whats up
今月は「whats up」と「カレーそば」の二本立てです。
車の普通免許を取ったのは23歳のときだった。周りの友達の殆どが20歳までには取っていたので、幾らか遅かった。
父のいない「実家」に車はなくて、二つ違いの兄は自分の車を持っていたけれど、とっくに家を出ていたから、免許取りたてのぼくが運転の練習をするにはレンタカーしかなかった。当時は取得一年未満でも借してれくれるところがあり、初めて借りたのは青いシビックだ。3時間レンタルの最後に軽く木の電柱へバンパーをぶつけてしまった。ただ傷らしい傷はついていなくて、少しだけ色が付着する程度だったので黙っていたら、返却後の車体点検をした店員さんに「また、よろしくお願いします」と言われた。ラッキー感と罪悪感を持ったことを覚えている。
車を買う金銭的余裕はないし、お金を払いレンタカーで練習するくらいなら逆に運転できるバイトでもなかろうか? とレンタカー屋のバイトを探した。そして働けることになったのだが、当然何度もぶつけてしまい、さすがに運転禁止の身となる・・・・・・そのタイミングで「うちに来て働かないか?」と運送会社の社長に声を掛けられ「後を濁し」転職させてもらった。なかなか身勝手な若造だったのだ。
初めての配達のバイト先は大手の電子機器部品を各営業所や現場(主に銀行のATMの修理や定期メンテナンスをしている作業員)へ、基本的にはスポットで届けるものだった。配達エリアは都内全般と首都圏にある各営業所。4~5年ほど働き、路上教習とは「パンと石のパン」くらいは違う、公道での実践運転と都内の道を覚えた。
車は軽自動車のバンだったから、たまにレンタカーで乗用車を借りると、ボンネットの長さに慣れていなく、それは今も変わらない。ぼくは今の仕事で2tのロングに乗っている。
毎日仕事で車に乗っていれば、当然ラジヲをつけるもので、初めて聴く素晴らしい曲がかかったり、ハッとするようなメールが読まれたり、マジか!! と驚くようなゲストの話を聞くことがある。
電子機器部品の配達をしていたときに、今も忘れ難いラジヲ放送があった。忘れ難いラジヲ番組の放送ではなく、忘れ難いリスナーからのFAXだ。ガラケイすらない昔のことなので、パーソナリティが読み上げたのは、ラジヲネームの女の子が綴ったFAX。ちなみに番組がなんだったかは全く覚えていない。年の瀬が迫った昼過ぎのFM放送だった。
読み上げられた内容を正確に記すことは不可能なので、主旨だけは違わず再現するとこんな感じである。
「今年、私の身に起こった出来事は全くしょぼくれるものばかりでした。私は五月に体調を崩してしまい、大学を休学し夏休みが明けるころには復学しましたが、今一つ心の調子が戻らないまま、行っては休み、休んでは行き、無理して行ったらしばらく休んでしまい、結果十月には留年が決まってしまいました。ドロのような日々の底は一体どこにあるのか? 未だ気力は萎えるばかりです。そして以前より仲たがいしていた両親はついに別居を決めてしまい、三日前に父は家を出て行きました。今年の私は、本当に何やってんだか? という気分です」
大学生(何年生だったかは思い出せない)の彼女のリクエストは4ノンブロンズのWhats upだった。
聞いたのは水天宮の手前にある交差点だ。あかの他人でしかない女子大生のやるせなさと憤りが、歌詞を絞り出すように、削り出すように歌うリンダ・ペリーの声に乗って伝わってきてしまい、歳を取って涙腺が虚弱化する今よりもずっと若かったのに、崩壊というほどでは決してなかったけれど赤なのか青なのか、信号が分からないくらい涙が溢れた・・・・・・あの時のことを思い返せば、カーラジヲのボリュームをもっと上げて、たとえば配達伝票など燃えやすい可燃物を近づけてみたら本当に引火したかもしれないほど熱く聞こえていたもんだ。
翌年の十月そこのバイトを辞めた。ある日の夕方「詰め所」で一人になっていたとき「俺はここで何をしているのだろう?」と、大袈裟に言えばようやく人生を考えたのだ。先月に誕生日を迎え、あと何年かすれば20代も終わるぞ、と思っていたことが一番大きな要因だったろうけれど、昨年末のラジヲ放送も頭のどこかで再放送されていたのだと思う。