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河童 1

 愛媛の片田舎で生まれ育った母は河童の目撃者だった。しかも雨上がりに掛かる虹を見上げるより遥かに日常的であったらしい・・・・・・。

 水田の広がる村の外れには大中小三つの池があり、大きいものから「北池」「中池」「小池」と呼ばれ、唯一中島のある「中池」につがいで生息していたという。

 「そこが夫婦のねぐらだったんだよ」


 身体の大きさは1メートル弱で色は茶色。頭の上には楕円形の皿(お皿状のモノか、実は禿げていただけかもしれない)があり、痩せた背中に甲羅はなかった。小さな顔には小さな三角形の嘴があった。

 夕陽に照る水面から顔を出すと忙しなく辺りをキョロキョロし、チッチッチッチッ、と鳴く・・・・・・子供だったぼくに「中池」の河童の話しをする母は、基本的に高校の帰りに寄り道するときのものだった。


 学校では話せないことを友達に聞いてもらったり、友達にも家族にも相談できない悩みや秘密の俯瞰を試みる必要があったとき、母は「中池」へ寄り道した。水際のそこら辺に尻を着いて座り、ときには誘った友達を驚かせ、あるいは見慣れた景色の中から、ことによっては何日もかけて解決の糸口を見つけた。

 女子高生だった母にとって「中池」は特別な場所ではなかったらしいが、大人になってみると自分で思っていた以上に貴重な時間を過ごしたような気がする場所になっていた。

 朝とは違う色で空が燃える、そんな景色の中にいる透明な自分と対峙しているとき、はっ、と気が付けば河童が水面から顔を出し、チッチッチッチッ、と鳴いた。中島にはもう一匹(一人だろうか?)いてこちらを見ている。河童を見つけると必ず石を投げつけたと言った。

 「チッチッチッチッ、って言って潜るんだよ。で、また違う場所から顔出して鳴くんだ」顔の前で手の指を絞って尖らせた嘴を作り、チッチッチッチッ、と言いながら顔を左右にキョロキョロしてぼくを笑わせた。

 「でも、本気で狙ったわけじゃないんでしょ?」幼かったぼくは自分の母親が、どんな悪さもしていない生き物に向かって石を投げつける、という行為に戸惑った。

 「本気で狙ったって俊敏だから当たらないし、中島には届かない。だから当てたことは一度も無いよ」

 「なんで石なんか投げたの?」

 「たぶんお母さんがそういう時期だったからじゃないかな? それに楽しかったし」母は言った。ぼくには「そういう時期」という「時期」がどんなものなのか全く想像できなかった。どんな時期だろうと、生きているものに石なんか絶対に投げつけたくない、とそのとき思ったのだったが、以前に兄貴から教えられた通り空気銃で近所の野良猫を撃ったことがあり、刃向えない弱者を理不尽に攻撃する興奮を思い出したので、母にも自分にも何も言えなくなってしまった。


 一度親戚が集まる席で「中池」の河童を尋ねたことがある。集まりには誰がいて誰がいなかったので、おそらく母の一番上のお兄さんの法事だったと思う。

 母は男男女女の四人兄弟(彼らの両親も子供たちを頼り上京したままこちらで生涯を閉じた)で一番下だった。二番目のお兄さん家族は欠席していたので(その時はすでに二番目のお兄さんも亡くなっていたのかもしれない)ぼくが聞いたのは母の姉だ。叔母さんは一笑に伏し、他の大人たちが失笑した。子供たちも笑った。子供たちとは言え一番年下のぼくが高校を卒業していたので、年齢的にはみんな大人だ。ぼくの兄貴はいなかった。

 「あんた何言ってんの、中池にいたじゃない?」母は姉に言った。

 「そんな池はあったけど、河童なんて私は知らんよ」姉は呆れた。

 「でもいたんでしょ?」ぼくは母に言った。信じていたのだ。

 「ねぇ、君。後で私が河童について教えてあげるよ」自信たっぷり言ったのはこれまで一度も顔を見たことのない知らないおじさんだ。彼は「叔父さん」の親友か何かで、ぼくらとは血縁関係になく、愛媛の片田舎で生まれ育ったわけでもない。そしてまた彼はどこかの大学の元教授だった。

 見知らぬ元教授が、後で時間を割いて個人的に、一般的には知られていない説や習性、もしかしたら本当に実在した確たる証拠などを学術的な面から語ってくれる、と思い喜んだのもつかの間「後で」は「秒」でしかなく、あらためて継がれたコップのビールを一飲みした程度の「後」につらつら語り出したのだ。勝ち誇った半笑いで。

 「河童というのは日本の昔話に出てくる妖怪の一種で、現実にいた生物ではないんだよ。昔の誰かが想像力で生み出したきゅうり大好きキャラクターなのです。はい」云々・・・・・・。

 「なっ、大学の教授さんが言ってるんだ。お前もお母さんの話を真に受けていたら、世間様に笑われるぞ」叔母さんはぼくを見て笑ったが、妹を煽ったのだ。

 このおやじ、俺を何だと思ってるんだ? とぼくは思った。高校卒らしいが、この年でまだ河童の存在を信じているということは、見た目では判別のつかない知恵遅れなのだろう、と思ったのかもしれない。

 ぼくは目の奥で笑い、鼻でも笑ってやった。母はぼくよりも我慢している風だった。もちろん姉に対して。四つ違いの二人の顔はそっくりでも、子供のころから反りは合わなかったようだ。

 もちろん場は白けた。引いたとも言えるだろう。元教授がぼくをあからさまに見下した、河童の説明の内容にも要因がなくはないはずだが、まだ社会の何を知っているでもない若者が、社会的地位を持った年配者へ放った攻撃的な目と鼻の笑い方が、あからさまに非礼だったからだろう、というくらいの自覚はあった。

 その後、どのような感じでお開きになったのかは全く覚えていないのだが、ぼくは「中池」の河童をもっと強く信じるようになった。いずれにしろ母がそんなことでぼくに嘘をついているとはどうしても思えなかったからだ。




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