# 第二章 夜明けの涙
翌朝、リオはなけなしの銀貨を革袋に詰め込み、ヴァスコの制止を振り切って、リスボン港に面した薬草ギルドへと向かった。ギルドの中は、乾燥した薬草の独特の匂いと、取引に臨む商人たちの熱気が混じり合っていた。
「なんだ、アルバレスの三男坊じゃないか。こんな所に何の用だ? 香辛料と違って、薬草じゃ腹は膨れんぞ」
ギルドの受付に座る恰幅のいい男が、侮蔑を隠そうともせずに言った。周囲の商人たちから、くすくすという嘲笑が漏れる。没落した豪商の息子というのは、これほどまでに惨めなものか。
「『ヒルム草』を。ここにあるだけ、全て買い取りたい」
リオが静かに告げると、ギルドの中が一瞬、静まり返った。そして、次の瞬間、これまでで一番大きな笑い声が爆発した。
「ヒルム草だと? おい、みんな聞いたか! あの、家畜の餌にしかならん雑草を、全部だとよ!」
ギルド長は腹を抱えて笑い転げている。ヒルム草。それは、この辺りではどこにでも自生している、ありふれた薬草だった。効能もほとんどなく、貧民が気休めに煎じて飲むか、家畜の飼料に混ぜる程度の価値しかない。
「リオ、よせ! 正気か? そんなガラクタに、お前の最後の金を全部つぎ込む気か!」
隣でヴァスコが、悲痛な声でリオの腕を掴む。彼の顔は、親友の狂気に直面した男のそれだった。
「ああ、正気だとも」
リオはヴァスコにだけ聞こえる声で囁くと、ギルド長に向き直った。「で、売ってくれるのか、くれないのか」
「ああ、いいとも! 喜んで売ってやるとも! どうせ倉庫の肥やしだ、お前が買ってくれるなら大助かりだ!」
取引は、あっという間に終わった。リオの革袋は空になり、代わりに、山と積まれたヒルム草の麻袋が残された。ヴァスコに手伝わせてそれを荷車に積み、ギルドを後にするリオの背中に、いつまでも商人たちの嘲笑が突き刺さっていた。
屋敷に戻ると、兄たちが荷車を見て呆れたように言った。
「リオ、お前は何を考えているんだ。そんな雑草の山をどうするつもりだ」
「……投資だよ、兄さん」
リオはそれだけ答えると、使用人用の小さな部屋に籠り、買ってきたヒルム草を床一面に広げた。青臭い、土の匂いが部屋に満ちる。ヴァスコは、部屋の隅で頭を抱えていた。
(価値は、信じさせるものだ……)
リオは禁書の一節を胸の中で繰り返す。だが、どうやって? この、誰の目にも価値がないと映る雑草に、どうやって物語を信じさせる?
思考が堂々巡りを始めたその時、不意に、こめかみを鋭い針で刺されたような、激しい頭痛がリオを襲った。
「ぐっ……!」
思わず呻き、頭を押さえる。視界が白く点滅し、耳の奥で誰かの囁き声のようなものが響いた。それは言葉にはならず、ただ、悲しく、美しい旋律のようだった。そして、脳裏に一つの映像が、まるで稲妻のように閃いた。
――月の光が降り注ぐ、静かな庭園。涙を流す、銀色の髪の王女。その涙が、足元の草に滴り落ち、淡い光を放つ。
頭痛は、すっと引いていた。だが、脳裏に焼き付いた光景は消えない。リオの口から、無意識に言葉が漏れた。
「……月光草」
そうだ、この名は『月光草』だ。ヒルム草などではない。そして、この草には物語がある。リオは、まるで何かに憑かれたようにペンを手に取ると、震える指で羊皮紙に物語を書き綴り始めた。それは、彼が創作しているというより、頭の中に流れ込んでくる物語を、ただ書き写しているような感覚だった。
かつてこの国にいた、美しくも病弱な王女セラーフィナの物語。隣国の王子と恋に落ちるも、政略によって引き裂かれ、悲しみのあまり城の塔から身を投げた。彼女が流した最後の涙が、塔の下に生えていた薬草に染み込み、月光を浴びて奇跡の力を宿したのだ、と。
物語を書き終えた時、リオは全身汗びっしょりになっていた。しかし、その顔には確信の光が宿っていた。
「ヴァスコ、街で一番腕の立つ吟遊詩人を探してきてくれ。金は、後で払うと」
数日後、リスボンの街角や酒場で、一人の吟遊詩人が新しいバラードを歌い始めていた。それは、これまで誰も聞いたことのない、王女セラーフィナの悲恋の物語だった。詩人の奏でるリュートの物悲しい音色と、胸を打つ歌詞は、人々の心を瞬く間に掴んでいった。
「まあ、なんて可哀想な王女様……」
「その涙が染み込んだ薬草が、今もどこかに?」
噂は、貴婦人たちのサロンから、商人たちの集会所へ、そして裏路地の井戸端会議へと、燎原の火のように広がっていく。人々は、物語に熱狂した。誰も、それがアルバレスの三男坊が仕掛けた戦略だとは夢にも思わない。人々は、自ら進んで物語の登場人物になりたがっていた。
そして、噂が最高潮に達した日。リオは、アルバレス家の門の前に、小さな木の看板を一つだけ立てた。
『奇跡の薬草 “月光草”、本日、日没より限定百個販売』
日が沈む頃、アルバレス家の前には、一台、また一台と、貴族や豪商のものらしき豪華な馬車が停まり始めた。馬車から降りてきたのは、絹やレースで身を飾った貴婦人たちだ。彼女たちの目当ては、薬草の効能ではない。悲恋の王女の物語、その一片を手に入れることだった。
「私が先よ!」
「いいえ、私が!」
みすぼらしい屋敷の前で、リスボン中の富と虚栄心がぶつかり合う。リオは、ヒルム草を小さなビロードの袋に一つずつ詰め、法外な値段をつけた。元の百倍以上の価格だ。それでも、貴婦人たちは我先にと金貨を差し出した。
「売り切れだと? そんな……!」
「明日は入荷しないのですか!?」
百個の『月光草』は、瞬く間に完売した。
その夜、アルバレス家の食卓には、ありえない光景が広がっていた。テーブルの中央に、金貨と銀貨が詰まった革袋が、小山のように積まれている。兄たちは、ただ呆然とそれを眺めているだけだ。ヴァスコは、金貨の山とリオの顔を、何度も何度も見比べている。
「……信じられん」
ヴァスコが、ようやく絞り出した。
「ただの雑草が……物語一つで、金に化けた……。リオ、お前は一体、何をしたんだ? これは、まるで魔法じゃないか」
「魔法じゃないさ」リオは静かに微笑んだ。「俺は、人々の心に火をつけただけだ。彼らが元々持っていた、物語への渇望という名の火にね」
リオの兄たちは、初めて末の弟に畏敬の念を抱いたような目で見ていた。この日、リオ・アルバレスの名は、嘲笑と共にではなく、驚愕と共にはじめてリスボンの街に知れ渡ったのだ。
成功の余韻と、家族からの賞賛に、リオの心は満たされていた。これで、家を再興できる。第一歩は、完璧だった。
その時、屋敷の扉が、重々しくノックされた。
こんな夜更けに誰だろうと、ヴァスコが訝しげに扉を開ける。そこに立っていたのは、上質な仕立ての服を着た、冷たい目をした初老の男だった。その男の胸には、リスボン商業ギルドの紋章が刺繍されている。
男は、室内の金貨の山を一瞥すると、侮蔑とも感心ともつかない表情で、リオを真っ直ぐに見据えた。
「リオ・アルバレス殿ですな」
「……いかにも」
男は、抑揚のない声で告げた。
「我が主人が、お主と話がしたいそうだ。――商業ギルド長、バルタザール様がな」
----
次回: 第三章 旧世界の影




