地学部合宿会 34
「やったね。僕石川が描く、野鳥好きなんだよな」
僕に渡されたはずのスケッチブックを、楠木先輩が隣から手を出して、僕の手元から奪っていった。
慣れた手つきで、ペラペラと捲って、後ろの方にあるページで手を止めた。
「見てよ中田君。これ!」
少し興奮した様子の楠木先輩が僕に見せていたのは、繊細に描かれた鳥の鉛筆画だった。
初めてそれを見た僕は、その美しさに瞬きを忘れるくらい、見惚れていた。
「すごく綺麗です……」
いつまでも見ていたい。そんな感情に駆られていたが、半強制的にスケッチブックを石川先輩に取られてしまった。
「はい、そこまで。まだ使っているんだから、その辺にしてよね」
そうだ。石川先輩はまだ描いている途中なのだ。また描き上がってから、出来たものを見せてもらおう。邪魔しないように、僕と楠木先輩は、どこかへ行こう。
そう思っていたが、楠木先輩は、この場を断じて離れまいと、言いたげに石川先輩の背後に立っていた。
「楠木。そんな所にいられちゃあ、集中して絵を描けないんだが?」
「僕のことは気にしなくていいよ。こっそり覗いているから」
「それが邪魔だって言っているんだよ」
「そうか、じゃあ、僕も描こうかな。どうせすることもないし、暇だからね。中田君はどうする?」
そう言いながら、楠木先輩は僕の元にやって来て、耳元で「山河内さんのところに行ってもいいんだよ」とだけ囁いて、石川先輩の隣に座って、鉛筆とスケッチブックをちぎった紙を受け取り、無言で絵を描き始めた。
楠木先輩にああ言われたが、山河内さんの隣には堺さんがいるから、あの二人を邪魔はできないし、今会いに行っても話すことなんて何もないから、ここで絵を描くのがちょうどいい時間潰しになりそうだ。
「石川先輩。僕にも紙と鉛筆をください」
「お、おお。なんだ、中田も描きたくなったのか?」
「まあ、そんなところです」
先輩に向かってやることがないとは言えない。今は話せる友人もいないし、日陰でいられるなら、なんだっていい。とも言えない。曖昧な答えだけど、深く追求されることのない、見事な回答だ。
「何かうまく描くこつとかありますか?」
「うーんと、そうだな……描くものをよく見て、バランスを考えながら、描くことかな。初めは簡単でいいから、どこに何を描くか、決めてから描けば、バラスが整いやすいから、まずは、それぞれの位置から描いてみるといいよ」
「わかりました」
「わかりました」と言ったものの、どうしていいのやら、さっぱりだ。今現在、僕の目の前にいる鳥の数は五匹だ。そのうち、食事をしているのか、嘴を何度も何度も池につけている鳥は、二匹。池を泳いでいるのか、流されているだけなのか、ゆっくりと動いている鳥が、三匹。何もせずにぼーっと突っ立っている鳥が一匹。僕が描くには、この何もしていない鳥しかない。動いているものを、止まっているふうに描く技術は、僕にはない。あとは、あの鳥が飛び立たないことを願うしかない。
石川先輩に言われた通り、適当に真ん中辺りに描くことを決めて、描いてはみたが、僕はこんなに絵が下手だったけ。と言いたくなるくらい、変な絵を描いてしまった。これは何か、新しい怪獣でも作り上げてしまったような、ある意味傑作だ。これを先輩たちに見せるのは恥ずかしいな。どうにか隠したいが、石川先輩から貰った紙を捨てるわけにはいかないし、裏に新しいのを描いたとしても見られそうだ。真っ黒に塗りつぶすのもいいけど、鉛筆を酷く消耗してしまうから、気が引ける。もう、この絵を見せるしかないのか。いや、この二人だけで留まってくれれば、そっちの方がいいかもしれない。
「中田君できたの?」
「はい、下手くそですが……」
楠木先輩も下手な絵を描いてくれていれば、僕としては助かるのだが……なんて絵だ! 下手すれば、石川先輩よりも繊細で、整った絵だ。僕の絵は見せられるものじゃないな。丸めて、ゴミ箱があれば、 捨てたい。
「うん。いいじゃんか」
「俺も見ていいか?」
僕の絵をまじまじと見ている楠木先輩を見て、石川先輩が、僕らの方へ体を向けた。紙と鉛筆をもっらた以上、見せないわけにはいかない。
「はい、どうぞ……」
もういっそのこと殺してくれ。こんな恥を晒すくらいなら死んだ方がマシだ。
「いい感じに描けているな。まるでクリムトの風景がみたいだ」
誰だろうか。初めて聞く名前だ。
「ああ、確かに。大々的に書かれているけど、実は繊細で、丁寧な色使いとかそうだね」
なんで楠木先輩はクリムトとか言う人の名前を知っているんだ。僕だけ仲間はずれじゃないか。
それよりも、こんな下手な絵に、ここまで気を遣わせて、褒め言葉を言われるのは逆に心が痛い。
「そんな、僕なんかの絵より、楠木先輩の方が凄いじゃないですか」
僕がそう言ったことで、石川先輩は初めて楠木先輩の絵を見た。途端に、大声で叫んだ。
「何でそんなに上手いんだ!」
「いやー、去年石川が、必死に描いていたのを見ていたから、僕もやってみようと思って、一年間頑張ってみたんだ」




