9♡悲願の再会
ヴェルディアナは、庭の茂みの奥に座り込み、昨晩のことをほんのりと考えていた。
エルヴィーノがワインを振る舞ってくれて、少し話をした。とても美味しいワインで、そのワインを作るには色々な苦労があるのだという。
葡萄が病気になるとは知らなかった。人は病気になったら、薬を飲んで寝るしかない。
葡萄も床に寝かせてやるのだろうか。そのためには枝から外してやらねばならないとして、元気になった頃にまた枝に吊るすのだとしたら、確かにとても大変だ。なんて苦労だろう。
人々の苦労の上に美味しいワインがある。
そして、その人々の苦労をエルヴィーノは酌んでいる。当然のことだとは言わない。
――なんて立派な方だろう。
心底そう思った。優しくて、ヴェルディアナのことも常に気にかけてくれている。
こんなに素晴らしい男性なら、ニコレッタに相応しい。
ニコレッタはエルヴィーノに会おうとしないけれど、会えばすぐにエルヴィーノに惹かれるはずだ。そうしたら、エルヴィーノは深い愛情を持ってニコレッタに接するのだろう。
それを考えた時、胸の奥がチクリと痛んだ。
――なんだろう、この痛みは。
ヴェルディアナは膝を抱え、痛みに耐えた。
こんな痛みは知らない。今まで感じたことのない痛みだ。
胸が痛くて、涙が出てきた。シクシクと一人で隠れて泣いていると、茂みが揺れた。
「ディア!」
茂みを割って現れたのは、クラウディオだった。ヴェルディアナはとっさに声を上げられないほど驚いた。
泣いている妹を、クラウディオは力いっぱい抱き締めてくれる。
「ごめんな、ディア。僕のせいで大変な思いをさせて……っ」
クラウディオの声と体が震えていた。ヴェルディアナもようやく半身に再会できた喜びを噛み締めると、涙が次から次へと零れた。
「兄様、よくご無事で……」
クラウディオの背中の辺りを握り締める。クラウディオの手はヴェルディアナの背中を摩っていた。
「うん、流されたところを漁船に拾われたんだ。ディアはどうやって助かった?」
「ジェレミアが私を小舟に引き上げてくれました。それで、その船が浜に流れ着いたのです。それからニコレッタ様のお世話になっていました」
ヒクッ、としゃくり上げると、クラウディオはようやくヴェルディアナの顔を覗き込んだ。
「ジェレミアが……。あいつは助からなかったか」
「はっきりとはわかりませんが、多分……」
クラウディオはヴェルディアナの頭を撫でる。昔から、ヴェルディアナが泣くとこうして慰めてくれた。
「兄様は、ここではジェレミアと名乗っておられたのですね。本当の名を名乗られなかったのは、やはり他国だからですか?」
「そうだ。身元を明かすには情報がなさすぎたから。ただ、エルヴィーノ様なら僕たちのことを知っても悪いようにはしないでいてくれる気がする。そのうち、様子を見て本当のことを話そう」
それに、いつまでもこの国にいたのでは、祖国の両親に兄妹が無事だと伝わらない。そのうちに二人の葬儀が行われてしまうだろう。
エルヴィーノが、ジェレミアと名乗っていた人間が二人、別人であると知ったらどうだろう。もっと早くに打ち明けてほしかったと気を悪くするだろうか。
こちらに悪意はないのだ。そこはわかってもらえるように誠意を持って話したい。もちろん、ニコレッタにも。
「ええ。兄様は私と入れ替わってニコレッタ様のところにおられたのですよね? ニコレッタ様はどうされています?」
ニコレッタの名を出すと、クラウディオが少し躊躇ったような気がした。気のせいかと思うほど僅かな動揺だったが。
「ディアのことをとても心配して大事にしてくださっていた。ディアの姿が見えないとすぐに捜されるものだから、なかなか抜け出してこちらに行けなくて。実は今も黙って抜けてきたんだ。適当に戻らないと。――それで、ニコレッタ様にも僕たちのことを正直に話したい。ただ、その時はディアにも同席してもらって、その、入れ替わったのはわざとではないということをわかって頂けると……」
「それはもちろんです」
きっと、ニコレッタがあまりにも信じ込んでいるから、クラウディオも罪悪感を覚えたのだろう。
しかし、ヴェルディアナとはまったく話せないまま別れてしまったから、どうしていいのか戸惑ったのだ。それはヴェルディアナも同じである。
「お前の方はどうだ? 泣いていたが、苛められたのなら仕返しをしてやるから、どいつだか教えてくれ」
「いえ、そうではありません。皆さんお優しいですよ。特にエルヴィーノ様はいつも気にかけてくださって、本当にご立派なお方です」
それを言ったら、ふとさっきの苦しさが蘇った。
こんなものはこの国を離れさえすれば、すぐに和らぐのだろうか。
そうしたら、少なくともヴェルディアナはこの国に再び訪れることはないだろう。
国内の有力者のところへ嫁ぎ、その領地からはほとんど出ず、クラウディオとさえそんなに会えなくなる。
せっかくジェレミアが助けてくれて生き延びた命なのに、将来のことを考えたら暗澹たる気持ちになった。
贅沢だと自分を叱責するが、それでも笑えない。
「……エルヴィーノ様はその後、ニコレッタ様のことを何か仰っていたか?」
クラウディオがふとつぶやいた。それを言われ、ヴェルディアナは少し考える。
「い、いえ、私には何も」
「そうか」
この時、クラウディオの表情がいつもよりも険しく見えた。
どうしたのだろうと考えていると、近くを人が通りかかった。
「ディア、隠れて」
隠れるのはヴェルディアナの方なのか。どちらでもいいのだが、二人が同時にいるところはまだ見られたくないのだ。
真っ先にエルヴィーノとニコレッタに話したいのだから。
仕方なくヴェルディアナが姿勢を低くしていると、立ち上がったクラウディオに声がかかった。
「おっ、ジェレミアじゃないか。こっちに来いよ」
聞いたことのない声だ。兵士の誰かなのだろうけれど、ヴェルディアナは一部の人しか覚えていないのだ。
それでも向こうはこちらを知っているらしい。
「一緒に水浴びでもしようぜ。それから、組み手の稽古も。女みたいに可愛い悲鳴を上げても、お前は女じゃないんだろ?」
ギャハハハ、と下卑た笑いが上がる。
伏せているヴェルディアナからは握り締めたクラウディオの拳が震えているのが見えた。
「わかった。相手をしてやるから、かかってこい」
そう言って、クラウディオは茂みから出ていった。ヴェルディアナは焦ったが、続いて出ていけない。
仕方なく茂みの隙間から様子を窺った。
クラウディオは女みたいだとからかわれるのが嫌いなのだ。あれを言われるとすぐに怒る。
相手が何か喚いたが、それがちゃんとした言葉になるよりも先にクラウディオが二人いた兵士を転がしていた。エルヴィーノの兵士だから剣は抜かなかったが、踏んづけている。
その騒ぎを聞きつけ、人が集まってきた。ヴェルディアナはますます出ていけなくなって縮こまった。
「なんの騒ぎだ」
駆けつけたエルヴィーノの声にヴェルディアナはぎくりとした。しかし、クラウディオは落ち着いたものである。
「稽古ですよ。ちょっと熱が入りすぎたかもしれませんが」
笑いまで交えて言う。ヴェルディアナなら慌てふためいたところだが。
ヴェルディアナのところからエルヴィーノの表情までははっきりと見えないが、戸惑っているのは声から察せられた。
「ジェレミア、どうしたのだ?」
これにはクラウディオの方が首をかしげた。
「どうしたとは、どういう意味でしょうか?」
「いや……ここしばらく、そう、頭を打ってから大人しかったものだから」
それは、そこで人間が入れ替わったからである。そんなことをエルヴィーノは知らないのだから、戸惑うのは当然だ。
ヴェルディアナはクラウディオになりきるつもりだったが、実際には無理なことだ。二人はこんなにも違う。
クラウディオはそれを聞くなり、声を立てて笑った。
「ああ、そうですね。もうすっかり平気ですと申し上げておきましょうか」
「それなら、いいのだが……」
そう言いつつも、何かに引っかかりを覚えているような口調だった。
早く事情を説明しなくてはと思うのだが、どう話すのがいいだろうか。
「ジェレミア、話がある。こちらへ来てくれ」
「今すぐですか? できれば後にして頂けると――」
「すぐにだ」
有無を言わさない強い口調だった。これにはクラウディオも断りきれない。
隠れているヴェルディアナのことが気になって仕方がないとしても、そちらを見遣って注意を引いてはいけないと思うらしく、振り向かないままで返事をした。
「わかりました。手短に願います」
その声の中に、ヴェルディアナに向けて、話が終わるまでそこに隠れて待っていてくれと言っているような気がした。




