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# 第一章 没落の淵と禁書




豪商アルバレス家の歴史が、陶器の割れる甲高い音を立てて崩れていく。


「これもだ!」「こっちの棚も差し押さえの札を貼れ!」


怒号と、無遠慮な足音、そして家財が床を引きずられる不快な摩擦音が、かつて富と権威の象徴だった屋敷に響き渡っていた。三男であるリオ・アルバレスは、二階の吹き抜けからその光景をただ無力に見下ろしていた。赤い札が貼られた調度品の数々が、まるで血を流しているように見える。あれは父が、いや、祖父が東方の国から買い付けたという、見事な絵付けの壺ではなかったか。それが今、借金取りの男の汚れた手袋に掴まれ、乱暴に運び出されていく。


「おい、リオ。いつまでそんな所で突っ立っている。父上がお呼びだぞ」


背後からの声に振り向くと、次兄のホセが不機嫌そうに腕を組んでいた。彼の顔には焦りの色こそあれ、この状況を打開しようという意志の光は欠片も見当たらない。


「……また、長兄の仕出かしたことの言い訳か」


「口を慎め。お前は黙って父上の言うことを聞いていればいいんだ」


長兄のアントニオは、とうの昔にこの屋敷から姿を消していた。彼の際限のない放蕩が、アルバレス家の財政に致命的な穴を開けたのだ。そして次兄のホセは、旧態依然とした商売のやり方に固執し、傾きかけた家を支えるどころか、その没落を早めることしかできなかった。


リオは唇を噛んだ。金も、人脈も、力もない三男坊に何ができるというのか。兄たちへの軽蔑と、何もできない自分自身への苛立ちが、胃の腑で黒く渦巻く。借金取りの怒号がまた一つ、階下で響いた。父の書斎から、何かが床に叩きつけられる鈍い音がした。


父の部屋へ向かうと、そこは既に嵐が過ぎ去った後のようだった。高価な書物や地図が床に散乱し、威厳のあった執務机にも、無慈悲な赤い札が貼られている。父は椅子に深く身を沈め、その顔は抜け殻のように色を失っていた。


「……リオか」


「はい、父上」


「もはや、万策尽きた。この屋敷も、明日には人手に渡るだろう。お前たちには、苦労をかけるな」


絞り出すような声だった。リスボン王国にその名を轟かせた豪商の、これが末路か。リオは、こみ上げてくる何かを押し殺すように、固く拳を握りしめた。兄たちは父の言葉にただ俯くだけで、誰一人として顔を上げようとはしない。この期に及んで、誰一人として。


その夜、リオは自室のベッドで眠れずにいた。屋敷は不気味なほど静まり返り、昼間の喧騒が嘘のようだ。明日になれば、このベッドも、この部屋も、自分のものではなくなる。一家は路頭に迷うのだ。


(何か、何か手はないのか……)


金目のものは全て差し押さえられた。残っているのは、ガラクタ同然の古い家具と、借金取りですら価値を見出さなかった、忘れられた品々だけ。


その時、ふと脳裏をよぎったのは、屋敷の最奥にある、今はもう誰も使わない一族の書庫だった。子供の頃、一度だけ迷い込んだことがある。カビと古い紙の匂いが充満する、薄暗い部屋。そこには、商売に役立つどころか、誰も読めないような異国の古文書や、何の役にも立たない先祖の航海日誌などが、埃を被って眠っているだけのはずだ。


(……無駄だ。分かっている)


だが、じっとしてはいられなかった。藁にもすがる思い、という言葉がこれほど腑に落ちたことはない。リオはベッドから抜け出すと、音を立てないよう慎重に廊下を進んだ。


忘れられた書庫の扉は、軋むような悲鳴を上げた。中は記憶の通り、カビと埃の匂いが鼻を突く。窓から差し込む月光が、空気中を舞う無数の塵を銀色に照らし出していた。本棚には、背表紙の文字も掠れた古書が、まるで墓標のように並んでいる。


リオは、何かに憑かれたように書物を漁り始めた。羊皮紙の束をめくり、革装丁の分厚い本を開く。だが、出てくるのは読めない文字の羅列や、色褪せた海図ばかり。焦りだけが募っていく。兄たちにこの姿を見られれば、きっと嘲笑されるだろう。「まだ何か価値のあるものが残っているとでも思っているのか、夢見がちな三男坊め」と。


時間だけが、虚しく過ぎていく。書庫のほとんどの本を手に取り、そして失望と共に棚に戻した。やはり、ここには何もなかった。諦めが胸を支配しかけた、その時だった。


書庫の最も奥まった一角。ひときわ大きな本棚の裏に、不自然な隙間があることに気がついた。壁との間に、指が数本入る程度の空間。好奇心に駆られ、リオは本棚に手をかけ、渾身の力で引いてみた。


ゴゴゴ、と重い音を立てて、本棚がわずかに動く。その裏には、壁に埋め込まれるようにして、一つの小さな木箱が隠されていた。錠はかかっていない。震える手で蓋を開けると、中には一冊の本だけが、大切そうに布にくるまれて収められていた。


手に取った瞬間、リオは微かな違和感を覚えた。紙の手触りが、これまで触れてきた羊皮紙やパピルスとは全く違う。滑らかで、均質で、そして驚くほど軽い。表紙には題名すらなく、ただ無機質な黒い装丁が施されているだけだった。


ページをめくる。そこに記されていたのは、彼の知るどの国の言語とも違う、奇妙で角張った文字の羅列だった。だが、文字よりも目を引いたのは、ページの大半を占める不可解な図形や絵だった。


あるページには、巨大な帆船の絵と共に、矢印が複雑に絡み合った図が描かれている。別のページには、市場らしき場所に集まる人々の流れが、まるで川の流れのように図式化されていた。そして、特にリオの心を捉えたのは、意味不明な幾何学模様の数々だった。あるものは、複雑怪奇な羅針盤のようであり、またあるものは、忘れ去られた神々の紋章のようにも見えた。その線は、数学的な冷たさと、神秘的な熱っぽさを同時に宿しているように感じられた。


(……なんだ、これは)


全く理解できない。これもまた、先祖が集めたガラクタの一つか。失望と共に本を閉じようとした、その瞬間。あるページの片隅に、リスボン王国の公用語で書かれた、短い走り書きが目に飛び込んできた。おそらくは、この本を隠した先祖の筆跡だろう。


『価値は、作るものではない。信じさせるものだ』


その一文を読んだ瞬間、リオの脳を、経験したことのない衝撃が貫いた。


価値は、作るものではない。信じさせるものだ。


それは、彼の世界観を根底から覆す言葉だった。商人の息子として、彼は「価値」とは品物そのものに宿るのだと教えられてきた。素材の良さ、作りの丁寧さ、希少性。それらが価値を決定するのだと。だが、この本は違うと囁いている。価値とは、品物の中にあるのではなく、それを見る人間の「心」の中に生まれるのだと。


リオは、再び本のページを貪るようにめくった。意味不明だった図形や文字が、先ほどとは全く違って見え始めた。これは、単なる絵ではない。何かの法則、何かの「戦略」を図式化したものではないのか。人々の流れを描いた図は、市場における人の心の動きを。複雑な矢印は、品物が人の手に渡るまでの「物語」の流れを示しているのではないか。


そして、あの幾何学模様。あれは、人々の心に「価値」という名の刻印を打ち込むための、魔法陣か、あるいは紋章なのではないか。


全身の血が沸騰するような興奮が、リオを襲った。これはガラクタなどではない。これは、世界の法則を書き換えるための、禁断の知識が記された書――『禁書』だ。


「……リオ?」


不意に、背後から声がした。驚いて振り返ると、幼馴染のヴァスコが、心配そうな顔で立っていた。がっしりとした体格の彼は、代々アルバレス家に仕える船大工の息子だ。


「こんな夜更けに、埃まみれでどうしたんだ。お前の兄貴たちが、お前が書庫に閉じこもってるって笑ってたぞ」


「ヴァスコ……」


「……ひどい顔だ。まあ、無理もないが。だが、お前まで潰れちまったら、おしまいだぜ」


ヴァスコの不器用な優しさが、今はもどかしい。リオは、手の中の禁書を強く握りしめた。カビと古い紙の匂いに混じって、この本からだけは、微かに異世界の、乾いて知的なインクの香りがするような気がした。


「ヴァスコ。俺に、まだ少しだけ金は残っているか」


「金?差し押さえを免れたお前の小遣い箱のことか?せいぜい銀貨が数枚ってところだろう。だが、何に使うんだ」


「……確かめたいことがある」


リオの瞳に宿った、狂気にも似た熱を見て、ヴァスコは言葉を失った。それは、数時間前まで絶望に打ちひしがれていた男の目ではなかった。


屋敷に戻ったリオは、禁書を抱きしめ、震える声で呟いた。


「信じさせる……価値を……。そうだ、最後の元手で、あの誰も見向きもしない薬草を、全部買い占めよう」


その言葉の意味を、この時、リオ自身以外に理解できる者はいなかった。それは、後に「香料覇王」と呼ばれることになる男が、世界に向けて放った、最初の宣戦布告だった。

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次回:# 第二章 夜明けの涙

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