紫色 2
次の日は三軒茶屋で車内が空き、昨日と同じ所に同じコートを着ている姿を見つけるまですっかり忘れていた。おそらくこの24時間のかなり早いタイミングで忘れていたと思う。
ぼくは再びチラ見を繰り返し、今日は妄想ではなく推察した・・・・・・彼女はおそらく今週から用賀に転職したか転勤してきた。昨日も今日も、渋谷のホームでは見なかったはずだから、半蔵門線のどこかの駅でこの直通に乗っているか、渋谷以降に乗るのだろう。明日その辺を確かめよう、と思った・・・・・・ストーカーの自覚はなかったけれど、初めは誰もがそうなのかもしれない、とも思ってはいなかった。
次の日の水曜日は、とにかく総武線に間に合えば渋谷の電車にも間に合う。でも念のために総武線は普段よりも一本早い電車に乗った・・・・・・普段より余裕を持って乗り換える渋谷のホームに彼女の姿はなかった。
昨日と同じ時間の車内で可能な限り見回してみたが、発見できなかったので次の池尻大橋に期待した。でも彼女は現れなかった。たぶん次の三軒茶屋で、多くの女子中高たちと入れ替わりで乗って来るんだな、と思いながら、しかし今日は現れないような気もしていて、結局は現れなかった。今日は乗る電車が一本ズレたのかもしれない。
次の日の木曜日は、昨日と同じことをするために、今朝も10分ほど早く家を出た・・・・・・結論を言うと彼女は渋谷までのどこかで乗っているようだった。背中を向けてつり革を掴んでいたのだ。それにしても彼女の正面に座っている人も左右に立っている人も、密かに落ち着かなかっただろう、と思う。男でも女でも彼女の美しさに目がいかないわけがない。傍にいる者はなおさらに頭の中の妄想や想像に抗えなくなっていて、関心のなさを装う寡黙な態度を反って大袈裟に強調している・・・・・・ぼくにはそのように映った。三軒茶屋で車内が空くと彼女はいつもの位置に移動して用賀で降りた。
そして金曜日が来た。総武線は大込みで遅延していた。中央線が止まっていたのだ。山手線も影響を受けてすごいことになっていると思いきや、中央線の「止まり具合」だったのかもしれないけれど、普段よりも空いていて、でももちろん渋谷に着いたのはかなり遅い。
ハチ公口を出てから勤め先へ「30分は遅れそうだ」と連絡を入れた・・・・・・目を疑ったが今朝は田園都市線も、地上とは別の理由で混乱していて、ホームへ降りる階段には横四列の長い列が出来ていた。それは「上り」方面に乗る人たちだった。
普段は右の階段を下りるのだが、こちらは「上り」「下り」とも、なんとなくの列が出来はじめていたので、左階段の「四列」の脇を通り、いつもより二両ほど後方に出来ているホーム上の列に並んだ。この辺りで電車を待つのは初めてだった。
えっ!? と思った。奴隷列車を待つ列の右斜め前に彼女がいたのだ。三人ほど向こうだった。おそらく渋谷で降りる人波に押し出されてしまい、戻れなくなったまま、その電車に乗れなかった人たちの列の後ろへ並び直したのだと思う。
色々なイレギュラーにより斜め前にいる、すぐそこの彼女は黒いコートではなく今朝は茶色いレザージャケットを着ていた。襟元からは灰色のニットのタートルセーターが見える。
思いもしていなかった「場所」と「時間」で彼女を見つけたぼくがそれなりの偶然に驚いていると、彼女は左肩に下げた黒い革鞄の中に右手を突っ込み、1秒か2秒ほど単行本を取り出してから直ぐにしまった。鞄の中に何かを探し、それがあったことを確かめたか、やはり持って来ていないのを確かめたのだろう・・・・・・後にこの出来事を人に尋ねてみた。つまり月曜日に初めて彼女を見てから、あの奴隷列車を待つような混乱したホームで、ほんの一瞬だったけれど、いやむしろ一瞬だったからなおさらだった気がするんだよね、と。
彼女が取り出した単行本は「国境の南 太陽の西」だったのだ。そしてぼくはちょうど今朝から「翻訳夜話―柴田元幸と村上春樹の対談本―」を持ち歩いていたのだ。
「・・・・・・ねっ、完全にシンクロニシティだと思わない?」ぼくは知人に言った。
「う~ん。どうかな? 私的には完全ではないと思うかな」
知人のジャッジは厳しかった・・・・・・でもだからと言って、へそを曲げ「まるでアイデア」のようだった着地点を口にしなかったわけではない。でも知人は「ふ~ん。そうなんだ」と言っただけだった・・・・・・。




