「知恵の庭」の終わり
I. 象牙と珈琲の香り
大正十二年、帝都・東京。
神田の古書店街から一筋入った静謐な路地裏に、藤原 暁の日常はあった。二階建ての洋館は、震災の爪痕が残る帝都において、贅沢なまでに空間と静寂を許された特等席だ。庭には西洋種の深紅の薔薇が咲き誇り、一階の書斎からは、常に後見人である久世教授好みの、濃く苦い珈琲の香りが漂っていた。
暁、二十歳。
彼は現在、日本の頭脳を司る最高学術機関、帝国大学・帝国翻訳院、通称「帝都の塔」の特待生である。幼い頃、両親を大陸の租界で失い天涯孤独となった彼を拾い上げ、英才教育を施したのが、翻訳院の最高権威である久世教授だった。
暁は、教授の潤沢な資金と、塔からの破格の奨学金によって、日本語と北京官話(中国語)を母語のように操り、さらには古代ギリシャ語やサンスクリット語まで独学で修めるという、異様なまでの知的好奇心と才能を持っていた。彼の人生は、誰もが羨む「中の上」、否、「特権階級の階段を昇る者」として順風満帆に滑り出していた。
時刻は昼過ぎ。午前中の講義で古代語の翻訳実践を終えた暁は、教授から命じられた急務のため、足早に洋館へ戻った。久世教授は昨日、満州視察から極秘裏に帰京したばかりだ。
「教授、戻りました」
暁は扉をノックしたが、返事がない。静かに書斎の扉を開けると、そこには案の定、一睡もしていない様子の久世教授が、煙草をくゆらせながら膨大な資料の山に埋もれていた。
「遅いぞ、暁」
久世教授は背筋を伸ばし、顔色はいつになく優れない。その鋭い眼光は、暁が唯一恐れるものだった。
「申し訳ありません。講義が長引きまして……。報告書は、既に目を通しました。」
久世教授は、西洋家具の豪奢なデスクの上にある、象牙の延べ棒を指さした。象牙は乳白色に輝き、両端には異なる言語の単語が繊細に彫られている。これが、帝国の力を支える「言霊の錬金術」の媒体だ。
「翻訳を急げ。満州鉄道敷設権の裏で交わされた、極秘裏の『象牙採掘契約』の全文だ。午後の会議までに、その言霊のコードを象牙に刻み込み、魔法の力を賦活させねばならん。」
「象牙採掘契約……。教授、この報告書の『補遺』に記載されている、現地住民の強制労働と、抵抗者への『無力化の象牙細工』の使用を示唆する一文は、どのように訳出すべきでしょうか?」
暁は、躊躇いながら報告書の一部を指差した。彼の胸中に湧き上がったのは、知識への探求心ではなく、かすかな嫌悪感だった。
教授は煙草を灰皿に押し付け、冷徹な声を発した。
「藤原暁。貴様は翻訳者だ。感情を入れる作業ではない。文字を、正確に、無機質に写し取れ。帝国の知恵の道具であることを忘れるな。」
久世教授の言葉は、まるで彼の胸を硬い象牙の棒で刺し貫くようだった。
「……承知いたしました」
暁は頭を下げ、冷たい床を見つめた。久世教授は実の父だ。その事実は、幼い頃の記憶と、時折教授が見せる不器用な優しさから、暁は悟っていた。だが、教授が公にも私にもその事実を認めない以上、暁もまた、この歪んだ親子関係を「師弟」という名の契約として受け入れるしかなかった。この恵まれた環境は、この冷酷な「主従関係」によってのみ成り立っていたのだ。
II. 象牙の腐敗と友の問い
午後。象牙細工の実習が始まるまでの間、暁は帝都の塔の庭園で親友の金 容雲と合流した。容雲は、京城府の旧家の出で、日本語、朝鮮語、ロシア語に天才的な才能を持つ、翻訳院のもう一人の特待生だ。
「暁よ、顔色が悪いな。また久世教授に何を吹き込まれた?」
容雲は、教授を露骨に軽蔑していた。その瞳には、常に帝国への激しい怒りが宿っている。
「満州の極秘報告書だ。俺たちがここで生み出す『知恵』が、大陸の鉄道と採掘権のために、何を犠牲にしているか……また一つ、生々しい証拠を見てしまった。」
「今更か」容雲は笑い、その笑いは苦々しい。「この塔の床下には、俺たちの祖国の血が流れている。それを知ってなお、お前はここで『帝国の道具』として、象牙を削り続けるのか?」
「俺は、この塔の中で、翻訳の力を使って、帝国を変えることができると信じたい。内側から、静かに、理性的に……。」
暁は絞り出すように言った。彼は恵まれた環境にいるが、容雲は違った。容雲は帝国への反感を隠そうとせず、バベルの特権を利用して、裏で「ヘルメス結社」という地下組織と接触していることを、暁は知っていた。
「そんなものは、白昼夢だ。暁。この美しい庭も、塔の象牙の光が途絶えれば、一瞬で枯れ果てる。内側からでは、暴力なくして何も変わらない。」
容雲の鋭い問いは、いつも暁の心に突き刺さる。象牙の延べ棒に刻む一文字一文字が、彼の良心に傷をつけていくかのようだった。
その時、二人の視界に、もう一人の友人が入ってきた。玉城 綾である。彼女は琉球(沖縄)出身で、常に冷静沈着な女性だ。彼女は、二人の激しい議論には加わらず、ただ憂いの目を向けるだけだった。
「容雲、暁。言い争いはよせ。今日の象牙細工の実習は、『記憶の言語』だ。象牙に触れる時は、静かに心を澄ませなさい。」
綾の言葉は、いつも冷えた水のように、熱くなった容雲の頭を冷ます。
「玉城は良いな、いつも静かで」容雲はため息をついた。「お前の島も、我々と同じく帝国に蹂躙されているはずだ。なぜ、そこまで冷静でいられる?」
綾は象牙細工の延べ棒を指で撫でた。
「知恵は、静かな心に宿る。そして、この象牙がなければ、私たちは何もできない。私は、敵の道具となりながら、その道具の構造を知り尽くす道を選んだだけよ。」
彼女の言葉は、暁の「内側からの変革」という希望を、静かに肯定しているようにも、また、容赦なく嘲笑しているようにも聞こえた。
III.
その日の夕刻。翻訳院での実習を終えた暁は、久世教授の洋館へ戻った。教授は夜通し翻訳を続けることが多い。
象牙細工の作業は神経をすり減らす。暁は自室で休憩を取ろうとしたが、久世教授から預かっていた最新の研究論文の翻訳を、最終チェックするため、再び一階の書斎へ向かった。
珈琲の香りは消え、室内には静寂と、奇妙な緊張感が漂っていた。
暁が廊下を歩いていると、書斎から激しい物音がした。
——ゴトン!
暁は咄嗟に駆けつけ、乱暴に扉を開けた。
書斎の様子は、異様だった。西洋家具の豪奢な長椅子に、久世教授が倒れ込んでいる。その瞳は大きく見開かれ、苦悶の表情を浮かべていた。彼の胸には、彼が研究していた古い、使い古された象牙の延べ棒が深く突き刺さっていた。血だまりが、分厚い絨毯に濃く広がっている。
「教授!」
暁は悲鳴を上げ、駆け寄ろうとした。教授はか細い声で、血を吐きながら言った。
「……藤原、暁……。来るな。……お前の、母に似た、瞳だ……。」
教授は、最後にわずかに暁の「母」を連想させる言葉を残し、大きく息を吐き出し、そのまま動かなくなった。
呆然と立ち尽くす暁。教授の手から滑り落ちた一枚の紙が、血の絨毯の上で静かに広がる。久世教授の筆跡による遺言書だった。
「私の財産は、全て帝国翻訳院に寄贈する。教え子である藤原暁には、一切の遺産を譲らない。また、彼を私的な資料の盗人として告発する。」
なぜ、死の間際になってまで、教授は自分を盗人に仕立て上げたのか?なぜ、一円の遺産も残さないという、冷酷な遺言を残したのか?
その疑問が、暁の頭を埋め尽くす前に、洋館の玄関が激しく、乱暴に叩かれた。
——ドンドン!
「久世教授邸の者か!ただちに開けろ!憲兵である!開けぬなら、扉を破る!」
扉が破られ、黒い軍服の男たちがなだれ込んできた。彼らの目に、血に塗れた象牙の延べ棒の傍に、ただ一人、血だまりの中に立ち尽くす暁の姿が映った。
「貴様か!久世教授を殺めたのは!」
暁の全身から、血の気が引くのを感じた。
「待ってください!私は——」
暁が何かを言う前に、憲兵たちの鉄のような手が、彼の両腕を固く掴んだ。




