カレーそば 1
ぼくが生れてからひと月もしないで祖母は鬼籍に入った。家で病床に伏していた祖母は咳き込みながら、ニ三日前に生まれていま戻って来たばかりの赤子を、こっちに寄こせ、と母に言い布団の中で抱いたそうだ。
「おばぁちゃんは相変わらずゼコゼコやってるし、布団は汚いしだったから、お前を自分の手で渡すのは本当に嫌で迷ったんだけど・・・・・・ごめんね」産後の母は、余命僅かな姑の圧に屈してしまったわけだ。
初めて語る母は謝っていたけれど結構笑いながらだった。とにかく布団がね、と。もちろんぼくは嫌じゃないし、むしろちょっとうれしかった。
祖母の記憶はない。でも「際の際」を待っているだけの(汚かったらしい)布団の中でゼコゼコされたせいか、ある時期まで性格や行動に「祖母の痕跡」がはっきり残されていた、と言われながらぼくは五人家族のなか育った。祖父と両親と兄。ぼくが十四歳のときに父が死ぬまで五人家族の暮らしは続いた。
五人揃って出かけたことが一度だけある。一度だけある、と言うことは一度しかなかったのだ。我が家の墓がある小金井の多磨霊園へだった。
子供のころに連れていかれたのは、春秋の彼岸と夏の盆(うちは東京だから七月だった)、そしてお正月。年に四回だけ。一方で祖父は毎月一人で行っていた。キンモクセイが植わる墓のなかには妻だけでなく十七歳で他界した娘がいるのだから、娘の月命日に行っていた。基本的にはそうだったと思う。
・・・・・・ところで、このエッセイを書きながら、どうしてあの日(あるいはあの日だけ)は五人だったのかを初めて考察してみたところ推断するに至った。
祖母の七回忌だったのだろう。
十月が命日の祖母は九月生まれのぼくとこの世を入れ違えていたので、ぼくの当時の年齢的な感じで言えば、ちょうど七回忌に当たるような年だったはず。
暑くも寒くもなく、でも彼岸の中日や週末みたいに武蔵小金井駅周辺の人出はすさまじくなんかなかった。つまり臨時バスが出る、フェス会場から一番近い駅のような状態ではなかったのだ。
そもそも居心地よくなく同居する、二人のボス同士が揃って、しかも家族を連れて外出するのだから、それ相当な理由なり用事でなければならない。死んだ祖母の七回忌はさすがに相当するだろう。
祖父のいない普段の墓参りは駅からバスに乗るか、たまにタクシーを使った。でも祖父はいつも歩いた。駅から「裏門」まで30~40分はかかるし、墓までは更に15分ほどの距離がある。杖を突いて歩く祖父は我が家で一番の健脚だった。