K 2
ぼくがカラマーゾフの兄弟を初めて読んだのは、ほんの数年前のことだ。いつかは読まなければ、と思っていたけれど、それよりはるか以前に読んでいた「罪と罰」が、それほど面白くなかったからだ。何だかやたらカギカッコが多いだけの印象しか残らなかった。少なくとも、ガルシア・マルケスやスティーブ・エリクソンを初めて読んだ時の、腰を抜かした感覚は微塵もなかった。そんなわけで、でもいつかは読まなければ、と思いながら長い間避けて来ていた。
・・・・・・とんでもなくすごい小説だった。自分勝手でハチャメチャな親父には、むしろユーモアを感じた。「フョードル」と言うくらいだから、そのユーモアさは歴史的大文豪自身の内面に実はあるものだろう、と思った。
でもやはり何と言って「大審問官」だ。全部を読み終わる前に一つの章だけを直ぐに読み返すことなどこれまで一度もなかった。興奮しながら読んだ文章は中学生の時に友達から借りた「フランス書院」くらいだ。よく覚えていないけれど。またこの読書中の興奮の種類は、プロレスが「プロレス」であったことを知らずに「心から信じて」観ていた、小学生のころに経験していたそれとよく似ていた。
ぼくが読んだ単行本(下)の解説の一節にも感銘を受けた。
小説には魂があるもので、この作品のそれは間違いなく「大審問官」だ、という趣旨が、サラッと書かれていた。作者から離れた作品自体に「魂」があることなど知らなかったし、言われれば確かにあるような気がしてきた。
それにしても、会話のほぼ全てに「!!」をつけて、スケベから宗教批判まで、たぶん何もかもを登場人物同士で怒鳴り合わせる、その熱量に満ち満ちたカラマーゾフの兄弟が絶筆ってすごい。さすがにすごすぎる・・・・・・。
いつだかカラマーゾフの兄弟の原稿が発見された、というニュースをテレビで見たけれど、ぼくには見慣れていない字面のロシア語だったこともあり、本当の天才作家の頭の中が「字」になると、たとえばだが満天過ぎる夜空のような畏敬の念を覚えた。もちろんこれは個人的な感想だ。
カラマーゾフの後に直ぐ、悪霊も読んでみた。これも素晴らしかった。ドアの隙間からこっそりと見ていたシーンは「彼」の心音が聞こえてきそうだった。とにかくこちらもエネルギーに満ちていた。たぶん今「罪と罰」を読んだら、昔とは違うだろうな、とは思うけれど、読み直してはいない。
今ならYが残念がらないような「会話」をすることが可能な気がするし、是非ともしてみたいと思うのだが・・・・・・。
彼らは互いに新しい恋人を作った。Yの新しい恋人はぼくの知人でもあったので、彼女とはその後も繋がりはあったけれど、これまでとは違うバンドを始めてこちらも新しい恋人ができたKとは遊ばなくなってしまった。彼はどこかでぼくに「裏切られた」と思っていたはず。どうあれ、あいつの新しい男はお前の友達なんだろ? と。
ぼくや奥さんが「ニューヨークの夢」を耳にするたびに二人を思い出すこととなる、そんな始まりが訪れたのだ。
ぼくたちのバンドも結局は解散した。小学校からの同級生で、高校に入ってからバンドを組み、ぼくはテナーサックスを吹いていた。
解散してからも数年は音楽を続けたけれど、限界を悟るのは初めから時間の問題だった。絶望的なくらい音感がなくたってバンドをやっていたらそのうち何者かになれるかもしれない、という、明らかに無謀で能天気なまま「最も違う場所」を必死に何周もしていたに過ぎなかったのだろう・・・・・・無駄なようでも、無駄じゃなかったと思い込むことでしか救われない、そんな日々を完全に終えると、これまでよりもずっとロックが好きになり、あなたや世界中の多くの人たちと同じように、自分にも音楽の必要性を感じた。それは本当に意外な心の発見だった。
百均から出ると「シェインが死んじゃったね。あの曲を聞くといつもKとYちゃんを思い出すよ」奥さんが言った。ぼくはそのときに、シェインが先月に死んでいたことを知ったのだった。
再び二人でブラブラしながら、ふと思った・・・・・・これまで小説の中にKをモデルにした人物を書いたことはないな・・・・・・彼との出会いは、実はそれほど心に刺さってはいなかったのだろうか? でもそういう人ってKに限らず他にもいそうだ。たぶん彼らにとってのぼくがそうであるように。
KもYも、Yの旦那と息子も、今どこで何をしているのかぼくは知らない。
来月も25日に、違うエッセイを予定しています。