カレーそば 2
この日の覚えていることは一つしかなくて、それは全員で駅から歩かされたことではなく、途中の蕎麦屋に寄ったときのことだ。祖父は毎月必ず立ち寄っていたらしい。
坂の途中の小さな店の壁に張られたメニューには「カレーそば」というものがあり、ぼくは蕎麦にカレーがあることを初めて知った。だから当然、あれが食べたい、と言った。しかし母は、お前には辛くて食べられないから違うものを選べ、と却下した。それでも食べたいと言い返した。父は何か言ったと思うけれど祖父は黙っていた。
ぼくが割と抵抗したので、オーダーを取りに来たお店の人は、傍に突っ立ったままだった。
カレーそばを食べたいぼくの注文だけが決まらず、早くオーダーを取り終えたいお店の人の、極めて控えめな苛立ちに「空気」は変わって行くのだった。
「ぼくには辛いと思うよ」ついにお店の人は口を出した。
へそを曲げたぼくは何を食べたのかも覚えていないし、その後のことも殆ど覚えていない。行きはそのまま歩いたのだろうけれど、帰りは祖父を残しバスかタクシーで駅まで戻ったと思う。カレーそばが食べたかった、といつまでもネチネチ言うぼくを「おばぁさんにそっくり」と母は笑って相手にしなかったはず。
祖父がバスやタクシーを使わず、時間をかけて歩いたのは単にまだまだ自分は歩けるぞ、と確認するためでもなく、バスで席を譲られたり、譲られなかったりしたら、どちらも嫌だしな、と思っていたからでもなかろう。タクシー代が惜しいわけでもなかったはず。それなりの時間をかけて娘のことを思い出したかったに違いない。生前にしてやれなかったことや、してやれたことを、今月も一人で考えたかったのだと思う。
病気で娘を亡くしたことで、自分の「本当の家族」と言えば語弊があるのかもしれないけれど、俺の「家族」は「四人」だ、と密かに思っていたような気がする。たとえぼくら二人の孫と一緒に暮らしていても、そんな気が今はする・・・・・・ぼく自身もそうだからだ。もちろん「本当の家族」と言うのは語弊があるけれど、今のぼくには奥さんと一人息子がいて、奥さんのお母さんとも同居している。好き勝手やらせてもらい、それなりに楽しく呑気に暮らしているのだけれど、やはり基となる家族観は「あのころの五人」だ。たとえば初恋が一番幸せな恋だったとは限らなくとも、それ以上のインパクトはないように。
まだ十代の娘を亡くし奥さんには先立たれ、まさかの息子も見送ることになった祖父。
無茶な国の若者だった一兵卒として、雪中の行軍やらを経験した足腰がなかなか萎えなかったからではなかろうが、最後になってしまったのだった。
息子を亡くし、さすがに生命力を失くした祖父が寝たきりになった時期に「行くな、行くな」とうわごとを言ったことがある。
それはぼくの修学旅行が間近に迫っていたときで、友達と服を買いに原宿へ行く約束をしていた日だった。
行くな、行くな、はぼくに言っているのかと思った。今日原宿で何かあるのか、それとも修学旅行で何か、それもただならないほどの災いを予言しているのかと、マジで思い、フワフワしている意識をそこら辺に飛ばしている祖父へ、これから原宿に行くなってこと? それとも修学旅行? と問い質した。傍にいた母には、こういう時は余り話しかけるな、と注意された。でも本当に「不吉な予言」のような気がしていたし、原宿にも修学旅行にも絶対に行きたかったので、何度も尋ねていると祖父の意識はそこら辺から布団の身体に戻ったらしく、はっとする目をした。
「行くなっ、てどこに?」ぼくは真剣に聞いた。
「三人ですぐそこにいたんだ。でも行っちまった」祖父の目は少し濡れていた。
「原宿には五人で行くんだよ。二人は行かない方がいいってこと?」ぼくは、行かない方がいい二人は誰だろうか、を考えた。
「平気だから行ってきな」母が笑った。とんちんかんだったぼくに対してだったのだろう、と今はちゃんと分かっている。
祖父の命日は叔母と違う「月」だけれど「日」は同じだ。だから我が家の仏壇にある「過去帳」に二人は同じページで隣り合っている。よかったね、えいこちゃん。
来月も25日に投稿します。