異世界は簡単に行けるものだ
上京してきてまだ日が浅く、自室に招く様な友達も居なかったのでこれまではこの静けさが日常であった。しかしながら彼はこの状況に違和感を、普段と何かが違い寂しいという感情を覚えていたのだ。
「まるで夢みたいだったな」
彼女が去った後もさっきまでのことが夢の様に思えた。水浸しにされた時は本気で殺そうかと考えたが、今はコップが名残惜しげに2つ並んでいる。
結局この日は目が冴えてしまい、寝たのか寝てないのか分からない状態で翌朝を迎えた。
翌朝、昨日の彼女のことは夢での出来事だと思い込んだ。しかしその度に机の上に並んだコップの跡が現実に引き戻した。
橘はクラクラするような眠気の中、なんとか学校まで辿り着く。
「おはよう〜」
「あ、おはよう・・・」
隣の席の七瀬さんに挨拶され、少したじろいてしまった。
眠気と今朝の出来事が脳裏に焼きついていたが、彼女の顔を見ただけで一気に昨日、学校に行くのを楽しみにしていた自分を思い出す。
「寝不足?」
「まあ、そんなとこ」
学校に来てこれまで休み時間、狸寝入りで過ごしていたが初めて友達と過ごす時間であった。ただ・・・
「それで昨日弟から電話が掛かってきてね、お姉ちゃんいないと寂しいって泣きじゃくって」
楽しそうに笑いながら話す七瀬。しかし当の橘はというと
「ね、眠たい・・・」
昨日の寝不足が祟って強い眠気に襲われていたのだ。
「それで弟って本当に可愛いよね〜」
七瀬は高校に進学して初めて話せる友達ができた事でつい楽しくて話し続ける。
橘は昨日のエリスを恨みながら最後の力を振り絞って相槌を続けた。
その後、昼休憩までの休憩時間と若干の授業時間を犠牲にし、ある程度眠気が回復した
5限は体育だった。入学してから間もないということで今日は体力テストの短距離がメインである。
ピッという電子音がグラウンドに響き次々と100m走の計測が始まる。
そして当の橘はというと
「ゼェゼェ」
遅かった。二人同時に走って計測するシステムであり、彼と同時に走ったのはサッカー部の1年生キャプテンの野田であった。
「タイム、13秒56」
サッカー部のキャプテンというだけあって、かなり早い。計測係がタイムを読み上げると周囲から歓声が上がる。
また、顔も整っている野田は女子人気も高くグラウンドの中で体力測定を行っていた女子からも注目を浴びていた。よって橘にとっては公開処刑他ならなかった。
「タイム、21秒43」
約8秒差。しかし彼と走っている時の距離は8秒というわずかな数字からは想像できないほどであった。
決して他の生徒はそこまで気にしているわけではなかったのだが、橘は強い劣等感に襲われた。
ただ、思いの外タイム計測に時間がかかっており、この日の体育は100m走のみで終わりそうだったのだが
「時間余ったしリレーでもするか」
体育は担任が担当なので、入学して早々だしもう少し遊びたい。そんな雰囲気を察してかの提案であった。
「お、やろうぜ!」
「チームどうする?」
女子もグラウンドに居るということもあり男子は皆テンション高めで口々に期待感を持つ
ただ結果が振るわなかった生徒にとっては再びの公開処刑宣告であり気の振るわない。
そしてチーム決めの際も橘含めた結果の振るわなかった生徒たちはハズレというレッテルを貼られ、走順では適当に真ん中の方に入れられた。
「どうにか無難に過ごせますように」
女子生徒の方も何やら面白いことが始まりそうだと言わんばかりに全員がこちらに注目している。
橘は運良く運動部が中心のメンバーに加えられた。さっき100m走で一緒になったサッカー部キャプテンの野田も一緒のチームだ。昨日の敵は今日の友とはこのことである。
彼らがある程度リードを作ってくれれば、抜かされることもなく無難に終わることができる。
ピッ
さっきまで散々聞き慣れた電子音が再びグラウンドに響くとともに二人の男子生徒が走り出す
その瞬間に女子生徒、男子生徒問わずに応援の声が聞こえてくる。
「頑張れー!」
「イン取れよ!」
つい数週間前まで、赤の他人同士だったとは思えない団結力で全員が注目する中リレーが始まった。第1走は運動部同士ということでほぼ拮抗した状態で2走にバトンが渡された。
橘は4走を任されている。合計で16人、各チーム8人ずつなのでちょうど真ん中だ。
リレーは100m勝負だ。ただ、テイクオーバーゾーンがあるので受け取る場所によっては若干距離が前後する。
橘のチームは2走、3走と徐々に相手との距離を離していた。相手チームはどうやら運動が苦手組が序盤に集中しており、こっちのチームは後半に集中しているため差が開いたらしい。
3走が出てから橘は重い腰を上げてスタートラインに着く。競争相手は如何にも運動部といった見た目の背の高い生徒だ。入学してから数週間経ったがなんとなくみたことあるような、見たことないようなそんな見た目の生徒である。
相手との差は少し開いており、なんとか逃げきれそうなそんな距離だった。
バトンを受け取った橘は力の限り走る。ただ、初めのコーナーに差し掛かった辺りで先ほどの100m測定の疲れがドッとのしかかってきた。
コーナーを抜ける頃には自分でも分かるぐらい初めと比べてペースが落ちていた。
周囲はもしかしたら逆転できるかもということで徐々に歓声の声が大きくなっていた。
橘はその後も順調にペースを落としていき、最後の直線であっさりと抜かれてしまい、同じチームのメンバーからは落胆の声が、そして相手チームと女子の方からは歓声が聞こえてきた。
走り終わった後、上がる息を押さえて列に並ぶ。こんな時、友達がいてイジってくれでもすれば気が楽なのだが、終始無言のまま罪悪感だけが重くのしかかる。
あくまでもレクリレーション的な物であるというのは頭の中では分かっていたが、その後の着替えの時も、6限の間の休憩時間も名前も知らないクラスメイトがリレーの結果に文句を言ってるのが聞こえてきた。
そんな会話を聞こえないフリをしていた橘を救ったのはある一言だった。
「さっきのリレー、遅かったねぇ」
その名の通り、1つの救いの手が差し伸べられた。
差出人は隣の席の七瀬。人を小馬鹿にするような笑みを浮かべながらこちらを見ていた。
「うっせ。運動苦手なんだよ」
「見た目通りだね。正直、さっきのリレー見てて笑いそうになった」
彼女は笑いそうな顔から笑った顔へと進化を遂げ、クスクスと手で口を覆いながら笑っていた。
イジられているという建前上、橘は反抗的な態度を見せているが、内心ではすごく嬉しかった。心が軽くなったような、そんな気分だった。
体育の後ということもあり、6限前の休み時間はものの数分で終わり、すぐに授業が始まった。そしてその後は特に何もなく授業終了後には
「またね〜」
とありきたりな挨拶を交わして学校を後にするのだった。
そしていつもの通学路をいつもの音楽を聴きながら一人で帰る。
「ただいま〜」
今日もつい癖で言ってしまった。別に悪い事では無いので自制するつもりはないのだが何と無く側から見れば変な人なのではと思ってしまう。
「おかえりなさい」
・・・?家には誰も居ないはずなのに今、返事が聞こえたような
今日の寝不足と体育で疲れてつい実家に居た時の幻覚が聞こえたのだろう。良くあることだ。
おそらく反射的に幻覚であると思いたかったのだろうが、ドアを開けるとなぜか電気がつけっぱなしだった。消し忘れただけであって家には誰にもいない。そう思い込みながら恐る恐るリビング兼寝室の扉を開けると
「遅かったですね」
「ぎゃあぁぁぁ」
人が居た。しかもポテチを食べてテレビを見ながらくつろいでいる。
「お、おま・・ってかエリスか?」
「あれ、もしかしてもうお忘れですか?」
お忘れな訳がない。どうやら彼女の世界には常識というものが欠如しているようだ。
「ところで、このお菓子美味しいですね!これも近未来感あってワクワクします!」
そしてどうやら異世界にはポテチというものが無いらしい。この見慣れたパッケージすら近未来感漂うというのだから一体どんな国なのか。
強盗と出くわすと思って鼓動が早まっていた橘の心臓は徐々に落ち着き始めるが
「ってかなんでいるんだ」
「今日は橘さんを私の世界に案内しようと思いまして」
思いもしなかった提案に橘は驚く。
「それって、異世界に連れて行ってくれるってことか・・・?」
「異世界・・・?あ、そうですね私から見たら現実世界でもこの世界の方から見れば異世界ですね」
橘が昨日考えた様なことをエリスは口にする。確かに円安と円高ぐらいややこしいよなこの会話。
「ってか俺も異世界に行けるのか!?」
頭のどこかで魔法的な何かが使えないと昨日みたいなイマジン溢れるゲートの様なものを潜れないとばかりに決めつけていた。
「一緒でしたら、魔法が使えない方でも大丈夫です!」
異世界、ゲームやアニメで見たような世界に今から行けるということに橘の鼓動は再び早くなった。
しかしある種これから世界旅行に行くと言われたも同義である。そしてエリスが初めてこの世界に来た時と同様に橘は目を輝かせる。
「行こう!何か持っていくものはある?」
「特には大丈夫です!じゃあ早速行きましょう」
えいっという可愛らしい掛け声と共に再びイマジン溢れるゲートが現れた。