7♠彼の異変〈下〉
それからも、ジェレミアはもとのように顔に似合わない勇ましさを見せることはなかった。
ほんの少しだけ力が抜けてきたように見える程度だ。
エルヴィーノは、執務の隙間を縫ってジェレミアを眺めていた。
庭に咲く花を優しい目で鑑賞していたり、腕を上げて伸びをしていたり、些細な動きでさえ微笑ましい。
以前のジェレミアも好ましかったが、どういうわけか今のジェレミアから目が離せなかった。どこか危なっかしいというのか、放っておけない何かがある。
けれど、夢にまで出てくるというのはさすがに重症だ。男の夢ばかり見ている自分は、自分でも気持ち悪い。
しかも、大体がジェレミアのことを組み敷いたところで目が覚める。嫌な寝汗をかいていた。
――この晩、部屋の外で物音がした。すぐ近くではないのだが、夜間だからよく響く。
エルヴィーノは寝直す気分にもなれなかったので外へ出てみた。月明かりがあって、それだけで廊下を歩くには不自由しなかった。
足音を極力立てないように歩くが、向こうからは慌ただしい音がするのだ。誰かが廊下を走っているような。
こんな夜更けに誰が走っているのかと思えば、夢に出た顔である。これは夢の続きだろうかとエルヴィーノは目を擦った。
しかし、廊下を走っていたジェレミアはエルヴィーノに気づくと立ち止まり、勢いよく頭を下げた。いつもは紐で縛っている髪がはらりと揺れる。
エルヴィーノは落ち着かない心境を隠すように、少し硬い声で訊ねる。
「こんな時間にどうした?」
「す、すみません。起こしてしまいましたか? 本当に申し訳ありません」
声が揺れた。泣かせるほど怖い言い方をしてしまったのだろうか。咎めるつもりはないのに。
「いや、寝苦しくて起きていただけだ。起こされたのではない」
すると、ジェレミアは幾分ほっとしたように見えた。一度顔を上げ、それから胸の前で手を握り締めると、震えながらうつむいた。
「ネ、ネ、ネズミが」
「うん?」
「ネズミがいて、部屋に戻れなくてっ」
必死の形相でそんなことを言われた。ネズミくらいどこにだっているだろう。
それなのに、ジェレミアは本気で怯えているように感じられる。
「そんなに苦手なのか?」
そっと問いかけると、ジェレミアは無言で大きくうなずいた。
男がネズミを恐れるなんてことがあるだろうか。他に何かあって、それを隠すために嘘をついているのかもしれない。
エルヴィーノの頭の冷静な部分がそう警告する。しかし、それ以外の部分が目の前で震えるか弱い姿を疑えない。
「近いうちに猫を増やそう」
しかし、今晩はもう間に合わない。もう出ないから部屋に戻りなさいと言って、またネズミに遭遇したら飛び出すのか。
もしジェレミアを見つけたのがエルヴィーノでなかったとしたらどうなのだろう。他の男がジェレミアを自室に連れ込んだりしたら。
男だけれど、それでもいいかとさえ思わせてしまう気がする。危険だ。
――少し酒に酔わせてみようか。そうしたら、ネズミが出ても騒がずに寝ているかもしれない。
それが名案のように思われたけれど、本当は酔ったところが見てみたいだけではないのか。そんな自問をしてしまってはいけない気がした。
「とりあえず、おいで」
嫌だと言うのなら無理強いはしないだけの分別はある。
けれど、ジェレミアは素直についてきた。ついてこないようなら逆に心配しないで済んだのに、こうして顔見知りであればこんな時分にもついていくのだ。
エルヴィーノは自室の扉を閉めずにジェレミアを中へ誘った。開けておいたのは、自分のためでもあるかもしれない。
「いいワインがある。寝酒には丁度いいだろう」
薄暗い中、自ら杯を探し、ワインを注ぐ。コトリ、と小さな音を立てて机の上に置くと、ジェレミアはそれを直視していた。
もうひとつの杯にもワインを注ぎ入れ、エルヴィーノはそれを自分の口元に運ぶ。たくさんは飲まない。理性は必要だ。
「このワインは我が国の特産品だ。美味いワインを作るにはまず、良質の葡萄を育てねばならない。そのためには土壌が大事だし、病気にならぬように細心の注意を払わねばならない。農民たちの工夫や苦労がここにつまっている」
それを言うと、ジェレミアはトコトコと近づいてきて、杯の中のワインを興味深そうに眺めていた。それは真剣に。
「葡萄が病気に……。それは大変ですね」
「ああ。農民たちは葡萄のことを考え、農民たちのことを私が考える。皆が仕事に集中できる環境を整えるのが私の役目だ」
そうだ。だから、ニコレッタに求婚しようと思ったのだ。
ニコレッタは兄を亡くし、嘆くばかりで領民を顧みることができていない。だからこそ、そこに介入する手っ取り早い方法が結婚だった。ニコレッタ自身も可哀想ではあるのだが、あれではいけない。あのままでは、あの領地は死ぬ。
いかに女の身で、跡目など継ぐ教育をされていなかったとしても、その家に生まれ、最後に一人残されたのだから治める義務はある。
ジェレミアは両手で杯を包み込むと、ひと口ワインを飲み込んだ。そして、うっとりしたような目をエルヴィーノに向けた。
「とても美味しいです」
その澄んだ目には、エルヴィーノに向ける尊敬が少なからずあったように見えた。
「……そう、だろう?」
たったこれだけの声を発するのに、大公たる男が緊張している。
エルヴィーノは、今まで自分が恋をしてこなかったのだということを痛感した。
女は好きだったが、美しくておかしな性質の女でなければそれでよかった。
ニコレッタのことも、利害を考えた上で丁度良いから愛することもできるだろうと思っていた。
しかし、現実はどうだ。
恋は唐突で、素性もよく知らない異邦人の青年を愛しいと感じている。
それをどうしても認めたくないのに、鼓動が正直すぎて悲しくなった。
自分が男を好きだとは知らなかった。そもそも、こんな可憐な男がいる方が悪いのだ。




