# 第七章 出航と妨害
夜明け前のリスボン港は、まだ深い藍色と静寂に包まれていた。だが、その静寂を破るように、一つの埠頭だけが、松明の光と人々の熱気で揺らめいている。
『アルテミス号』。
その船は、もはや単なる木と帆の集合体ではなかった。それは、リスボンの古い秩序に飽いた人々の夢と、リオ・アルバレスという男が紡いだ物語が結晶化した、一つの生きた神話だった。銀色に輝く船体は夜明け前の最後の闇を吸い込み、自らが光を放っているかのようにさえ見える。
「錨を上げろ! アルゴノーツ!」
ヴァスコの野太い声が、甲板に響き渡る。その声に応えるのは、もはや寄せ集めの荒くれ者たちではない。揃いの紋章が刻まれた銀の腕輪を誇らしげに身につけ、その瞳に同じ物語を宿した、三十人の『アルゴノーツ・オブ・アルテミス』だった。
「応!」
彼らは、まるで一つの生き物のように、統率された動きでロープを操り、帆の準備を始める。その動きには、昨日までの人生にはなかったであろう、規律と誇りが満ちていた。彼らは、この船の乗組員であると同時に、この船という国の、最初の国民なのだ。
埠頭は、彼らの船出を見送る人々で埋め尽くされていた。一口金貨十枚の『冒険投資証券』を握りしめ、自らの夢をアルテミス号に託した「冒険投資家」たちだ。彼らは、自分たちが歴史の目撃者であることを疑わず、熱狂的な歓声を送っている。
「行け、アルゴノーツ!」「伝説を掴んでこい!」
リオは船尾に立ち、その光景を胸に刻みつけていた。隣には、船長としてこの船の全てを預かるヴァスコがいる。彼の顔には、緊張と、それを上回る歓喜が浮かんでいた。
やがて、東の空が白み始め、最初の太陽の光がアルテミス号のマストの先端を金色に染めた。その瞬間を待っていたかのように、ヴァスコが天に届かんばかりの大声で叫んだ。
「総帆、展帆! アルテミス号、出航だ!」
巨大な帆が、一斉に風を孕む。それは、新しい時代の深呼吸だった。アルテミス号は、ゆっくりと、しかし力強く岸壁を離れ始めた。万雷の拍手と歓声が、船を追いかけてくる。リオは、埠頭で涙ぐんでいる兄たちの姿を、そして、遠くの丘の上に立つバルタザールの屋敷を、静かに見つめていた。
旧世界よ、さらば。
船は滑るように港を抜け、リスボンの街並みがみるみるうちに小さくなっていく。やがて、外洋の力強い風が帆を完全に満たし、アルテミス号は本格的な速度で波を切り裂き始めた。乗組員たちの顔には、未知への期待と、自由への喜びが満ち溢れている。
「やったな、リオ! ついに、俺たちの船出だ!」
ヴァスコが、子供のようにはしゃいでリオの肩を叩く。リオも、こみ上げてくる興奮に、思わず笑みを返した。全てが、計画通りだった。いや、計画以上だ。
だが、その高揚感が頂点に達した、まさにその時だった。
マストの見張り台に立つ乗組員が、切羽詰まった声で叫んだ。
「前方より、所属不明の船団! 三隻! こちらに真っ直ぐ向かってきます!」
甲板の陽気な空気は、一瞬にして凍りついた。リオとヴァスコが慌てて船首に向かうと、水平線の向こうに、黒い船影が三つ、急速に大きくなってくるのが見えた。そのマストには、リスボン王国海軍の旗が、不吉に翻っている。
「海軍……だと?」ヴァスコが、信じられないという顔で呟いた。「なぜだ。俺たちは、王家の許可こそ得ていないが、罪を犯したわけじゃない」
「……いいや」リオは、唇を噛み締めた。「罪状など、後からいくらでも作れる。――バルタザールの差し金だ」
海軍の船団は、あっという間にアルテミス号を取り囲むように展開した。その動きは、獲物を追い詰める鮫の群れのように、冷酷で無駄がない。先頭の、一際大きなガレオン船から、旗信号が送られてくる。
『停船せよ。停船しなければ、攻撃する』
「くそっ!」
ヴァスコが、怒りに任せてマストを殴りつけた。アルゴノーツたちも、武器を手に取り、敵意を剥き出しにして海軍の船を睨みつけている。彼らの目には、再び、昨日までの、秩序に牙を剥く獣の光が戻っていた。
「落ち着け!」リオは、甲板に響き渡る声で叫んだ。「戦闘にはならない。俺が、話をつける」
やがて、海軍のガレオン船から一艘のボートが降ろされ、アルテミス号に接舷した。ロープを伝って乗り込んできたのは、銀の装飾が施された豪奢な鎧を身につけた、四十代半ばの司令官だった。その顔は日に焼け、厳しい軍務が刻み込んだ深い皺が、彼の経験と冷徹さを示している。
「私が、この艦隊の指揮官、ロドリゲスだ」司令官は、尊大な態度で名乗ると、アルテミス号の甲板を値踏みするように見回した。「貴殿が、この船の責任者、リオ・アルバレスだな」
「いかにも。ですが、海軍の皆さんが、我々の船出を祝いに来てくれた、というわけではなさそうだ」
リオの皮肉に、ロドリゲス司令官は眉一つ動かさなかった。
「貴殿の船に、密貿易の嫌疑がかけられている。商業ギルドからの正式な訴えに基づき、我々はこれより、船内の積荷を臨検する。抵抗は、国家への反逆と見なす」
「密貿易だと?」ヴァスコが、前に進み出た。「俺たちの船には、食料と水、それに航海に必要な備品しか積んでいない! どこに密輸品があるというんだ!」
「それは、我々が調べることだ」
ロドリゲスは冷たく言うと、部下たちに顎で合図した。武装した兵士たちが、次々とアルテミス号に乗り込んでくる。アルゴノーツたちが、それを阻もうと武器を構え、甲板は一触即発の空気に包まれた。
「やめろ!」
リオは、ヴァスコとアルゴノーツたちを手で制した。ここで戦闘になれば、相手は正規の海軍だ。勝ち目はない。
だが、リオは、ロドリゲス司令官の次の言葉に、耳を疑った。
「全ての積荷を調べろ。特に、奇妙な『紋章』が描かれた旗、書類、腕輪の類は、一つ残らず押収しろ。あれは、王国の秩序を乱す、扇動的なシンボルだ。見つけ次第、全て海に棄てろ」
(……紋章?)
リオの脳裏に、警鐘が鳴り響いた。密貿易の嫌疑など、ただの口実だ。バルタザールの真の狙いは、積荷ではない。彼が異常なまでに恐れているのは、この船そのものではない。彼が根絶やしにしたいのは、アルゴノーツという『物語』と、その『紋章』なのだ。それは、単なる商業的嫉妬から来る行動ではない。もっと根源的な、まるで異教のシンボルを破壊しようとするかのような、狂信的な恐怖。
「司令官」リオは、ロドリゲスに向き直った。「臨検には協力しましょう。ですが、その前に、船長室で二人きりで、お話させていただきたい。あなたにとっても、決して悪い話ではないはずです」
ロドリゲスは、一瞬、訝しげな顔をしたが、リオのあまりに落ち着き払った態度に興味を引かれたのか、あるいは、この茶番に何か裏があることを察したのか、わずかに頷いた。
船長室に、二人きりになる。窓の外では、武装した兵士たちと、殺気立つアルゴノーツたちが、睨み合っている。
「手短に話せ。我々は、暇ではない」
ロドリゲスが、苛立たしげに言った。
「ええ。では、単刀直入に」リオは、目の前の司令官を真っ直ぐに見据えた。「この命令は、バルタザールから、いくらで請け負ったのですか?」
ロドリゲスの顔色が変わった。図星だった。
「……貴様、何を」
「隠すことはありません。このリスボンで、海軍の一部を私兵のように動かせる人間など、一人しかいない。あなたは、一介の商人の私的な嫉妬のために、貴重な艦隊を動かしている。そうでしょう?」
「黙れ! 我々は、王国の法と秩序に従っているだけだ!」
「法と秩序、ですか」リオは、静かに微笑んだ。「では、司令官。あなたは、この任務を遂行した後、何を得るのですか? バルタザールからの、いくばくかの金貨か? あるいは、次の昇進の口約束か? ですが、歴史にあなたの名がどう刻まれるか、考えたことはありますか?」
「……何が言いたい」
「歴史は、あなたのことをこう記すでしょう。『ロドリゲス司令官。偉大なる商人の忠実な番犬として、その生涯を終えた男』と」
「なっ……!」
ロドリゲスの顔が、怒りで赤く染まる。リオは、畳み掛けた。
「ですが、司令官。もし、別の歴史があるとしたら?」
リオは、テーブルの上に広げられていた『無印の海図』を指差した。
「この航海は、密貿易などという、ちっぽけなものではありません。これは、リスボン王国の威信をかけ、まだ誰も見たことのない新大陸を発見し、その富と栄光を、国王陛下に捧げるための、国家的な探検航海なのです」
「……戯言を。貴様らに、国王陛下の勅許などないはずだ」
「ええ、今はまだ。ですが、考えてもみてください。我々がこの航海に成功し、未知の大陸を発見した時、国王陛下は、我々を罪人として罰するでしょうか? いいえ、英雄として讃えるはずです。そして、その偉業を、誰よりも先に見出し、その船出を『許可』した人物がいたとしたら? その人物の名もまた、英雄として、歴史に永遠に刻まれることになる」
リオは、ロドリゲスの瞳の奥に、野心の炎が揺らめくのを見逃さなかった。彼は、ただの軍人ではない。自らの名が歴史にどう残るかを気にする、誇り高い男だ。
「司令官、あなたには選択肢がある。一つは、バルタザールという一商人の命令に従い、彼の私怨を晴らす手伝いをして、歴史の片隅で忘れ去られる道。もう一つは、この歴史的な航海の『最初の後援者』となり、我々が持ち帰るであろう富と名誉を、共に分かち合う道です」
リオは、懐から一枚の羊皮紙を取り出した。それは、白紙の『冒険投資証券』だった。
「これは、我々の航海の利益を分配する権利証です。ここに、あなたの名を、名誉船団長として記させていただきたい。我々が発見する全ては、あなたの功績の一部となる。あなたは、商人の番犬などではない。新世界の発見者の一人となるのです」
ロドリゲスの呼吸が、荒くなっていた。彼の心の中で、天秤が激しく揺れ動いているのが、手に取るように分かった。バルタザールからの確実だが小さな報酬と、不確かだが巨大な歴史的名誉。
長い、長い沈黙の後、ロドリゲスは、絞り出すような声で言った。
「……もし、貴様らが失敗したら? 海の藻屑と消えたら、わしはただの愚か者だ」
「その時は、あなたはただ命令に従い、我々を臨検しただけのこと。あなたの経歴に、傷はつきません。ですが、もし我々が成功すれば――」
「……分かった」
ロドリゲスは、リオの言葉を遮った。彼は、テーブルの上の羊皮紙を手に取ると、震える手で、そこに自らの名をサインした。
「……積荷に、異常はなかった。そう報告しておこう。だが、いいか。もし貴様らが、国家の威信を貶めるような真似をすれば、地の果てまで追いかけ、この手で海の底に沈める。覚えておけ」
それは、脅しでありながら、同時に、この航海を自らのものとして認めた男の、共犯者としての宣言でもあった。
船長室から出てきたロドリゲスは、待ち構えていた部下たちに、抑揚のない声で告げた。
「臨検は終了だ。積荷に、不審な点はなかった。これより、アルテミス号の探検航海を、我が艦隊の名において許可する。全艦、帰投する!」
兵士たちは、狐につままれたような顔で、アルテミス号を去っていく。アルゴノーツたちも、何が起こったのか理解できず、ただ呆然と立ち尽くしていた。
やがて、海軍の船団が、リスボンの方角へと去っていく。アルテミス号の周りには、再び、遮るもののない広大な海だけが広がっていた。
その瞬間、甲板で、誰からともなく、雄叫びが上がった。
「「「ウォォォォォッ!!」」」
それは、出航の時を何倍も上回る、魂の底からの歓喜の爆発だった。彼らは、自分たちのリーダーが、たった一人で、国家権力という巨大な壁を、言葉だけで打ち破った奇跡を目の当たりにしたのだ。彼らのリオへの信頼は、もはや揺るぎない、絶対的なものへと変わっていた。
ヴァスコが、リオの隣に駆け寄ってきた。その顔には、驚きと、畏敬と、そして少しの呆れが混じっていた。
「……おい、リオ。お前、一体、何をしたんだ」
「交渉さ」リオは、静かに答えた。「彼に、もっと魅力的な『物語』を売っただけだよ」
リオは、再び、前方に広がる無印の海図を見つめた。バルタザールの最初の妨害は、退けた。だが、それは、彼の力を、より明確に証明してしまったことにもなる。
旧世界の商人は、もはや、リオをただの商売敵とは見なさないだろう。彼は、自らの信じる世界の秩序を根底から覆しかねない、危険な『魔法使い』として、全力でその存在を消しにかかってくるに違いない。
戦いは、まだ始まったばかりだ。
アルテミス号は、まるで勝利を祝うかのように、力強く波を蹴立て、未知の水平線に向かって、その銀色の船首を突き進めていった。
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次回:# 第八章 最初の勝利




