4♣大公の求愛〈上〉
クラウディオがエルヴィーノに雇われ始めて数日が過ぎた。
最初はクラウディオの女顔を甘く見て突っかかってくる者もいたが、からかわれたら叩きのめしてやった。相手は、体格も年齢も下のクラウディオに負けたということを吹聴できず、大人しく引き下がるだけだった。
しかし、クラウディオはそんなことを根には持たない。次の日に会えば笑いかけた。
「なあ、あんた、そういえば名前を聞いてなかったな。まあ、終わったことはもういいだろう? 今は同じ主の下で働く者同士なんだから、いがみ合うのはやめような」
ポン、と肩を叩くと、それだけで相手はクラウディオを敵視することはなくなる。
何年も前から国元でクラウディオは、こっそりと屋敷を抜け出してジェレミアたちと下町まで遊びに行っていた。だから、ある程度は喧嘩慣れもしているし、荒っぽい男たちと腹を割って話すこともできる。何事も経験だと思って出かけていたが、実際に役に立っていた。
もともと、社交術には長けていた。妹のヴェルディアナは内気でいつもクラウディオの後ろに隠れたがったのだが。
ふとした拍子に、水鏡に映る自分の顔を見て、ギュッと胸が絞めつけられる。この感覚にはきっと、慣れる日は来ないだろう。
心が半分欠けてしまったのだから、仕方がない。
「ジェレミア! どこにいる?」
井戸水を汲んでいたクラウディオは、その呼び声にハッと我に返った。
「ここにおります、エルヴィーノ様!」
何を置いても主が優先だ。クラウディオは汲みかけの水を放って声がした方へと駆け寄った。
すると、庭を歩き回っていたエルヴィーノがパッと顔を輝かせた。
「おお、ここにいたか」
「はい、何かご用でしょうか?」
「姿が見えなかったので呼んでみたのだ」
「左様でございますか……」
ハハハ、とエルヴィーノは快活に笑っている。
ここへ来て一番意外だったのは、この大公の人となりだろうか。
若くして国を治めているのだから、もちろん無能ではない。優秀な人だ。
矜持も高く持ち合わせてはいるのだが、性質は至って大らかで、細かいことを気にしない。
だから、余所者で素性の知れないクラウディオのことも詮索しなかった。むしろ妙に気に入られてしまって、何かと呼びつけられる。
「よしよし、そこに座ろう」
「はい……」
エルヴィーノは急に庭先の草の上に座った。クラウディオも座らざるを得ない。
通りかかる使用人たちもそんな光景を特に気にするでもなかった。
青い目をキラキラと輝かせ、エルヴィーノはクラウディオに問いかける。
「ジェレミア、お前はどんな女が好みなのだ?」
いきなりな話である。しかし、クラウディオは普通に答えた。
「淑やかな方がいいですね。護り甲斐のある女がいいです」
「そうかそうか」
クラウディオに女を宛がってくれるつもりだろうかと首をかしげたが、そういうことではなかった。
要するに、エルヴィーノは自分の話をしたかっただけである。
「私には愛しい女がいてな」
「はぁ」
「ずっと求愛を続けているのだが、ちっとも色よい返事をくれない」
それは嫌がられているということではないのか。
しかし、エルヴィーノは大公。無理強いが許される立場にある。それをしないのは、やはり本気だからだろうか。
自分を好いてほしいから、相手が振り向いてくれるまで待とうという。そうしたところも意外だった。
「時が来れば彼女も私を受け入れるはずだが、今はまだその気になれないらしい」
他に好きな男がいるのかもしれない。
クラウディオはそう思ったが、それをはっきりと言うのは気の毒な気がした。
「それならばそのうちによいお返事が頂けるのでしょうね」
「そうなのだが、彼女は兄を亡くしてから塞ぎがちで、館から出てこようともしないのだ。もうそろそろ悲しみから立ち直らねば、泣き暮らしていたのでは干からびてしまう」
――もし、死んだのがクラウディオであったなら、生き延びたヴェルディアナはその女性と同じように泣きながら過ごしたかもしれない。
そうならなくてよかったのだろうか。二人が同時に生きていることこそ最良ではあるのだが。
「顔を合わせてくれれば、エルヴィーノ様ならば、その悲しみを癒して差し上げられるでしょうに」
この男は底抜けに明るいので、泣いている暇がなさそうだ。うるさい、と怒られることはあるかもしれないが。
それでも、エルヴィーノはクラウディオの言葉に気をよくした。
「そうだとも。やはりお前は聡いな。そして、見目もよい。男にしておくのが惜しいくらいだ」
「ありがとうございます」
愛想笑いを張りつけて答えると、エルヴィーノは上機嫌でうなずいた。
「ジェレミア、お前なら彼女――ニコレッタに気の利いたことが言えるだろう。今度の使者にはお前を指名しよう」
「はい?」
「何、最初から一人で行けとは言わない。誰か連れていって構わないから、彼女のもとへ行って、私の心を代弁してきてくれ」
「代弁、ですか……」
嫌な役回りを与えられた。
しかしまあ、返事がもらえなかったら首を刎ねるとか、そういうことではない。ずっと断られ続けているようだから、また駄目でしたというオチも受け入れるだろう。
っていうか、自分で行けばいいのでは? とちょっと思った。
衣食住の世話になっている手前、無下にも断れないので一応訊ねる。
「はい、ではまず、そのニコレッタ様とやらのどこに惹かれなさったのでしょう?」
「うむ。ニコレッタは若く、美しい。そして、伯爵家の血筋だ。私に最も釣り合う」
「…………」
それを正直に言うから怒らせているのではないのか。
事実がそれだとしても、もう少し気を引くために話を盛るべきだろう。
「最初にお会いした日のことを教えてください」
「最初……は、彼女が子供の頃だったので、あまり印象に残っていない。私に幼児趣味はないのだ」
クラウディオはグッと堪えて続けた。
「ちなみに、どうしてそこまでニコレッタ様にこだわられるのでしょう? 若くて美しくて身分のある令嬢ならたくさんおられることでしょう」
「その中で一番美しいと思えたからだな」
エルヴィーノはクラウディオの問いかけに、不思議そうに返すばかりだ。どうしてそんなことを訊ねるのだと。
もし、エルヴィーノの想い人がヴェルディアナだったとしたら、クラウディオなら絶対にやらない。
悪人ではないが、女心をあまりに解さない。容姿と身分しか見ていないのだから、それで愛を説いたところであしらわれるのは当然だろう。
それでも、エルヴィーノは美男子ではある。身分も高いし嫁げば贅沢もできる。その好条件に引っかかる娘も一定数いるだろうが、ニコレッタはちゃんと自分で判断し、エルヴィーノの求愛には実が伴わないと見抜いたのだ。少なくとも、愚かな娘ではない。
そうだとすると、案外エルヴィーノにはお似合いなのかもしれない。馬鹿なことを言ったら叱り飛ばしてくれるくらいにしっかりした夫人がいた方がエルヴィーノは安泰だ。
少し短絡的なところはあるが、善人ではあるし、クラウディオにとって恩人である。幸せになってくれたら嬉しい。
クラウディオは苦笑した。
「よくわかりました。それではエルヴィーノ様の使者として参りましょう」
そうしたら、エルヴィーノは少年のような目をしてクラウディオを見据えた。
「くれぐれも頼んだぞ!」
どうにも憎めないというか、面白い人だ。
少なくとも、クラウディオの知る貴族の中にはいなかった人種である。