように重い。洋館の血溜まりから引きずり出されて以来、彼の思考は血の臭いと、久世教授の絶命の瞬間に占拠されていた。
象牙の延べ棒。それに刻まれた言霊の魔法。
教授はなぜ、最後に自分を「盗人」に仕立て上げたのか。そして、なぜ、自分の「母」の瞳について語ったのか。
憲兵の腕の中で、暁の意識は堰を切ったように、遠い過去へと引き戻された。それは、彼が「藤原 暁」となる前の、大陸の裏路地の記憶であり、久世教授との「契約」が結ばれた、あの夜の記憶だった。
II. 血統
あれは、彼が七つの頃。大陸租界の、埃っぽい裏路地。
コレラで両親を失い、飢えと病で死にかけていた少年を、その男は見つけた。久世教授——当時の彼は、まだ三十代半ばの、冷たさと熱狂を同居させたような、不思議な目をした学者だった。
私はまだ「藤原 暁」ではなかった。ただの「少年」だった。
教授は、彼を遠く瀟洒な洋館へ連れて行った。そこで初めて、象牙細工の延べ棒と、それが生み出す「言霊の錬金術」の概念を教わった。白い象牙の表面に、異なる言語の単語を刻むことで、翻訳の際に失われるはずの「意味のズレ」を物理的なエネルギーに変換する、帝国の最高機密技術。
教授は、彼の類まれな「血」にしか関心がなかった。
「なぜ、私を欲しがるのですか?」
少年は、戸惑いながら教授に尋ねた。彼の存在を救ったのはこの男だ。感謝の念はあったが、同時に、自分が見世物にされているような、異様な感覚が拭えなかった。
教授は、象牙の延べ棒が入った引き出しに顎をしゃくった。
「それができるからだ」
教授は淡々と答えた。その「それ」が、象牙に命を吹き込む「翻訳」の力であることは、少年にも理解できた。しかし、なぜ自分なのか。
「貴様は、大陸の言語を、母語として正確に発音でき、かつ、西洋の古語の響きを理解できる。その二つの世界を、脳内で混線させ、同時に理解できる回路を持っている」
教授は、まるで稀有な鉱物を評するように言った。
「その二つの回路を持つ人間(血統)が、世界にどれだけいる? 貴様の血には、異文化の音を繋ぐ、稀有な回路が備わっている。故に、貴様は帝国にとって、最高の道具となる。」
少年は自分の身体が、学術的な研究対象であり、軍事的な『道具』としてしか見られていないことに気づいた。そのとき初めて、これが単なる救済ではなく、試練であり、契約であると悟ったのだ。
III. 冷酷な契約書
「これが、私の後見人の条件です」
教授は机の上の、羊皮紙のような厚い紙に書かれた二ページの文書をスライドさせた。文書は、後見契約書であり、翻訳院への入学に関する誓約書でもあるらしかった。
少年は、その文書を詳しく見ようとしたが、教授の周りを取り巻く緊張感に気圧され、止めた。タイトルで輪を描くような筆跡は、まるで判読できないほどに細かく、読むには相当な集中力を要するように見えた。
「非常にシンプルだが、署名する前に全体を読むように注意しなさい」教授は、冷たい警告を放った。「今夜、寝る前にこれをしてくれませんか?」
少年は、教授の命令に動揺しすぎて、ただ、うなずく以外に何もすることができなかった。この後見人を失えば、再び大陸の裏路地の地獄に戻るしかない。それが、七歳の彼にとっての全てだった。
「とても良いです」と教授は言った。
教授は立ち上がり、少年に向かって身を屈めた。その仕草は、愛情というよりは、所有物を確認する作業に近かった。
「もう一つ。名前が必要だと思いました」
「私には名前がある」と少年は言った。「それは——」
教授は静かに首を振った。
「いや、それはだめだ。その大陸の音は、この国の環境では発音できない。誰も呼ばないだろう。貴様をここへ連れてきた意味がない。」
——あなたに、名前を付けてもらったのですか?
彼の母は、男の子が四歳になったとき、いつか「真剣に受け止めることができる名前」を採用するよう主張したが、結局、彼らは子供向けの英語の韻を踏む本からランダムに何かを選んだだけで、家族の誰もそれを使わなくなっていた。
少年は、久世教授の冷たい視線に急かされながら、思い出そうとした。
「暁」
教授はしばらく沈黙した。彼の表情は、少年を混乱させた。——眉をひそめていたが、口の片側がわずかに丸まっていた。怒っているのか、喜んでいるのか、判別できない。
「姓はどうですか?」
「私には姓があります。」
「好きなものを選んでください。」
少年は彼にまばたきをした。「......姓?」
家族の名前は、気まぐれに削除したり置き換えたりするものではない。それらは血統をマークし、所属意識を証明するものだ。この男は、自分から全てを奪おうとしている。
「自分のタイトル(権威)を保持している唯一の家族は、保持すべきタイトルがあるからそうしている。そして、貴様には確かにタイトルがない。自己紹介用のハンドルネームだけが必要だ。どんな名前でも構いません。」
「じゃあ、あなたの名前を取ってもいいですか?」
「ああ、いや」と教授は言った。その声には、微かな拒絶の色が混じっていた。「彼らは私を貴様の父親だと思うでしょう」
「ああ、もちろんです。」
少年は焦燥に駆られ、必死に部屋の中を見渡した。何か、自分が知っている、しがみつける言葉を。
彼の視線は、教授の頭の上の棚にあるおなじみの本、『ガリバー旅行記』にたどり着いた。見知らぬ土地に住む見知らぬ人で、死なないように現地の言語を学ばなければならない主人公。
彼はガリバーの気持ちがわかると思って言った。
「藤原にしろ」教授は遮った。それは、日本のどこにでもある、平凡で、目立たない姓だった。「藤原 暁。明日からそう名乗れ。それで、貴様の出自は完全に消滅する。そして、貴様は帝国の子となる。」
教授は象牙のように冷たい笑みを浮かべた。
その日、少年は「藤原 暁」となり、大陸の血統を隠蔽し、教授の「道具」となることを誓約した。その夜、彼は疲労で倒れるように眠りにつき、契約書を全文読むことはなかった。
IV. 追憶の断絶と真実の錠
憲兵隊本部へ続く道。夜の帝都の街灯が、無残に濡れた石畳を照らしている。
憲兵の腕の中で、暁はあの契約書の読まなかった二ページと、教授の最後の言葉を繋ぎ合わせようとした。
久世教授はなぜ、最後に母の話題を出したのか。そして、なぜ遺言で、自分を「盗人」として弾劾し、全財産を翻訳院に寄贈しなければならなかったのか。
——久世教授は、私を、守ろうとしたのか?
もし、自分が父を殺した犯人ではないならば、真犯人の目的は、象牙細工の最高権威を排除することだけではなく、象牙と異文化の血統を繋ぐ、自分自身——藤原 暁を、「道具」として利用できなくすることだったのではないか?
象牙細工の魔法は、翻訳院が独占する「知恵の財産」だ。久世教授の遺言は、全財産を翻訳院へ渡すことで、犯人の真の目的——象牙の機密の簒奪——から、目を逸らさせようとしたのではないか?
そして、憲兵隊本部に到着する直前、暁は一つの恐ろしい可能性に思い至る。
あの七歳の夜、教授と交わした「二ページの契約書」。その全文を、自分は読んでいない。
あの書類には、単なる後見契約だけでなく、自分の血統と才能を、教授が死んだ後も帝国の機密として完全に翻訳院に譲渡し、「藤原 暁」の自由を永久に奪う、冷酷な誓約が含まれていたのではないか。
教授は、自分が殺されたとしても、「藤原 暁」を逃がさないための鎖を、七年前に仕掛けていた。
そして、「盗人」という烙印。これは、「盗まれた機密資料」が、「藤原 暁」という存在そのものを指していることを意味するのではないか。
——私は、父に、二重に裏切られていたのだ。
憲兵隊本部の重い鉄扉が、暁の目の前で、地獄の門のように開かれる。




