13♡崩れた信頼〈下〉
日が沈む前にヴェルディアナはニコレッタのもとへ辿り着くことができた。
ニコレッタはヴェルディアナの顔を見るなり、感極まった様子で抱きついてくる。
「どこにいたの!? ずっと捜していたのよ!」
「ご、ごめんなさい。ちょっと海が見たくて」
適当な理由を口にしたが、それもいけなかった。
「それは国に帰りたいということ?」
「え……」
帰りたくないかと問われるなら、帰りたい。家族は双子が死んだと思い込んだままなのだ。無事を知らせなければとは思っている。
しかし、ニコレッタがあまりにも悲しそうに言うから、たったそれだけのことも言えなかった。
「ニコレッタ様を一人にして帰ろうとは思いません。あなた様は私の恩人ですから」
悲しみに沈んでいたニコレッタが気力を取り戻したのは、ヴェルディアナと接するようになってからだという。
それならば、ニコレッタが他に支えと呼べるものを手に入れるまでは放っておけない。
ニコレッタはそれを聞くなりほっとしたように見えた。しかし、すぐに不思議そうに首をかたむける。
「クラウディオ、あなた……いえ、なんでもないわ」
「???」
どういうわけか、ニコレッタはヴェルディアナの手をギュッと握って放そうとしない。どこかへ行ってしまうと不安になるのだろうか。
そのまま自室へ引っ張っていかれた。二人、ベッドに腰かけて話す。
「今日もここにいて。お願い」
「は、はい」
また幽霊に怯えていたのかもしれない。一人になると眠れないのだろう。
しかし、そこでふと、それならヴェルディアナがエルヴィーノのところにいたこの数日間はどうしていたのかなと考える。
今日もと。
「…………」
ちょっとそのところをクラウディオに訊かねばならないかもしれない。
そんなことを考えたヴェルディアナには気づかず、ニコレッタはまたヴェルディアナに抱きついた。
「今日は避けないのね」
「は、はぁ……」
避けるというのはなんだろうか。
よくわからずにいると、ニコレッタは腕を解いてヴェルディアナを正面から見据えた。
「わたくしが手を伸ばすと、あなたは距離を取ろうとしていたでしょう。笑顔でやんわりと。気づいていないと思った?」
それはクラウディオだから。
見た目はともかく、こんなに密着したら触り心地が違うのはわかるだろう。
だからクラウディオは、ニコレッタが飛びつけない程度には間隔を置いていたと思われる。
「鬱陶しいと思われても仕方ないのはわかっているわ。でも、あなたといると心が安らぐの。今日は嫌なことがあって、それで……」
麗しい顔を曇らせたニコレッタを、今度はヴェルディアナが慰めるように抱き締め、背中をトントンと叩いた。
「鬱陶しいなどと思ったことはございません。私にだけは本心をお話してくださってよいのです」
ニコレッタがほっとしたように体から力を抜いたのがわかった。
弱々しい声でつぶやく。
「あなたが……男性だったらよかったのに」
「えっ?」
「エルヴィーノ様もロマーノも嫌いよ。わたくしは結婚なんてしたくないの」
ロマーノのことは知らないが、エルヴィーノはそこに同列で並べられるべきなのだろうか。
優しく、大らかで民を思い、素晴らしい人だった。想い人からこんなふうに言われてしまうのは、ヴェルディアナも心が痛い。
「エルヴィーノ様は立派なお方ですよ。あれほど民を大事にしてくださる方はおられないでしょう」
あらそう? とニコレッタが素直に受け入れて結婚となった時、それはそれで悲しいのに、ついこんなことを言ってしまう。馬鹿だなと思いつつも。
しかし、ニコレッタは悲しそうだ。
「どうしてそんなことを言うの? だから彼のもとへ嫁げと言うの?」
「い、いえ、それは……」
「わたくしはあなたといたいのに!」
見る見るうちに、ニコレッタは目に涙を浮かべた。泣かせるつもりではなかったのだが――。
この時、扉が叩かれて、二人はハッとした。
「お嬢様、エヴァルドにございます」
「……なぁに?」
ニコレッタは扉を開けずに硬い声で訊ねた。しかし、エヴァルドは施錠されていない扉を勝手に開けた。
得意満面な笑みを浮かべ、エヴァルドは道化じみた仕草で一礼する。
「お嬢様のお耳に入れたきことがございます。そこのクラウディオと名乗る者のことです」
「何が言いたいの?」
ニコレッタの言葉には棘がある。それでもエヴァルドは続けた。
「その者は大公がニコレッタ様を懐柔するために送り込んだ手の者なのです。随分手の込んだやり方ではございましたが」
ヴェルディアナはきょとんとしてしまった。どういう話なのだろうかと。
「クラウディオは嵐に遭って流れ着いたのよ。そんなはずは!」
「嵐に遭って都合よく生き延びたというのもおかしいでしょう。お嬢様は男ではなく女の方が素直に話を聞くだろうと考えたのかもしれませんが、それにしてもやりすぎです。これがお嬢様の心を踏み躙る行為でなくなんだというのでしょう?」
「あの、何か勘違いをされているのではないかと思います。私が嵐に遭ったのは事実ですし」
落ち着いてヴェルディアナが言うと、怖い顔をして睨まれた。
「お前のような嘘つきの言葉はもう誰も聞かぬ」
「そんな……」
この人は話が通じないらしい。ヴェルディアナは困ってニコレッタを見た。
しかし、ニコレッタは本気で傷ついた顔をした。
「だから、エルヴィーノ様の肩を持つの?」
「えっ、それは違います」
「じゃあ、この国に流されてきてすぐにわたくしのところに来たはずのあなたが、どうしてエルヴィーノ様の人となりを語れるの?」
そう言われると、変かもしれない。失敗した。完全に失言だ。
ここで黙ってしまったのがさらによくなかった。ニコレッタは泣きながら喚いた。
「出ていって! もう知らない!」
「ニ、ニコレッタ様、これには深いわけが――」
説明しようとしたヴェルディアナの首根っこをエヴァルドがつかんで引き寄せる。
「そういうわけだ。来い」
神妙な顔をしてみせるが、すごく嬉しそうで、笑顔を噛み殺している。
「ニコレッタ様!」
呼びかけると耳を塞がれた。
どうしよう。ここはクラウディオに任せるしかないだろうか。
すぐにクラウディオを呼びに戻ろう。
ヴェルディアナはそう考えたが、甘かった。
首根っこをつかまれたヴェルディアナは、そのまま外へ放り出されるかと思いきや、地下に連れていかれたのだ。
「エヴァルド殿、ここは一体……」
「お前はしばらく地下牢に入っていろ。ここで頭を冷やすといい」
大公の手の者だと思っているなら、この扱いはよくないのではないのか。一体、何がどうなってのことなのだろう。
ヴェルディアナにはさっぱりわからなかったが、戸惑っているうちに牢へ放り込まれた。
「あっ、どうかお話を聞いてください!」
「ああ、あとでな。全部終わったらいくらでも聞いてやる」
エヴァルドの冷酷な笑みを、ガシャンと鉄格子が施錠される音の中で見た。
この男は邪悪だ。ニコレッタは大丈夫だろうか。
どうにかしてここから出ないと――。
靴音を響かせて高笑いしながら去ったエヴァルド。
しかし、ヴェルディアナの戦いはこれからであった。
すっかり日が沈み、辺りが暗くなると、出たのだ。チュゥと鳴く、やつらが。
暗闇で目を光らせ、独房の壁を駆け上る。逃げ場はどこにもない。
ヴェルディアナはあまりのことに甲高い悲鳴を上げ、昏倒した。




