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# 第四章 未知への船出




バルタザールの屋敷から吐き出された後、リオの頭には二つの言葉だけが、まるで嵐の中の鐘のように鳴り響いていた。『勝てない』、そして『船を造ろう』。


絶望と決意。それは、相反するようでいて、実のところは同じ一つの感情から生まれた双子だった。このリスボンという盤上では、バルタザールという王に、三男坊の歩兵が勝つ術はない。ならば、盤そのものをひっくり返し、誰も知らない新しいゲームを始めるしかない。


「……本気で言っているのか、リオ」


アルバレス家の、今はもうすっかり寂しくなった一室で、ヴァスコが呆然と呟いた。彼の目の前には、リオが『禁書』から記憶を頼りに描き写した、一枚の海図が広げられている。既知の海岸線の外に、ぽつんと描かれた島影。それ以外は、全てが純白の未知。


「外洋航海が可能なキャラック船を一隻。それに、乗組員を最低でも三十人。水と食料を数ヶ月分。どれだけの金がかかると思っている。俺たちの『月光草』の儲けなど、瞬く間に溶けてなくなるぞ」


ヴァスコの言葉は、船大工の息子としての、あまりに現実的な指摘だった。夢を語る前に、まず目の前の数字を見ろ、と。


「分かっている。だから、投資を募る」


「投資?誰が?バルタザールの息がかかったこの街で、誰がお前に金を出すんだ。俺たちの『月光草』の成功は、奴の逆鱗に触れた。今のお前に関わるのは、商業ギルド全体を敵に回すのと同じことだ」


ヴァスコの言う通りだった。翌日から、リオは街の有力な商人や、新興の金融業者を訪ねて回った。だが、反応はどこも同じだった。扉の前で丁重に、しかし有無を言わさず断られるか、あるいは部屋に通されても、同情的な顔で首を横に振られるだけ。


「アルバレスの若君、あんたの才覚は認める。だが、バルタザール様には逆らえん」


「海図にない島だと? 馬鹿な。そんなものに金は出せん。確実な利益が見込める航海なら、いくらでもある」


彼らの目は、リオではなく、リオの背後にいる巨大な影――バルタザールの影を見ていた。リスボンの金脈は、完全に彼の支配下にあった。誰もが、その流れに逆らうことを恐れていた。


数日が過ぎ、リオの足は棒のようになり、心は鉛のように重くなっていた。ヴァスコの言った通りだ。この街では、金を集めることすらできない。夢の船は、その竜骨の一本すら組むことなく、計画倒れに終わるのか。


その夜、リオは再び『禁書』と向き合っていた。苛立ちに任せてページを乱暴にめくる。そこに描かれた、市場分析、価格戦略、広告理論……。それらは全て、既存の市場で戦うための武器だ。だが、その市場そのものから締め出された今、これらの武器は意味をなさない。


(違う。俺は、何かを見落としている……)


リオは、禁書のページをめくるのをやめ、その奇妙な図形や文字を、ただじっと見つめた。この本は、単なる商売のやり方を説いているのではない。その根底にある、もっと本質的な何か――人の心を動かすための法則を、解き明かしているのではないか。


『価値は、信じさせるものだ』


最初の衝撃が、脳裏に蘇る。


『月光草』で、俺は何を売った? 薬草か? 違う。物語だ。王女の悲恋という、儚くも美しい物語を売った。人々は、薬草が欲しかったのではない。その物語の登場人物になりたかったのだ。


ならば、今回も同じではないか?


俺が売るべきは、「航海計画」という味気ない商品ではない。「投資」という、打算的な行為を求めているのでもない。


俺が売るべきは、『夢』そのものだ。


閃きは、またしてもあの軽い頭痛と、耳の奥で響く誰かの囁き声のような感覚と共にやってきた。視界の端で、禁書に描かれた幾何学模様が、まるで生きているかのように脈動した気がした。


リオは羊皮紙を手に取ると、狂ったようにペンを走らせ始めた。それは、投資家向けの、堅苦しい事業計画書ではなかった。それは、これから始まる大冒険の、胸躍る予告編だった。


『香料覇王と無印の海図』


リオは、計画にそんな大仰な名前をつけた。そして、その下には、禁書から得た知識を総動員して、人々の心を鷲掴みにするような言葉を並べていった。


「――我々は、地図の空白を埋める、最初の人間になる。そこには、金銀よりも価値のある『未知』が眠っている。誰も見たことのない植物、誰も聞いたことのない物語、誰も味わったことのない果実。それらは全て、我々だけの独占市場となる。この航海は、単なる投資ではない。歴史の目撃者となり、自らの手で伝説を創造するための、最初の権利である!」


彼は、航海の先に待つであろう莫大な富を具体的に示しつつも、それ以上に「名誉」と「冒険」という、金では買えない価値を強調した。そして、この計画の出資者を、単なる「投資家」とは呼ばなかった。


冒険投資家アドベンチャー・キャピタリスト」と名付けた。


さらに、リオは出資の仕組みそのものを、一つのエンターテイメントに仕立て上げた。彼は、美しい装飾を施した羊皮紙を用意し、それを『冒険投資証券』と名付けた。そこには、これから建造される船の勇壮な姿(想像図)と、航海の目標が詩的な言葉で綴られ、そして、あの禁書に描かれていた、人の心を惹きつける不可解な幾何学模様が、紋章のようにあしらわれていた。


一口金貨十枚から。誰でも、この伝説の航海の「株主」になれる。そして、株主には、利益の配当だけでなく、航海の進捗を記した「航海日誌」の写しが届けられ、新大陸で発見された品々を、誰よりも先に手に入れる権利が与えられる、と。


「……リオ、お前は」


計画の全貌を聞いたヴァスコは、言葉を失っていた。「これは、商売じゃない。まるで、祭りか、芝居じゃないか」


「その通りだ、ヴァスコ」リオは、燃えるような瞳で答えた。「俺は、この航海そのものを、リスボンで一番魅力的な『ブランド』にする。人々は金儲けのためだけじゃない、この壮大な物語の一部になりたくて、金を出すんだ」


リオは、もはや豪商たちの屋敷には向かわなかった。彼が向かったのは、港の、船乗りたちが集まる一番大きな酒場だった。彼は店の主人に銀貨を数枚握らせると、酒場の中央にあるテーブルの上に躍り出た。


ざわついていた店内が、一瞬にして静まり返る。誰もが、没落したアルバAレス家の三男坊が、一体何を始めるのかと、訝しげに見つめていた。


リオは、朗々と語り始めた。バルタザールのような旧世代の商人が支配する、停滞したリスボンの現状を。その外に広がる、無限の可能性を秘めた未知の海のことを。そして、その海の先にある、まだ誰も見たことのない、夢の大陸のことを。


彼の言葉は、もはや単なる事業説明ではなかった。それは、吟遊詩人が語る英雄譚のように、人々の心を奮い立たせる力を持っていた。彼の声は、聞く者の心の奥底に眠っていた、冒険への渇望、富への野心、そして何よりも、退屈な日常から抜け出したいという切実な願いに、直接火をつけた。


「我こそはと思う者はいないか! このリスボンの、いや、この世界の歴史に、自らの名を刻みたい者はいないか! 富と名誉は、もはや旧世代の商人が独占するものではない! それは、勇気を持って、無印の海図へと船出する我々のものだ!」


演説が終わった時、一瞬の沈黙の後、酒場は割れんばかりの拍手と熱狂的な歓声に包まれた。


「おい、俺も一口乗せてくれ!」


「金貨十枚だろ? 俺の全財産だ、持っていけ!」


それは、リオの想像をすら超える光景だった。船乗りたちだけではない。噂を聞きつけた街の小商人、引退した騎士、親の財産を食いつぶしているだけの貴族の次男坊、そして、ただこの祭りに参加したいだけの市民たち。誰もが、目を輝かせ、なけなしの金を握りしめて、リオの元へと殺到した。


彼らは『冒険投資証券』を、まるで宝物のように受け取っていく。それは、単なる紙切れではない。未来の富と名誉を約束された、夢への片道切符だった。


数日のうちに、リオの前には、豪商一人に頭を下げて得られる額とは比較にならないほどの、莫大な資金が山と積まれた。それは、リスボンのエリートたちが動かす金ではない。名もなき大衆の、夢と欲望が束になって生まれた、新しい時代の金だった。


資金調達の成功がバルタザールの耳に入った時、彼は腹心を呼びつけ、珍しく狼狽した声で尋ねたという。


「……奴は何をした? わしが押さえていない金の流れなど、この街にあるはずがない。一体、どこから金が湧いてきたのだ?」


腹心は、困惑したまま答えるしかなかった。


「は。それが……街の、あらゆる場所から、としか……」


バルタザールは、その時、生まれて初めて理解できない恐怖を感じていた。彼は金の流れは支配できても、人の心の流れ――熱狂や夢といった、非合理的な力の奔流は、支配することができなかったのだ。


資金の目処が立った日、リオはヴァスコを連れて、港で一番大きな造船所を訪れた。親方の前に、金貨が詰まった重い袋を、いくつも積み上げる。


「親方。世界一の船を造ってほしい」


親方は、金貨の山と、リオと、そして彼の隣に立つ、誇らしげなヴァスコの顔を交互に見比べ、深く頷いた。


その日の夕暮れ、造船所には、巨大な竜骨となるべき、一本の巨大な樫の木が運び込まれた。リオとヴァスコは、それを見上げていた。


「本当に、やっちまったな」ヴァスコが、夢見るような声で言った。


「ああ。これからだ」


リオは、ヴァスコの肩に手を置いた。「船のことは、お前に任せる。俺の夢を乗せるに足る、最高の船を頼む」


「……当たり前だ」


ヴァスコは、腰に下げていた槌を、力強く握りしめた。彼は設計図を広げると、竜骨の最も重要な一点を指し示す。そして、大きく振りかぶった。


カーン!


乾いた、澄んだ音が、夕暮れの港に響き渡った。それは、一つの時代の終わりと、新たな時代の始まりを告げる、産声のようだった。


『香料覇王』の伝説を乗せて大海原を駆けることになる船団の旗艦――『アルテミス号』の、最初の鼓動だった。

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次回:# 第五章 船乗りたちの不信

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