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16◇危機

 ニコレッタはベッドに突っ伏して泣いていた。

 クラウディオがエルヴィーノの命令でニコレッタに近づいたなどとは考えたこともなかった。


 同じように兄を亡くした二人だから、互いの気持ちはとても近くにあると信じていた。一緒にいると、兄といた時のような、もしくはそれ以上の安らぎを感じた。

 だというのに、それらがすべて嘘だったとは。


 エルヴィーノもエルヴィーノだ。いくら色よい返事をしないからといって、こんな卑劣な真似をしていいわけがない。

 それでニコレッタの心が動くなどとは見くびられたものだ。

 エルヴィーノの妻になど絶対にならない。それくらいなら死んだ方がマシだ。


 ――クラウディオの前でしか泣かないと言ったけれど、彼女はまやかしだ。

 それなら、誰の前でも泣かない。独りで泣くだけだ。


 干からびるほどに泣いていると、前触れもなく部屋の扉が開いた。

 その不敬にニコレッタは来訪者を睨みつけた。泣き腫らした目をしていては威厳も何もないが。


 部屋に無断で入ってきたのはエヴァルドだった。

 ニヤニヤと、腹が立つような笑みを浮かべている。


 慌ててニコレッタは上体を起こした。エヴァルドが扉の(かんぬき)を下ろしたので、ニコレッタはきょとんと目を瞬く。

 エヴァルドは得意げに両手を広げる。


「そう嘆くことはございません。お嬢様には私がついております」

「……そんなことを言いにわざわざ来たの?」


 今は誰とも会いたくない。何を言われても響かない。

 ただそっとしておいてほしかったのだ。


 こんな冷たいことを言って、エヴァルドはまた怒るかと思った。それでもどうでもいい。

 けれど、エヴァルドはどこか余裕を見せて笑っていた。


「クラウディオでしたら、館から追放しました。もう二度とお嬢様の前に姿を現すことはございません」


 その言葉に、ズキリと心が痛む。


 もう二度と。

 二度とないのか。


 あの優しい微笑みが嘘だったとして、それでも心のどこかではもう一度会いたいと願っている。

 時折見せた力強さ、凛々しさは、いつまでもニコレッタの胸に刻まれているのだ。


 絶句しているニコレッタに、エヴァルドはゆっくりと近づいてきた。それは獲物を捕食する獣のような足取りだった。


「お嬢様、大嫌いな大公とご結婚なさることはございません。あの大公は、それでも誇り高い方ですから、お嬢様が別の相手をお選びになれば、みっともなく追いすがるようなことはなさいませんよ。ここはひとつお嬢様がはっきりと、他に心に決めた相手がいると言いさえすればよいのです」


 それはそうかもしれない。ただ断るばかりだから、エルヴィーノは脈があると思ってしつこかったのだ。

 しかし、エヴァルドが言うような相手が本当にいるわけではない。伯父が連れてくるロマーノなどはもってのほかだ。


 もし、クラウディオがエルヴィーノの使者でなければ、恋人を装ってもらったかもしれない。あんなにも美しくて清々しい人はいないのだから。

 それを考えたら悲しくなった。


「そんなの、無理よ。心に決めた相手なんていないもの」


 やっとの思いでつぶやくと、エヴァルドはニコレッタのベッドに膝を突いた。あまりのことにニコレッタがぎょっとしてもエヴァルドは膝を退けなかった。


「おや、冷たいことを仰いますね。私はずっとお嬢様をお慕いして参りましたのに」

「な、何をっ」


 恐ろしいことを言われた。エヴァルドはニコレッタの伯父に近い年齢なのに。

 愕然としている場合ではなかった。エヴァルドはニコレッタの手首を乱暴につかむ。


「誓いよりも契りが先になってしまいますが、それも私の愛故にとお受け取りください」


 エヴァルドの笑顔には不快感しかない。ニコレッタは気が遠くなりそうだったが、絶対にここで気を失ってはならない。


 気を確かに持ち、悲鳴を上げながら迫りくるエヴァルドの胸板を片手で押しやったが、びくともしなかった。


 そこからはもう、ただひたすら喚いた。

 そうしたら、エヴァルドが苛立たしげにニコレッタの頬を手の甲で張った。目がチカチカする。

 誰かに殴られたのは初めてで、驚きが勝ちすぎて声も出なくなった。頬が痛くて、手首が千切れそうで涙が止まらない。


 この時、閂がかけられている扉を叩き壊すような勢いで殴りつけている音がした。

 ダンダンダンダンッという音に紛れ、慌てた声がする。


「ニコレッタ様! どうされましたか!」


 この声はクラウディオだ。追放されたと聞いたが、戻ってきたのだ。

 ニコレッタは、このエヴァルドの言葉を信じ、クラウディオを信じなかった。クラウディオは本当にニコレッタを裏切っていたのだろうか。


 本人の口から納得のいく説明も聞いていないのに、ニコレッタはただ背を向けてしまっただけではないのか。

 クラウディオは、愚かなニコレッタと話をするために戻ってきてくれたのだ。


 エヴァルドはチッと舌打ちして扉の方を見た。その隙にニコレッタは叫んだ。


「助けてっ!」


 恐怖でかすれた声が扉の外まで届いたかはわからない。

 ただ、エヴァルドは憤怒の形相でニコレッタの口を片手で塞ぎ、頭をベッドに押しつけた。息ができないほどの力だった。


「ニコレッタ様!」


 向こうからクラウディオの声がする。しかし、扉が開かないとみると、クラウディオはそこから離れたらしい。急に静かになった。

 エヴァルドはニコレッタをベッドに押しつけたまま、顔を近づけて低い声でささやく。


「あの娘にこの扉を破る力はありません。まあ、人を呼びに行ったのでしょうが、すぐには開けられませんよ。さて、扉がこじ開けられた時に皆が目にするのはなんでしょう? あなたと私の情事の跡でしょうか。皆、あなたはもう私と結婚するしかないのだと覚りますね」


 事実はどうあれ、二人が部屋に閉じ籠り、一定の時間が経っていればニコレッタの純潔を疑う。エヴァルドは手始めにそれを狙ったのだ。


 エヴァルドはそばで主人に従うふりをして、ニコレッタの地位と財産をずっと狙っていた。それに気づかず、悲しみに塞ぐばかりだったニコレッタがいけなかった。

 自分の身を護ることを疎かにした。そのつけがこうして回ってきたらしい。


 それにしたって惨い。ここまで残忍な人間だとは思わなかった。

 しかし、泣いたところでどうにもならないのだ。


 エヴァルドはニコレッタのドレスの裾を乱して笑っている。悪魔のような男だ。

 すると――。


 窓ガラスが突然割れた。それも、外から何かを叩きつけられて割れたらしく、破片が部屋の中に飛び散る。

 これにはエヴァルドも驚いてニコレッタを放した。


「なっ!」


 割れた窓から部屋に飛び込んできたのはクラウディオだった。鞘ごと剣を窓に叩きつけて割ったらしい。剣を片手に、身軽に着地する。

 窓から来たということは、外壁を伝って回り込んだのだ。この高さをものともせずに。


 割れた窓ガラスがクラウディオの服を割き、ところどころに血が滲む。夕日が照らすクラウディオの顔は怒りに燃えていて、あの優し気な娘と同一人物とは思えない。


 クラウディオは剣を鞘から抜くと、素早く踏み込んでエヴァルドに向けて振り下ろした。ニコレッタの耳には、ぎゃあという悲鳴だけが届く。


 斬り殺したわけではないが、エヴァルドは右目を押さえていた。目の上を走るように傷ができ、そこからどす黒い血が溢れる。

 それでもクラウディオは容赦なく、冷たく言い放った。


「ここで死ぬか、今すぐ出ていって二度とニコレッタ様の前に姿を見せないか、選ばせてやる」


 低く押し殺した声だった。彼女の声とはまるで違うものに思えるほどの。

 エヴァルドの左半分の顔には脂汗が浮き、恐怖に歪んだ。

 そして、慌てて背を向け、閂を跳ね上げて部屋から逃げ出した。


 その途端、クラウディオは剣を放り投げた。その剣が床に落ちるよりも早く、クラウディオはニコレッタを抱き締めたのだ。


 息が詰まるほど力強い。それから、体が硬い。

 今日抱きついた時には、優しい柔らかさがあったのに、何故か違う。

 危険を感じ、下に何か着込んできたのだろうか。


 クラウディオに抱き締められた途端、ニコレッタの体は先ほどまでの恐怖を忘れた。

 色々なものが解れて力が抜けていく。


 自分にはどうしてもこの人が必要なのだと感じてしまった。クラウディオと出会う前には戻れない。


「おそばを離れてすみませんでした。まさかこんなことになっているなんて……っ」


 クラウディオの声が震えた。ニコレッタはクラウディオの背中に腕を回し、匂いを嗅ぐようにして肩に顔を埋める。


「わたくしが悪かったの。ごめんなさい、クラウディオ……」


 すると、クラウディオの腕の力がさらに強くなった。


「あなたは何も悪くありません」

「ねえ、クラウディオ。ずっとわたくしのそばにいてくれる?」

「ええ、これからずっと」

「本当に? ああ、あなたが男性だったらよかったのに。そうしたら、すぐにでも大公様にお断りできるわ。わたくしには心に決めた方がいますって」


 どうしてクラウディオは女性なのだろう。男性だったらよかった。

 こんなにも凛々しくて、窮地にも駆けつけてくれたのに、女性では夫にできない。嬉しい半面、切なかった。


 しかし、これを聞くなりクラウディオは目を瞬かせ、そして感極まった様子でニコレッタに口づけた。


「お嬢様――っ!」


 やっと駆けつけた使用人たちは、女主と客人が抱き合って口づけを交わしている場面に遭遇したのだった。


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