1♡燃ゆる空ののちに〈下〉
ヴェルディアナは、暗闇の中を漂いながらも雨が少し前にやんだことだけは覚えている。
しかし、クラウディオたちが死んだという事実が受け入れがたく、気づけば気を失っていた。気を失ったヴェルディアナを運んだ小舟が流れ着いた浜辺に、彼女の他に漂流したのはごみだけであった。
そして、嵐が去った後の浜辺でヴェルディアナを最初に発見してくれたのは、漁師の子供だったらしい。死んでいると思って棒で突いた。
「う……っ」
ヴェルディアナが呻いたから、子供はびっくりして棒を放り投げた。
「い、生きてる! おかあちゃ~ん!」
朦朧としながら頭をもたげると、ぼやけた視界の中、人影が見えた。砂浜を走るから足音がほとんどしない。
ここはどこだろう。少なくとも、ヴェルディアナが知っている土地ではなさそうだ。
「人を乗せた小舟が流れ着いたって?」
どっしりとした体格の中年女性が第一発見者の母親らしい。
ヴェルディアナと目が合い、ハッと息を呑んだ。
「こりゃあ……。どこぞのお姫さんかねぇ?」
濡れて、それから干からびて、ひどい有様だがドレスの仕立てはいい。庶民には見えなかっただろう。
「あの、ここはどこでしょうか?」
かすれた声でなんとか問いかけると、女性は憐れむような目をした。
「イイリア公国のルアルディ領だよ」
「……イイリア?」
地理に疎いヴェルディアナにはとっさにそれがどこなのかわからなかった。ぼうっとしていると、その女性は放っておいてはいけないと思ったのか、優しく申し出てくれた。
「とりあえずそのままじゃあんまりだから、汚れを落とさないかい?」
「ありがとうございます」
見ず知らずの女性なのに優しい。ヴェルディアナは思わず涙ぐんでしまった。
「着替えはそんなにいい服じゃないけど、あたしので我慢しておくれ」
「我慢だなんて、そんな。助かります」
ヴェルディアナはもともと腰が低い。そして、家族以外の人とこんなに喋ったのは久しぶりかもしれない。
馬小屋かと思うような、海のそばの小さな家だったが、ヴェルディアナはそこで湯を使わせてもらえた。そして、一人でドレスを脱ぐこともできないヴェルディアナに、彼女は湯浴みの介助してくれた。少々荒いが何も言えない。
「あんた、ひどい目にあったみたいだね。よく助かったよ」
ヴェルディアナの頭に湯をぶっかけながら言われた。ヴェルディアナは盥の中、両手で顔を覆い、メソメソと泣いた。
「助かったのは私だけなのですね。兄様も、皆――」
「気を落とすなとは言えないけどさ、あんたが助かったのがせめてもの救いじゃないか」
「兄様が亡くなって、どうして私だけおめおめ帰れましょう……」
大好きなクラウディオがこの世にいない。その事実に胸が張り裂けそうだった。
涙がポタリと水面に落ち、そこに写っていたクラウディオにそっくりな自分の顔が歪んだ。
女性は慰めの言葉を選びきれず、困りながらヴェルディアナの体を拭いて服を着る手伝いをしてくれた。
この服の素材はなんだろうか。どうにもゴワゴワするが、贅沢は言えない。
まだ濡れた長い髪を梳きながら、女性はヴェルディアナを正面から見た。
「あんたは綺麗なんだから、これからの人生はきっといいことがたくさんあるよ」
「ありがとう、ござい――」
言いかけて、また泣いた。この顔はクラウディオと同じ顔。ひとつ欠けた。
小さな部屋の粗末な椅子に座ったまま泣いていると、前触れもなく扉が開く。ヴェルディアナはこの衝撃に一旦涙が止まった。
扉の前に立っていたのは、中年男性二人だ。
一人は恰好からしてこの家の主のように見えた。
もう一人はプールポワンを着て、髪も撫でつけている。漁師よりももう少し身分のある人物のようだ。
その男はヴェルディアナを値踏みするようにジロジロと見た。不躾な視線にさらされ慣れていないヴェルディアナはすっかり委縮してしまう。
しかし、ここには庇ってくれるクラウディオがいない。
ヴェルディアナは手を握り締めて耐えた。
「この娘が浜に流れ着いたと?」
「へ、へい。エヴァルド様、仰る通りで」
この男はエヴァルドというらしい。目つきは怖いし高圧的だ。ヴェルディアナはどうしていいかわからなくなった。
「見たところ、卑しい生まれではなさそうだ」
「へい。立派なドレスを着ておりやした」
カタカタと震えるヴェルディアナを、女性が心配してくれていた。
けれど、ここへ流れ着いたのがヴェルディアナの意志でないとしても、不法滞在だ。色々と調べねばならないのだろう。理屈はわかるが、怖い。
「とりあえず屋敷に連れていく。娘、名はなんという?」
「ヴェ、ヴェルディアナと……」
家名は名乗らなかった。今の自分はただの〈ヴェルディアナ〉でしかない。
エヴァルドは、細かいことは後だと思ったのか、とりあえずそれ以上は訊ねなかった。抵抗することのない娘だからか、手荒な真似はされなかった。
「ドレスがまだ乾いていないんだけど」
女性がそっと言ったが、ヴェルディアナはかぶりを振った。
「後はお好きなようになさってください。この服と交換ということで」
「そんな、値打ちが違いすぎるよ」
「いいんです。ご親切にして頂いて、ありがとうございました」
丁寧に礼を言い、ヴェルディアナはエヴァルドに連れられていった。
このエヴァルドという男はこの国でどういう立場にいる人物なのだろう。
爵位を持っているのだろうか。
取り調べとか言って慰み者にされそうになったらどうしよう。
そんな心配をしていたヴェルディアナは、疲労も相まって青ざめていた。
しかし、馬に同乗しているエヴァルドは無言で不機嫌そうにしているだけだった。
息が詰まりそうになるが、吹き抜ける風は爽やかだ。ヴェルディアナはとにかく泣き出したい気分だった。
やっと馬から降りると、そこは小高い丘の上に聳える白亜の館だった。緑が美しく、小鳥が遊び、とてもこの仏頂面の中年男には似合わない雅さである。
「ここはロヴェーレ伯爵の屋敷だ。ご当主がお前にお会いなさるかはわからないが」
「……あなたがご当主ではないのですか?」
それを問うと、エヴァルドは気分を良くしたようだった。どうやらただの家臣に過ぎないらしい。
「そう見えるかもしれないが、違う。私の主はニコレッタ・ロヴェーレ伯爵だ」
「じょ、女性ですか?」
ヴェルディアナが生まれ育ったフララスでは、女は爵位を継げないし、財産も受け取れない。だからこれには驚いてしまった。
しかし、エヴァルドは片方の眉を跳ね上げただけだった。
「そうだ。父上様、兄上様と立て続けに亡くなられて、爵位を継がれたのは半年前になる」
そのニコレッタという女性も兄を亡くしたのだ。
そう思ったら他人のような気がしなくなった。
「それはおつらいことですね……」
「この半年、泣き暮らすばかりでそのうち体を損なうのではないかと心配している」
ますます他人事ではない。ヴェルディアナの涙もまた乾ききらないのだ。
ヴェルディアナがここへ流れ着いたのは、クラウディオたちの導きだろうか――。




