3♡兄と共に生きる〈上〉
ニコレッタの館に迎え入れられたヴェルディアナは、鏡に映る自分をじっと見つめた。
藍色の、男性が着るプールポワン。髪はゆるくひとつに束ねただけ。
こうしていると、本当にクラウディオに生き写しだ。
ヴェルディアナはもうドレスは着ないとニコレッタに告げた。
それは弱い自分との決別のためだ。
エヴァルドに引き合わされた女伯爵ニコレッタは、本当に美しい人だった。
年の頃はヴェルディアナと同じくらいだが、彼女に比べると自分の体は枝木のようだと思えた。蜂蜜色の柔らかな長い髪、灰色の目、白い肌、それは儚げな妖精さながらである。
白いレースを重ねたハイウェストのドレスが豊かな胸を強調していた。女性らしい柔らかな体つきだ。
ただ、惜しむらくは泣き腫らした目をしていて、打ち沈んでいる。この女性が微笑んだら、どんな男性も虜になるだろう。
気だるげにベッドの上で上半身だけを起こしている。
ニコレッタは、耳元で侍女がささやくのを静かに聞いていたかと思うと、ハッと目を見開いた。
「あなた……お兄様を嵐で亡くされたの?」
ヴェルディアナはまだ生々しい心の傷が痛み、涙を一筋零した。
「はい」
その途端、ニコレッタは靴も履かずにベッドから飛び降りた。そして、ヴェルディアナの手を取る。
「それはおつらかったこと。わたくしもお兄様を亡くしてから生きている気がしないの。お兄様がいないこの世界は全部嘘なのではないかしら、わたくしは嘘の世界に迷い込んだのではないかしらと、いつも考えていて――」
ヴェルディアナの手にギュッと力が加わる。小さくて華奢な手だ。
「本当に、この世界が嘘であったらよかったと私も思います。もう一度兄様が私の目の前に現れてくださるのなら、なんだってするのに……」
二人の心はすぐに通い合った。往年の親友のようにして抱き合い、泣いた。
気がつくとエヴァルドはいなくなっていた。
ニコレッタは涙を拭うと、近くで暇そうに控えていた侍女に言った。
「ミリアム、ヴェルディアナのドレスを用意して頂戴。当分ここに滞在してもらうから」
侍女のミリアムは驚いた様子も見せず、淡々とうなずいた。
「畏まりました、お嬢様」
それをヴェルディアナが遮る。
「お気遣いはありがたいのですが、私はもうドレスを着ないと決めたのです」
「それはどういうこと?」
「私は兄として生きようと決意しました。ですから、今後は男装し、〈クラウディオ〉と名乗ります」
ヴェルディアナがクラウディオになれるわけではない。それでも、そうしていないとクラウディオがこの世にいたと証明できないような気分になる。
ただし、今のヴェルディアナではいけない。もっと強くならなくては。
ミリアムは、気は確かかという不躾な目をした。ニコレッタは心配そうに、それでも理解のあるあたたかさを向けてくれた。
「こんなに美しいのに勿体ないけれど、それであなたの心が慰められるのなら好きにするといいわ。……そうね、男装も案外素敵かもしれないし」
「ありがとうございます、伯爵様」
「ニコレッタよ。名前で呼んで頂戴、ヴェル――いいえ、クラウディオ、ね」
「はい」
ヴェルディアナは、兄ならばつらい時でも涙を見せないと、唇を引き結んでうなずいた。
別室にて用意された服は、従者のものだろうか。
ヴェルディアナには丁度いい丈だった。少し幅があるのはベルトで押さえれば見苦しくはない。長い髪も手間取りながらひとつに束ねると、本当に兄と同じだ。
違いがあるとすれば、自信のないこの目だろう。クラウディオの目はもっと生気に満ちていた。
ヴェルディアナは自分の頬をパチパチと叩き、気を引き締め直す。
しばらく鏡とにらめっこしていると、扉が叩かれた。
「着替えは済んだかしら?」
ニコレッタの声だ。ヴェルディアナは答えた。
「はい、終わりました」
鍵はかかっていないので、ニコレッタは自分で開けて入ってきた。
白いドレスの裾を引きずる立ち姿は湖畔の花のようだ。
「あら、凛々しいこと」
本当に驚いたふうに口元に手を当てている。ヴェルディアナは少しだけ笑った。
「兄様に比べると頼りないですけど、こうして鏡を見ていると、兄様がそこにいてくれるようで……」
言いながら、また涙が浮いた。そうしたら、鏡の中の〈クラウディオ〉が涙を流しているように見える。
これではいけないと、手の甲で目を擦った。
すると、隣に立ったニコレッタが柔らかな声で言った。
「わたくしの前でだけは泣いてもいいのよ。わたくしはたくさん泣いて過ごしていたから、今度はあなたの涙を受け止めるわ」
優しい言葉に、かえって涙が止まらない。
弱いヴェルディアナが急にクラウディオのようになれるはずはなかった。
少しずつ近づいていくしかない。
それができなければ、ヴェルディアナの中からクラウディオはいなくなってしまうのだから。