3♡兄と共に生きる〈下〉
――ヴェルディアナには苦手なものがいくつかあった。
非常に偏食で、肉や魚といった生臭いものは苦手である。乳製品ですら臭いが強くなったものは食べられず、新鮮なものに限る。
だから、ニコレッタが同席させてくれた晩餐の席でも非常に食が細かった。
それを皆は悲しみのあまり食事が喉を通らないのだと解釈した。実際、それもあったかもしれないが。
料理人は、この気の毒な客人がもっと食べられるように次こそ腕を振るうと意気込んでいるという。
それにしても、どうすれば兄のように振る舞えるのか。
ヴェルディアナは廊下を歩きながら考えてみた。
クラウディオはなんでもよく食べたし、よく笑ったし、誰とでもすぐに打ち解けて話せた。剣術も強かった。
そうか、とりあえず剣を腰に佩いてみたらもっとそれらしくなれるかもしれない。
それは妙案に思えて、ヴェルディアナはうつむいていた顔を上げた。しかし、この時、そんなヴェルディアナの足元を金色の塊が駆け抜けたのだった。
「きゃあっ!」
おおよそ男性が上げるべきではない悲鳴を上げて尻もちをついたヴェルディアナに驚いたのは、部屋にいたニコレッタだった。慌てて部屋から飛び出してくる。
「どうしたのっ?」
「な、何かがいたんです!」
ヴェルディアナが立ち上がりもしないまま言うと、ニコレッタは部屋の入り口で固まった。
「お、おば、おばけ?」
「違います。目にも留まらない素早い何かでした」
「え? ネズミ?」
「ネ、ネズ、ネズミ……いるんです、か?」
ヴェルディアナは、ネズミが大嫌いである。
嫌いなんてものではない。恐怖さえ感じる。
それというのも、幼少期の経験によるところだ。
ネズミの死骸が枕元に隠してあった。それと知らずに眠ろうとして、鼻先にあったネズミの死骸に気づき、悲鳴を上げて気を失った。
猫が仕留めて隠したのだろうと言われたが、こんなところに隠さなくてもいいものを。
あれ以来、理屈ではなくネズミが怖い。
古い屋敷ならばネズミがいないわけもないのだが、遭遇すると震え上がってしまうのだ。
口に出して苦手と言わずとも、ニコレッタには伝わってしまったらしい。クスクスと笑われた。
「多分、それはネズミを追いかけていたピアかミロね」
「もしかして、猫ですか?」
「ええ。ピアは茶トラ、ミロは黒猫よ」
それなら、多分ピアという猫だったのだろう。猫がいるのならネズミは少なくなるが、また枕元に隠されないかという不安もある。
「……おばけは、兄様のおばけならよいのです。むしろ、おばけになってでも私に会いに来てくれたら嬉しいです」
そうしたら、今度はニコレッタが震え上がった。
「おばけよ? お兄様であっても、おばけなのよ?」
「はい。おばけですけど、兄様ですから」
多分、陽気なおばけだろうから、怖くない。
しかし、ニコレッタは長い髪を振り乱して首を振った。
「む、無理無理無理。そんなこと考えたら、怖くて夜、寝られなくなってしまうわ」
どんなに大好きな兄であっても、おばけは怖いらしい。本気で怯えている姿が可愛らしかった。
ヴェルディアナは館の客室を使わせてもらっているのだが、夜も更けた頃になってメイドのミリアムがヴェルディアナを呼びに来た。
入眠直前で、ベッドの上に横たわっていたヴェルディアナは眠い目を擦りながら起き上がった。
「は、はい」
扉を開けると、ナイトキャップを被りカンテラを手にしたミリアムが立っている。
「お休みのところすみませんが、ニコレッタ様がお呼びでございます。至急おいでください」
「えっ? ……わかりました」
こんな時間になんだろうか。
けれど、ニコレッタが急ぎヴェルディアナを呼んでいるのなら行くしかない。
ヴェルディアナは借りているガウンを羽織り、ミリアムに続いて廊下に出た。ニコレッタの部屋までは近い。
「お嬢様、クラウディオ様をお連れしました」
すると、素早く声が返る。
「ありがとう。クラウディオ、中へ入って。ミリアム、あなたはもう休みなさい」
「はい。ではまた明日。おやすみなさいませ」
ミリアムはヴェルディアナに会釈して去っていった。有能そうな侍女だなと改めて思う。
「失礼します」
断って中に入ると、中は暗かった。ニコレッタはシーツを頭から被っているらしく、白い塊がぼんやりと見える。
「あの、どうかなさいましたか?」
眠れないのかもしれない。だから話し相手を所望したのか。
ニコレッタはシーツの隙間からチラリと顔を覗かせると、言った。
「あなたとおばけの話をしたから眠れなくなってしまったの」
「…………」
そんなに怖い話をしただろうか。
「ニコレッタ様は幽霊が苦手なのですね?」
それを言うと、ニコレッタはヒッと顔を引きつらせた。
「な、なんて、恐ろしい呼び方をするのっ。駄目よ、呪われちゃうわ」
相当怖いらしい。
伯爵家当主なのだから、もっとしっかりしているのかと思えば、まだまだ少女のようだ。
本来であれば兄がいて、ニコレッタは伯爵になどなるはずがなかったのだ。急にそれらしくしろと言われても、できることではないのかもしれない。
ニコレッタが伯爵になりきれていないように、ヴェルディアナも〈クラウディオ〉としては不完全だ。
そんなニコレッタに親愛の情が湧くのも当然のことだった。
「大丈夫ですよ、ニコレッタ様。寝つくまで私がこちらについています」
そう言って、ヴェルディアナはニコレッタの手を握った。そうしたら、ニコレッタはほっとしたように力を抜いたのが伝わった。
「わたくし、おばけが怖いなんて誰にも言えないの。当主として示しがつかないもの。でも、あなたは客人で、わたくしの従者ではないのだから、弱みを見せてもいいかしら」
「ええ。私でお役に立てるのなら幸いです」
その言葉を聞くと、ニコレッタは嬉しそうに微笑んだ。
静かな夜に、ヴェルディアナは郷里の子守唄を口ずさむ。少しでもニコレッタの心が安らぐように。
ニコレッタといると、ヴェルディアナもまた悲しみの沼に囚われずに済むのだった。
それから二日が過ぎたが、ニコレッタはほとんどの晩にヴェルディアナを自室へ呼んだ。
ヴェルディアナが部屋に戻ろうとすると目を覚まし、このベッドで寝ればいいと言って帰してくれない。なんだか妹ができたような心境だった。
嫌ではないが、いつかヴェルディアナが祖国へ帰る時になれば別れは訪れる。お互いに寂しい思いをするなと、今からその別れが切なくなるのだった。
そんな時、ニコレッタの屋敷にこの国の大公が差し向けた使者がやってきた。
用件は――。
「求婚されているのですか?」
ニコレッタは眉根を寄せ、少しも嬉しそうには見えないがうなずいた。
「お会いしたことはあるけれど、ろくに口を利いたこともないわ」
それでもニコレッタは美しいから、向こうが勝手に見初めたのだろう。この嫌がり方からするに、おじさんどころかおじいさんかもしれない。
「何度もお断りしているのに、しつこいの。うんざりよ」
向こうは押せば押すほど情熱的であり、好印象を与えると勘違いしているのかもしれない。当の本人が嫌がっている以上、諦めてほしいところだが。
力になれるのならなりたいが、どうしていいのかわからない。ヴェルディアナは困惑するばかりだった。
その使者は、何の収穫もないまま帰されたのである。