2♣失意から這い上がれ〈下〉
漁師の家に招かれると、まずは湯を使わせてもらう。
しかし、背中の傷がずっと疼いていた。濡れた服を上だけ脱いで背中の傷の具合を確かめると、傷口が腫れていた。
クラウディオは盥に浸かる前にそのまま外へ出た。
「すまないが、傷薬はないか?」
家は狭いので、出て扉を開けるとすぐに客人に出くわした。漁師が家の入り口に立つ客人に事情を話しているところに遭遇したのだ。
客人は、二十二、三歳ほどの男だった。うねった金髪と青い目をしており、顔立ちは精悍だ。
体つきも程よく筋肉がついて弱々しさはない。背も高い。
その男が立派な装いで立っていたのだ。
もしかすると大公の従者だろうか。
男はクラウディオに驚いたような目を向けたが、何度か瞬くと明るく笑った。
「これが漂流者か? 少女かと思うくらい可愛い顔をしているが、男のようだ」
あと五歳若かった頃まではその発言に目くじらを立てていたが、今ではクラウディオも聞き流せるほど大人になった。
「ええ、見た通りですよ」
クラウディオが笑い返すと、男は名乗った。
「私はエルヴィーノ・デル・コルヴォ。イイリア大公だ」
今度はクラウディオの方が目を瞬かせた。
「大公様が直々に来られたのですか?」
「まあ、そういうことだ」
と、エルヴィーノは肩をすくめた。そこでクラウディオは自分も名乗らなくてはと思った。
「僕は〈ジェレミア〉といいます。フララスの商家の者です」
ジェレミアの名を借りることにした。彼なら許してくれるだろう。
ただ、もしエルヴィーノが信ずるに値する人物だと思えたら、その時には本当のことを告げよう。
エルヴィーノは大きくうなずいた。
「ジェレミア、支度が整ったら私を訪ねて館へ来てくれ。詳しい話を聞きたい」
「はい、畏まりました」
今のクラウディオは身ひとつである。剣も金も何も持たない。
つまり、誰かの助けなくして家に帰るどころか生き長らえることすら難しい。
こんなところで死ねない。あの嵐を生き延びたのだから、この先も生きなくてはならない。
それが生き残った者の責務だろう。少なくともクラウディオはそう考える。
自分の服は乾かしている時間がなかったので、湿ったまま持った。
今借りている服は、そのうちに漁師のところへ返しに行くと約束した。
疲れてはいたが、ビネガーソースのかかった白身魚の蒸し焼きとパンを食べさせてもらい、ワインを飲むと幾分回復した。
貧しい暮らしの猟師たちが飲んでいるわりにワインが上等に感じられた。
それだけクラウディオが飢えていたのかもしれない。
クラウディオは漁師の家があった港から丘を眺める。燦々と太陽が照りつける中、潮を含んだ海風が吹き抜けた。
この風が植物を強くするのか、緑の色は濃く、生き生きと茂って見えた。
丘の上に鎮座する砂色の館こそが大公エルヴィーノの住まいだという。
目立つから、迷子にならずに行けるだろうと漁師に言われた。
怪しいところはないと思ってくれたのか、つき合うには手が足りないのか、クラウディオは一人で館へ向かうことになった。
なんとものどかな国だと思う。
クラウディオたちの父ならば、不法侵入者には監視をつけただろう。こんなふうに自由に歩かせたりしない。
この潮風も、何もかもが故郷と違う。クラウディオたちのオルシーニ領は、湖と森に囲まれた静かなところなのだ。
臆病なウサギや鹿が声も立てずに跳ねまわり、シロツメクサやヴィオラの花が絨毯のように生えた森の春を思い出し、こことはあまりにも違うと切なさを覚えた。
クラウディオは、さっき流したはずの汗がまたジワリと浮いてくるのを感じつつ、坂道を上がった。
こうして体を動かしていた方が気が紛れるのも事実だ。
門番はエルヴィーノから話を聞いていたのか、クラウディオが門前に立つと訳知り顔で迎えてくれた。
「おお、お前が流されてきた男か。……男だよな?」
「ええ。ジェレミアと申します。大公様にお取次ぎ願えますか?」
その言葉が終わるか終わらないかというところで、もう一人いた門番がさっさと開門していた。
「話は聞いている。さ、エルヴィーノ様がお待ちだ」
「ありがとうございます」
本当に、もう少し警戒した方がいいのではないかと思うほど警備がゆるい。
大公その人がフラフラ外出するくらいだから、家臣たちがゆるいのも仕方がないのだろうか。それとも、この海と太陽が人の心まで大らかにしてしまうのだろうか。
クラウディオが敷地を歩きながら物珍しげに見回していたせいか、そんなクラウディオをジロジロと見ている視線がいくつかあった。どうやら兵士のようだった。
二十代前半くらいの二人で、一人は上向きの鼻をしており、もう一人は口が大きかった。どちらもクラウディオよりは立派な体格をしている。
「もしかしてお前が漂流者ってやつか?」
口の大きな男が言った。からかっているというよりも興味本位だろう。
「そうだ。大公様にお会いしに来た」
兵士風情にまで畏まる必要はないと思い、下手にはでなかった。まっすぐに男たちを見据えている。
「まだ子供だな。とても兵士に雇ってもらえそうもない」
行く当てがないのなら雇ってやろうと、エルヴィーノはそういうつもりだったのだろうか。この時、クラウディオはそれも面白いかもしれないと思った。
このまま国に帰っても、クラウディオはこれからどう生きていけばいいのかがわからないような心境なのだ。
いつでも護っていたヴェルディアナがいないから。これから何を支えに生きればいいのだろう。
この空虚を埋める何かをここで見つけたかった。
違う自分になって、ヴェルディアナに誇れる兄になりたい。
「……とても兵士にはならない? それは試してみたらわかると思うが」
華奢で女顔のクラウディオが不敵に笑ったから、二人は顔を見合わせた。そして、声を立てて笑う。
「試してみろってよ。気の強いお嬢ちゃんだ」
「今度僕に向けてお嬢ちゃんだなんて呼び方をしたら、その鼻をそぎ落としてやる」
クラウディオの顔に似合わない発言に、二人は驚きつつも興味をそそられたらしい。
「じゃあ、お前が言う通り試してやろう。来いよ」
二人に連れられていった先は、兵士の訓練場のようだった。
太陽の下、簡単な囲いが設けられているところに砂埃が舞っている。
さすがに本物の剣ではいけない。木剣をクラウディオに差し出す。
見物人たちがわらわらと増えてきた。
「俺から相手をしよう」
口の大きな男が言った。クラウディオはうなずく。
「パオロ、負けんなよ~!」
ヤジが飛んだ。この男はパオロというらしい。
しかし、油断していたとしても弱かった。クラウディオは背中の傷が痛むのを僅かに耐えるだけでよかったのだ。
木剣を叩き落とされたパオロは唖然としてた。
次にもう一人の男が出てくる。
「何やってるんだよ。面目丸つぶれじゃないか」
「でも、ベニート、こいつ……」
「いいって。俺がやる」
ベニートもまた、クラウディオからすれば弱かった。こんなのばっかりで大丈夫なのかなとエルヴィーノの心配をしてしまうほどだ。
兵士が客人に負けてしまうという情けない状況なのに、何故だかここの人たちはお祭り騒ぎだった。
「お嬢ちゃん? いや、お兄ちゃん? あんた、強いなぁ!」
「いいぞ~、もっとやれ!」
あはは、と陽気な声が上がる。クラウディオの方が戸惑ったけれど、よく見ると見物人の中にエルヴィーノまでいた。
手を叩いて喜んでいる。
「ジェレミア、お前を客人として迎えようと思っていたのだが、気が変わった。私に仕えないか?」
いきなりすぎることを言われた。
「さっきお会いしたばかりですが?」
「そう。しかし、私が気に入ったのだからいいだろう?」
気に入られたらしい。
クラウディオは少し考えた。
「……僕はいずれ国に帰るかもしれません。だから、ずっとというわけには参りませんが、しばらくなら」
それも面白いかもしれない。
エルヴィーノは輝くような笑顔を浮かべ、うなずいた。
「よしよし、しばらくな。しかし、居心地がよければずっといたくなることだろう。お前が帰りたくないと思うような待遇をしてやるからな」
はぁ、とクラウディオはつぶやいた。
豪気というか無邪気というか、エルヴィーノは陰りというものが見当たらない男だと思った。
こうしてクラウディオはエルヴィーノに従事することとなったのだが――。