それにつけても妻はいつからあんな女になったのだろう
「はい、あんた。私が今話していたことを、言ってみやあ」
「え?」
「信じれん。また人の話を全然聞いとらん。いつものように意識を宇宙に飛ばしとる。あらら、今日はどちらまで? 火星近辺までご旅行ですか?」
室内の天井に細い糸で吊るされた樹脂製の黒い魚のインテリアが、エアコンの気流で音もなく泳いでいる。脱衣場の洗濯機が、作業終了音と安全ロック解除音を立て続けに鳴らしている。幾何学的なポップアートが、さも何かを仄めかすように壁にしがみ付いている。
妻と結婚をして、十年目の冬。猛烈な寒波が、日本列島を襲っていた。僕は、休日の昼下がりに、マイホームのリビングで、床暖房のついたフローリングに寝そべり、新聞を読んでいる。日曜版の特集、『深海魚の不思議』と題された一面に、チョウチンアンコウの生態が詳細に記されている。
「僕に話しかけとったの? ごめんね、全然気が付かんかったわ。とても興味深い記事だもんで、つい新聞に夢中になってまったでかん」
「まったくあんたって人は、呑気に新聞なんか読んでいる場合じゃないわよ」
頭上で仁王立ちをしている妻が、読んでいた新聞を素足で踏みつける。
「痛ててて」
新聞を持つ右手の人差し指と中指が、妻の足に、ぐりぐりと踏みつけられて抜けない。妻の足はホタルイカのように白く、血管が青く透けている。足の小指の爪は米粒のように小さい。
「では、あらためてお尋ねします。ねえ、あんた、今日はベランダを高圧洗浄機で掃除する約束ではなかったかしら?」
つむじの辺りに、熱い視線を感じる。
「あちゃちゃちゃちゃ。うっかり忘れとった。いや~、すまない。面目ない。て言うか、実は、ちょうど今からやろうと思っとったんだわ。それにしたって、何だい、この仕打ちは。解説をしよう。君は今、僕の人差し指と中指を、情け容赦なく踏んでいます。無慈悲にグニっています。ちょ、ちょ、マジで痛いってば」
「うっかり忘れとった? 今からやろうと思っとった? そんなセリフ、先週も先々週も聞いたわ。でも、結局やらんかったでしょう? あんた、本当にそれでいいの? 本気でいいと思っとるの? いつも適当な返事ばかりして、少しは悪いと思わんの?」
「いい? 悪い? あのね、君ね、物事を善し悪しだけで判断してはいかんよ。物事には、善悪判断という行動原理と同じく、損得勘定という行動原理もあるでよ」
「ふん、また屁理屈かね」
「例えば『道端で女性が暴漢に絡まれている』という場面に遭遇したとする。ある人は、弱き者を救い悪は成敗する、という善悪の行動原理に則り、身の危険を顧みず仲裁に入るだろう。またある人は、厄介な事件に関わって怪我でもしたら大損だ、という損得の行動原理に則り、見て見ぬふりをするだろう。この場合、世間的には、善悪判断の行動が美談とされ、損得勘定の行動は、汚い、とまでは言わずとも、まあ、美しからず、という印象を与えるよね?
でも、僕が常々危惧しとるのは、正義の名の下であれば悪はフルボッコにして構わん、という善悪判断の人が共通して持つ狂気にも似た感情だ。言いたくにゃあけど、君って、往々にしてそういう所があるよね」
「うっさい」
「自分は絶対に正しいという揺ぎ無き理念に基づく者同士が争いをはじめると、その争いは必ず残酷を極め必ず長期化する。歴史的に見ても宗教戦争や思想戦争は総じて惨い、そして終わりが無い。なんでか分かるか? たまには自分を疑ってみるという、至極単純なことをせんからだわ。言いたくにゃあけど、君って、そのたぐいの最たる者だよね」
「黙っとけ」
「僕は、物事は善悪で判断することが素晴らしいという、世間の盲目的な同調圧力には屈したくない。物事は、目先の損得に惑わされてはならないように、同じく、目先の善悪に惑わされてもならんと信じとる。本来、善、悪、損、得は、平等な横並びの選択肢であるべきだ」
「あの~、ごめんあそばせ。いったいぜんたいさっきから何をおっしゃっとるのか、私にはさっぱり理解できませ~ん」
そう言って、妻は、新聞の上から、足で僕の指を、さらにぐりぐり。
「だったらハッキリ言ったるがや! こんな寒い日に水仕事なんかして何の得があるのっちゅ~話だ! 要するにあれだ、やりたくねえって言っとるんだ僕は! 分かったか、この性格クソワル女!」
な~んて心の叫びが、喉までせり上がり、まあ、吐き散らせるはずもなく、もごもごと口ごもって。
「あんたの能書きは聞き飽きた。とにかく、大至急ベランダを洗え。はい、よ~いドン!」
ドン! のところで強く両手を打ち鳴らし、そう吐き捨てると、妻は自室に戻って行った。あ~、痛かった。僕は、挟まれていた指を曲げたり伸ばしたり、グニグニと動かす。ほっ。なにはともあれ、嵐は通り過ぎた。
――と思ったら、急に戻って来た。
「ずっと以前から、約束しとったでね! 今週寒波が来ることも、忠告済みだったでね! 言い逃れはできんよ! まったく、あんたという人は、なんでもかんでも後回しにして! 今日という今日は、絶対に許さんでね!」
そうお吐き捨てになると、今度こそ、お妻様は自室にお戻りになられた。ひゃあ~、びっくりしたなあもう。
それにつけても妻はいつからあんな女になったのだろう。結婚当初は、気立てがよくて優しくて……。ああ、あの頃の妻が、歯噛みするほど懐かしい。帰ってこおおおい、あの頃の妻ああああ。なんだかなあ。結婚って想像をしていたのと随分と違うなあ。こんなはずじゃなかったのだけどなあ。
歯を食いしばり、同時に、深い溜息をついたら、「ひゅ~」微かに歯笛が鳴った。先ほどまで妻の小指の爪に引っ掛かっていた綿埃が、僕の溜息で、フローリングをふわりと舞う。
しぶしぶ立ち上がり、僕は庭の物置から、家庭用の高圧洗浄機を引きずり出す。それからベランダに本体を設置し、流入側のホースを二階から庭の散水栓へ向けて垂らす。続けて一階に戻り散水栓とホースを繋ぎ水を張る。
おやおや? 蛇口の上部から、漏水をしているじゃないの。速やかに駐車場の量水器ボックスを開け、水道メーターの一次側のバルブを閉める。それから、蛇口のスピンドル部を緩め、三角パッキンを取り替える。僕は、水道設備会社に勤めている。したがって、これぐらいの修理は、目をつぶってでも出来る。
取り替えたゴムパッキンを手の平に乗せ、じっと見詰める。つくづく、自分という存在は、この痩せたゴムパッキンのようなものだと思う。会社や家庭で、日々、このゴムパッキンのような扱いを受けている。僕は、安価で、簡易に取替可能で、擦り切れるほど酷使された挙句、機能を果たさなくなったら、ポイと捨てられる部品。無益な存在だ。無価値な個体だ。
まあまあ、自分よ、そう消極的になるな。お前に限ったことではない。生き物のオスとは、総じて使い捨ての部品だ。それが、我々オスの宿命なのだ。みんな一緒さ。なんの救いにもならない言葉で、自分を慰める。感情が淀む。喜怒哀楽、どの方向へも流れない。
そんな虚しさにさいなまれた時、昔から僕は、鮭のオスを思うようにしている。鮭のオスと自分を比べることで、かろうじて自己肯定感を保つのだ。
鮭たちは、産卵期になると、それまで生息していた海から、外敵の少ない、かつて自分が生まれた川へと戻る。旅の途中、人や、熊、人工建造物などの危険を掻いくぐり、岩や流木に傷つき、ボロボロになりながら、決死の覚悟で故郷に辿り着く。
そして、命懸けで生まれ故郷に辿り着いた鮭たちは、そこで放精放卵をする。オスがすることといえば、川底に産み付けられた、どのメスのものとも分らぬ卵に、ただ精子をかけるだけ。信じれん。本番なし。ぶっかけるのみ。その挙句、射精後は、川底に横たわり、やがて死ぬ。
ああ、鮭のオスよりはましだ。僕の虚しさなんて、鮭のオスに比べれば、屁みたいなものだ。
気持ちを奮起させ、僕は、高圧洗浄機のスイッチを、オンにする。
鮭のオスに比べれば……。鮭のオスに比べれば……。そう繰り返し自分に言い聞かせながら、ベランダの洗浄を終える。
自室に籠り、ノートパソコンで何やら調べている妻に、任務完了の報告をする。
「あらそう。意外に早く終わったね。そしたら、ついでに庭のコンクリートブロックを高圧洗浄よろしく。うっすら苔が生えとって、前々から気になっとったんだわ」
大量の水しぶきを浴び、寒さにブルブル震える僕に、妻が、次の任務を命ずる。ななな、何て女だ。どどど、どこの女だ。この女は、僕のことを、何だと思っとるのだ。
そんな、鮭のオス程度では到底埋め合わせ出来ない虚しさにさいなまれた時、昔から僕は、カマキリのオスを思うようにしている。
カマキリのオスは、交尾の直後、その身に新しい命を宿したメスの産卵のための栄養源として、なんと、その場でメスに喰われる。まったく小腹を空かすに事欠いて、伴侶を軽めのスナック感覚扱いするとは何事だ。
ああ、カマキリのオスよりはましだ。僕の虚しさなんて、カマキリのオスに比べれば、糞みたいなものだ。
気持ちを奮起させ、僕は、高圧洗浄機のスイッチを、再度オンにする。
カマキリのオスに比べれば……。カマキリのオスに比べれば……。そう繰り返し自分に言い聞かせながら、コンクリートブロックの洗浄を終える。
自室に籠り、二本のポッキーを同時に食べながら、引き続きパソコンで何やら調べている妻に、任務終了の報告をする。
「なにをチンタラしとるの。この流れでサンルームも洗うに決まっとるがね」
更なる激務が、当たり前のように発令される。ななな、何て女だ。どどど、どこの女だ。おおお、お前誰だよ。おおお、お前なんて知らないよ。
そんな、カマキリのオス程度では到底埋め合わせ出来ない虚しさにさいなまれた時、僕は、今後、先ほどの新聞に載っていた、チョウチンアンコウのオスを思うことにする。
チョウチンアンコウのオスは、巨体のメスの十分の一以下という極めて小さな体で、漆黒の広大な深海を、いつ出逢えるとも分からぬメスを求めて、孤独な旅を続ける。
そして、運良くメスに巡り合えたオスは、念願の愛の営みへとメスを誘うかと思いきや、あろうことか、いきなりメスに噛みつき、あとは、ただゆっくりとメスの体に吸収されて行く。
その後は、体も、脳も、心も、じわじわとメスに同化して、やがては、自我をも失う。
ああ、チョウチンアンコウのオスよりましだ。そうさ、僕の虚しさなんて、チョウチンアンコウのオスに比べれば……。チョウチンアンコウのオスに比べれば……。チョウチンアンコウのオスに比べれば……。うおおおおお、人間万歳!
やけくそになって、サンルームのアルミサッシへ向け、洗浄ガンを乱射する。
それにつけても妻はいつからあんな女になったのだろう。結婚当初は、気立てがよくて優しくて……。ああ、あの頃の妻が、歯噛みするほど懐かしい。
その時だった。
「ちょお、あんた! 取れた! やっと取れたよ! 二月のはじめ!」
おや、何だろう? 水圧で銃口が踊る高圧洗浄ガンを抱きかかえ、盛んに水しぶきを浴びてサンルームを洗浄していると、妻が自室から笑顔で飛び出して来た。
「ずっとあんたと行きたいと思っとった温泉! いつも予約でいっぱいの石川県の旅館! 空き部屋が出るのを毎日パソコンでチェックしとったら、今さっきキャンセルが出て二月のはじめに予約出来た! 結婚十年目のお祝い! 夫婦水入らずで温泉旅行!」
「はあ? 旅行って、そんなお金がどこに……」
「実は、あんたを驚かせようと思ってお小遣いを内緒でこつこつ貯めとったの。あんた、この十年、働き詰めだったでしょう? 名湯で日頃の疲れを洗い流してね。ああ、今から楽しみだなあ、綺麗な雪景色のなかで、あんたと温泉に入って、美味しい料理をたくさん食べて――」
それにつけても妻は気立てがよくて優しくて……昔も今も。