3話:絶体絶命のピンチと空中散歩で、うさぎ獣人は初めて××をする。
別に、シグは毎日来る約束はしてないし、そもそも来て欲しいとも思っていなかった。
相手は多忙な宮廷魔術師で、毎朝晩時間があるほうがおかしい。
だから、昨日の夜来なかったのも当然な事で、何らおかしいことはない。
一晩中、寝付けなくてずっと考えていたことを反芻し俺は重い体を引きずってベッドから這い出る。昨日見た光景が何故か頭から離れなくて、意味のない自問自答を繰り返していたら朝が来ていた。こんな日でも仕事はある。病気でもないのに休むなんてできないから、のろのろと朝の準備に取り掛かった。
気分を変えたくて適当につけたテレビは丁度星占いのコーナーで
『今日の貴方は最高の運勢!』
という言葉が聞こえた瞬間に電源を切った。
俺の星座についての解説がよりによってこれ。何が最高の運勢だ。朝から最低な気分だよこっちは。
こんな物に文句を言っても仕方ないが、それくらい気分は最悪だった。
◇
回らない頭のまま出た店の朝礼では、親父が見てる前で船を漕いでしまい、咳払いをされてしまった。
それもこれも全部あいつのせいだ。
今日の朝も来なかったシグの顔を浮かべて小さく悪態をつくが何の意味もない。
調子が上がらないまま午前中を終えた俺に、親父がお使いを頼んできた。
提示された届け先は結構遠い上にあまり行ったことのないエリアだったけど、このまま昨日見た光景がちらつく店にいるよりマシな気がして俺は昼食もそこそこに配達に出かける。
事故が怖いのでバイクではなく徒歩で向かったそこは片道1時間はかかった上、とても入り組んだ路地にあった。
普段はそこまでだが、俺は焦っていたり考え事をしていると道に迷う癖がある。今日はずっと考え事をしてたせいで、しっかり道に迷った俺は、どう見ても近寄ってはいけない気配のする裏路地に出てしまった。昼間だっていうのに薄暗いそこは気味悪く、引き返そうとしたところで空が真っ暗になった。
いや、正確には空を覆うようなでかい異形の怪物が俺の頭上を覆っていた。
ドロドロしたヘドロみたいな化け物。真っ黒なそれを見上げて俺は朝、親父が国の実験施設から何かが逃げ出したから注意するようにとか言ってたことを思い出した。朝礼は半分寝てたし、今朝はニュースを見てないが、きっとそこでもやっていただろう。
知っていたところでどうにかなる問題ではないけど、せめてもう少し気をつけるべきだった。
そんな後悔が頭を掠めて、もう帰れない店のことを考えた時、最近じゃ1番見慣れてしまった銀髪が記憶に過ぎる。
(どんな内容でもいいからもう一回くらい話したかった)
きっと、今話したら昨日の事で溜まった鬱憤を口にして嫌な雰囲気になるだろう。でも、それでも俺はあのゆっくりとした低い声が聴きたくなった。
(別に本当に付き合ってるわけでもないのにな)
せめて怖いものを見ないように俺は目を瞑り、化け物が迫る瞬間を待った。
逃げようにも狭い道で、こんな大きな奴から逃げられる気がしない。これって失踪扱いになるのかな、なんて恐怖を押し殺すように考えていた最中、突然瞼越しにもわかる強い光が周囲を照らした事がわかった。
光とともに響く轟音に驚き、見開いた俺の瞳に映ったのは、キラキラと光を反射する銀色だった。
「トア、俺に掴まってて」
いつの間にかシグに抱き抱えられて空を飛んでいた俺が足元を見下ろすと、ドロドロした黒いものが地面を覆っていた。
先ほどとは違って動かないそれはよく見るとだんだん崩れて空気に混じって消えていっている。
「怪我はない?間に合ってよかった」
俺の顔を覗き込み、心配そうに声をかけるシグの声が現実なのかわからなくて俺は目の前の男の頬をつねる。
「い、痛い!トア!」
「わ、悪い、ちょっと現実感なくて夢かと」
俺が慌てて手を離すと、シグは俺を見つめて口を開く。
「痛かったけど、初めてトアから触られて嬉しい」
そう言って目を細めて笑う顔に昨日の光景がちらついて俺は胸がズキンと痛くなった。
「そういうのは、マリに言った方がいいんじゃねえの」
「え……?」
自分を守るために、思ってもない言葉が口から溢れるのを止められない。
「昨日、お前がマリと仲良くしてんの見た。きっと昨日だけじゃないんだろ。朝晩俺のところに来るって口実で昼に……」
「ちょっと待って、昨日の見てたの?」
慌てたようなシグの表情に、昨日ずっと考えてた嫌な考えが広がる。これ以上何も聴きたくない。そう思って耳を塞ぐが、うさぎ獣人は耳がとてもいいのでシグの声は普通に聞こえる。今日ほどこの長い耳を恨めしく思ったことはない。
「見た。すごく楽しそうで、お似合いだったよ。やっぱああいう子の方が可愛いもんな」
ああ、また可愛くない言葉が口から飛び出る。
「トア?何を言ってるの?話がよくわからないんだけど……」
「だから、お前本当はマリが好きで、きっかけのために俺に声かけたんだろ?」
言ってしまった。言いたくなかったし、答えも聞きたくないのに勢いだけで出した言葉は戻ってくれない。
ていうか俺今こいつに抱かれて空飛んでるから機嫌損ねたら落とされるんじゃ?
今更ながらそれも怖くなって、恐る恐るシグの顔を見たら、シグは初めて言葉を聞いたみたいな顔で俺を見つめていた。
「何の話?昨日マリと話してたのは、来月のトアの誕生日プレゼントの事なんだけど……あ!言っちゃった……どうしよ」
「た、誕生日……?俺の?」
シグから出た言葉は俺の想定の範囲外で、言われたまま復唱してしまう。というか俺こいつに誕生日教えてないのに何で知ってるんだ?
「でもお前、マリに何かあげてたし」
「あれはプレゼントの材料とお代。マリ経由で工房に依頼してもらうから先に渡したんだよ」
シグの言葉は堂々としていて、辻褄も合っている。さっきからの態度で誤魔化しも感じない。おそらく言ってることは全部本当のことなんだろう。
だとしたら、つまり、俺は勝手に勘違いして、勝手に暗くなって、勝手にシグにあたったということだ。
急に恥ずかしくなって思わず顔を覆う。もうこれ以上何も言いたくなかった。口を開いたら余計なことを言いそうだったから。
「ねえ、トア。もしかして、やきもち焼いたの?」
空気を読まず、シグが俺が言いたくなかったことを口に出す。
「教えて?俺、トアの口から聞きたい」
俺を抱きしめる力が気持ち強くなる。至近距離から耳元に響く低い声に体がむずむずする。
「ちょっと、気になっただけだし……」
シグの体温が温かくて、固まった心が少しだけほぐれてしまったから、言い訳がましい言葉だけ口にする。
流石に可愛げがなさすぎたかもしれないと、言い訳を追加しようと口を開くその前に、柔らかく温かい感触が唇を覆っていた。
「……え?」
体温が離れ、自由になった口から間の抜けた声が溢れた。
今、何が触れてた?もしかして、今のって所謂あれか?でもそんなわけ……なんて頭がパンクしかけてる俺にシグが嬉しそうに言葉をかける。
「初めてはもっとちゃんとしたところでって思ってたけど、トアが可愛すぎてしちゃった。もう一回いい?」
今のどこが可愛かったのか皆目見当がつかないが、断る気持ちが全く湧いてこなくて、でも返事をするのは気恥ずかしくて俺は僅かに頷いて目を閉じる。
「ふふ、トア、尻尾くすぐったい」
俺の気持ちに反応して揺れる尻尾がシグに触れてしまったらしい。くすくすと笑う声が近づいてくる。
来るとわかって触れた体温はとても温かくて心地よく、今俺の胸の中にある名前のない感情の答えを示しているようだった。




