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15♠幻ではなく

 エルヴィーノはクラウディオを見送り、地下牢へと続く階段を下りた。

 自分の立場を考えれば、こんなところまで飛び出してきて何をやっているのだろうという気はする。


 本当にクラウディオに妹などいるのだろうか。

 ふと、そんな疑問も湧いてくる。


 人は暗闇に触れると心が脆くなるものだと失笑した。

 信じると決めたくせに。迷うな。


 さっきまで一緒にいたクラウディオは、ここ数日接した、あの頼りない〈ジェレミア〉ではない。

 隣にいてもまるで弟ができたような爽快な気分になるだけで、愛しさが込み上げるようなことはなかった。


 馬も見事に乗りこなし、貴族の出であるということは本当だと思える。

 そんな男が今さら嘘などつくとは考えられない。


 ――さあ、地下牢に囚われている姫はあの〈ジェレミア〉なのか。

 心臓が煽り立てるように騒いだ。


 カンテラの灯りを持ったエルヴィーノが現れると、牢の番人は粗末な椅子から腰を浮かせる。


「ここに閉じ込めているクラウディオの牢の鍵を渡してもらおう」

「へ、へいっ」


 エルヴィーノの気迫に、番人は何故とも問い返さずに鍵の束を恭しく渡した。


「どの牢だ?」

「牢はふたつしかありません。ひとつは空ですから、奥へ行けばすぐわかるかと……」

「そうか」


 番人もクラウディオが罪人だとは思っていないのだろう。とりあえず、上の者がもういいと言うまで見張っているだけらしい。

 エルヴィーノは鍵束を手に、灯りで先を照らしながら進んだ。この時、そっと呼びかけてみる。


「ジェレミア?」


 ――この名前は違った。

 そうではない。


「クラウディオ?」


 しかし、返事はない。これも彼女の名ではなく、兄の名だ。

 確か、妹の名は――。


 この時、エルヴィーノは歩みを止めた。鉄格子の中で倒れている人物を見つけ、危うくカンテラを取り落とすところだった。


 床に髪を広げて倒れているのは、クラウディオと同じ顔をした人物だった。暗がりの中でもよくわかる、滑らかな質感の肌。すらりと形のよい四肢。長い睫毛は伏せられたままだ。


 エルヴィーノの心臓が大きく跳ねた。震える手で鍵束を使い、施錠を解こうとするのだが、手間取ってしまった。

 ようやく開いた牢に入り、カンテラを床に置いて彼女を抱き起した。


「ジェレミア! ……いや、ヴェルディアナ!」


 触れてみると、細くて柔らかい体だった。こんな男はいない。

 一体何があって気を失って倒れているのだろう。あの番人たちが逃げ場のない彼女を弄んだのだとしたら海に沈めてやる。


 エルヴィーノは考えるのも恐ろしくなって、ヴェルディアナの体を強く抱き締めた。

 すると、ヴェルディアナが、うっ、と小さく呻いて気がついた。


 それでも、まだ状況がわからないようで呆然としている。

 徐々に目の焦点が合うと、自分を助け起こしているのが兄のクラウディオではないことに気づいたらしい。その途端に、耳まで真っ赤になったのが仄かな明りの中でもわかった。


「エ、エルヴィーノ様!」


 慌てて腕から転がり落ちそうになったヴェルディアナを、エルヴィーノは有無を言わさず抱き締めた。

 ヴェルディアナが緊張のあまり、ヒュッと息を吸ったまま吐き出せないのがわかる。


 いきなり抱き締められても、ヴェルディアナには意味がわからずに恐ろしいばかりだろう。

 エルヴィーノはようやくそこに気づき、力を緩めた。


「お前はクラウディオの妹、ヴェルディアナだな?」

「は、はい」

「クラウディオも近くにいるから心配は要らない。……気を失っていたが、手荒な真似をされたのか?」


 恐る恐るそれを訊ねると、ヴェルディアナが背筋も凍るとばかりに腕の中で震え出した。だからエルヴィーノは思わず、また腕に力を込めてしまいそうになった。

 ヴェルディアナは震える声で言う。


「ネ、ネズミが」

「うん?」

「ネズミがいて、驚いて……」


 それで昏倒したというのか。ほっとした途端に疲れも感じた。

 なんだ、そんなことかと言いたいが、本人にとっては気を失うほど大変だったのだ。


 これを聞いた時、ふと前もこんな会話をしたような気がした。そこで確信する。


「そういえば、前にもネズミが苦手だと言っていたな。私がワインを振る舞った夜だ」

「葡萄の病気のお話をお聞きした時の……」


 ヴェルディアナが返してきた言葉に、エルヴィーノは満足した。

 やはり、ヴェルディアナはジェレミアと名乗り、しばらくエルヴィーノのそばにいたのだ。

 エルヴィーノの心を動かしたのは、クラウディオではない。このヴェルディアナだ。


 エルヴィーノは正面からヴェルディアナを見つめた。

 男装をしているのに、その辺りの娘とは比べ物にならないほどに美しい。この娘が装いを改めたら、ニコレッタにも引けは取らないだろう。


 エルヴィーノは心のままにヴェルディアナの頬を両手で包み込んでいた。


「ヴェルディアナ」

「は、はい」


 ヴェルディアナは困惑しながらもエルヴィーノの手から逃れなかった。


「私はどうやらお前に恋をしたようだ」


 至近距離で言うと、ヴェルディアナはえっ、えっ、と声を出して焦った。顔を押さえられているのでうつむくこともできない。

 赤くなって目を潤ませている。この無垢な娘を手に入れることができたなら、と願わずにいられない。


「私の妻としてこの地に留まってほしい」

「そ、そんな、まさか……」


 すんなりと受け入れてくれないのは、散々ニコレッタを妻にと望んで求婚したせいだろう。身から出た錆ではあるが。


「ニコレッタのことなら……その、そろそろ身を固めなくてはいけない時期に丁度いい相手だと思っていた。しかし、お前に会ってからはそういう計算ができなくなって、ただお前に隣にいてほしいとだけ考えていた。こういう気持ちになったのは初めてだ」


 誠実というのが何を基準に測れるものなのかはわからない。

 けれど、ヴェルディアナに対して不実ではありたくないと思う。情けない話なのだが、嫌われたくない。ただそれだけだ。


 ヴェルディアナは、この告白に呆けていた。

 少し前まで男だと思われていたはずなのに変だとでも考えているのだろう。そこは深く考えないでほしい。


 ただ、本能的にヴェルディアナが女だと気づいた自分はすごいとは思う。男でもいいという節操なしでなかったことが嬉しい。


「あの……兄様と相談させて頂いてもよろしいでしょうか?」


 声を震わせて答える。


「今すぐに嫌だと断らずにいてくれるのは、嫌われていないと希望を持ってもいいのだろうか」


 耳元でささやくと、ヴェルディアナの体が強張った。


「嫌いだなんて……。エルヴィーノ様はお優しくて、立派なお方です」


 とろりと潤んだ目が向いている。

 それならば、クラウディオを説き伏せればいいということだ。エルヴィーノは満足して微笑んだ。


 早くこの汚い地下牢を出てヴェルディアナを自らの館へ迎えたかった。

 そうだ、猫をたくさん飼わなくては。

 

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