チョコレートケーキ
引退して、毎日を何気なく過ごしていた。
妻は去年の夏から体調が悪くなり、私たち夫婦は離れて生きることになった。
街へ出ると、若者たちが洒落た袋を持って歩いている。駅の改札は、薔薇やらハート型の風船で飾られて少し恥じらって見える。
「こちら、人気のチョコレートになります!
いかがですか?」
急に売り子に呼ばれ、私は少し狼狽えた。
そしてつい「いえ、結構」と断った。
突然呼ばれて驚いたからだけではない。
老年の自分が、若い娘に混じって小洒落たチョコレートを買うのが小恥ずかしかったのだ。
妻からバレンタインの贈り物をもらったのは
いつだったか。
癌で倒れるまで、妻は毎年、手作りのチョコレートケーキを作ってくれた。若いときは2人でペロリと平らげた。今の歳になると、ケーキも小さくなって、2日に分けて食べた。
私は、浮かれた商店街を通り過ぎ、スーパーに寄って家路についた。
次の土曜日、私は妻に会いに行った。
「あら、来てくれたのね」
妻は前よりも少し痩せて、気のせいか白い髪も少し少なくなっていた。
私は少し微笑んで、妻の傍に座り、小さな包み紙を出した。
「あら、何かしら」
「今日はバレンタインだそうだ。だから…」
妻は紙を広げて、ブラウニーを少しかじった。
「美味しいわ…」
彼女は美しい笑みを浮かべて、伴侶が作った
少し不格好な愛を、その唇で包み込んだ。
桜が目覚め始めた時、まだ少し肌寒い公園を
寄り添って歩く老夫婦の姿があった。
婦人に差していた暗い影は、温かな春の日差しに消えていた。