7♠彼の異変〈上〉
エルヴィーノは、自室の机の前に座り込んで頬杖を突いていた。
それというのも、少し前に拾った青年のせいである。あの少女のように美しい顔をしたジェレミアのことを考えている。
最初に会った時、彼は上半身に何も身に着けておらず、肌をさらしていた。
そうでなければ少女と勘違いしただろう。それほどに整った優しい顔立ちをしている。
あの顔は、エルヴィーノにはとても好ましかった。可愛らしいと心底思った。
ただし、男である。惜しいことに。
それでも可愛いし、意外ながら剣の腕が立った。人柄もよい。
とにかく、ジェレミアという青年のことが気に入ったのは間違いない。
そのはずなのだが、このところそのジェレミアの様子がおかしいのだ。
少し前に頭を打ってしまい、その影響だろうと皆がささやいている。
「それにしても、なぁ……」
ため息が出た。
立ち上がり、ジェレミアを捜す。ジェレミアはあれから、兵士たちと鍛錬している姿を見ない。
皆から距離を取っているようなのだ。剣も握らず、ぼうっとしたり、隅の方に隠れたりしている。
以前からは考えられない変化だ。
そこまではまあいいのだが――。
ジェレミアは庭にいた。庭の木の陰で膝を抱えている。
「ジェレミア」
エルヴィーノが声をかけると、ジェレミアは怯えた様子で肩を跳ね上げた。そうして、潤んだ目でエルヴィーノを見上げてきた。
まるでさっきまで泣いていたかのようだ。目元がほんのりと赤い。
自分が何かをしたわけでもないのに、エルヴィーノは妙な罪悪感を覚えた。
「どうした? 具合が悪いのか?」
本来ならば、とても役に立ちそうもない兵士などさっさと首を切ってしまうべきだ。
だというのに、それをしようという気になれない。それどころか、このか弱い青年を護らなくてはならないような気になってしまう。相手は男だというのに。
「すみません。本当に、ごめんなさい……」
目に涙を浮かべて謝る。
これではまるで少女だ。それも、とびきり可憐な――。
妙な気分になっている自分が信じられない。
エルヴィーノはそっと、自分で親指の付け根をつねった。
「謝らなくていいと何度も言っている。何がそんなに悲しいのだ?」
「どうしたらいいのか、わからなくて」
そう答えた声までか細くて、弱々しい。あの溌溂とした姿は幻だったのだろうかと思ってしまう。
別人のように豹変する人間もいると聞くが、ジェレミアも何か病を抱えていたのだろうか。
思えば嵐に遭って死にかけたのだ。何があっても不思議ではなかった。このところ、信じられないくらい少ししか食事を取らないとも聞く。
心身が回復していなかったのに、エルヴィーノが無理を言ったのがいけなかったのかもしれない。
「わからないなら、考えなくていい。ここにいる時、お前は私の従者だ。私の言うことに従っていたらいい」
すると、ジェレミアはさらに体を固くし、心を閉ざしたように見えた。だから、エルヴィーノはなるべくそっと首を振った。
「お前の心がもういいと言うまで、とにかく休みなさい。それが私からの命令だ」
悲しそうに隠れて泣かれるくらいなら、エルヴィーノからは何も望まない。この青年に必要なのは休息だろう。
ジェレミアは目を見張り、探るように恐る恐るエルヴィーノに目を向けたが、目を合わせることはない。
「けれど、それでは……」
「この国は海に面した豊かな土地だ。丘には柑橘の木が豊かに茂り、とてもよい香りがする。疲れた心を癒すには適しているだろう。ゆっくりするといい」
傷つけるようなことは言わないように気をつけたはずなのに、ジェレミアは大粒の涙を零した。
清らかな涙が頬を伝い、ジェレミアはそれを指先で拭った。
エルヴィーノは、喉の奥がギュッと痛むようなおかしな感覚を覚えた。
これで男だなどと言って、誰が信じるだろう。
それでも、男なのだ。エルヴィーノはそれを知っている。
知っているつもりが、戸惑ってしまう。
「ごめんなさい。これは悲しいのではなくて、嬉しかったのです。お優しい言葉が、とても……」
恥じらう素振りが可愛らしい。
どうしてこうなったのだろう。ジェレミアのことがまったくわからない。
わからないけれど、目で見たものを可愛いと認識してしまうのはやめられない。
相手は男なのに。
そのすぐ後、エルヴィーノの館にジプシーがやってきた。
ジプシーは入国を制限されないものである。各地を渡り歩き、芸を披露し、そうして生きている。歌も調べも踊りも、逞しく美しい。
エルヴィーノはいつも、ジプシーが来た時には手厚く歓迎し、褒美を取らせた。
その話を聞きつけて、次々にやってくる。
この日も庭の広場に兵たちを集め、皆でジプシーを囲んだ。薄い衣を纏った踊り子たちに、兵が口笛を吹いてはやし立てる。
それを彼女たちは妖艶に微笑んで受け止めていた。細い腰のくびれ、締まった足首があらわになっている。彼女たちは自分の魅力をよく理解していた。
日が暮れ出し、篝火を焚きながらジプシーの踊りを皆で眺める。
兵たちにはこれが慰労になるのだから、エルヴィーノとしても感謝している。
ただ、この日はいつもと少しばかり様子が違った。半数はジプシーの音楽と踊りに酔いしれていたが、残りの半数は気もそぞろだったと言えよう。エルヴィーノ自身が後者である。
それというのも、ジェレミアのせいだ。
ジェレミアは、肉感的な美女たちが半裸の衣装で妖しく踊る様に動揺していた。火照った頬を両手で包み、恥ずかしそうにうつむいている。
エルヴィーノの席からもそれが見えたのだ。
その仕草が純粋というか、恥じらう年頃の乙女のようで――可愛らしすぎた。
この時のジェレミアを見てしまった者が、男にはあるまじき可憐さを振り撒く青年を二度見し、目を疑い、ジプシーに集中できなくなったのである。
踊り子がこの観客たちの手ごたえのなさに、やる気が起こらなくなったとしたら申し訳ないが。
「エルヴィーノ様、お気に召す娘はおられましたか?」
こっそりと腹心のジルドが耳元でささやく。気に入った娘がいたら閨に呼ぶという意味だ。
ジプシーの娘たちはそれも含めて生業とする。大公に召されたとなれば名誉なことなのだ。
しかし――。
不意にジェレミアの視線を感じた。何故かエルヴィーノを見ていた。
今の会話が聞こえていたのではないかと思い、落ち着かなくなった。聞こえるわけがないのに、どうしようもなく疚しい気持ちが湧いてしまう。
「い、いや。旅続きで疲れているだろう。十分な褒美を取らせてゆっくり休ませてあげるといい」
それを聞くと、ジルドは不思議そうに目を瞬いた。久しぶりなのに変だな、とでも思っていそうな顔である。
ニコレッタへの愛を叫びつつ、それとこれとは別だと思っている。
ニコレッタは美しいが、現段階では会うこともままならないのだから当然だ。ニコレッタが受け入れてくれるのなら、彼女だけを愛するつもりはある。
――いや、あったのだが。
今はニコレッタへの義理立てで断ったのではない。ジェレミアの視線がエルヴィーノの夏夜の熱を冷ました。
冷ましたというのも違うのかもしれない。
もしジェレミアが女で、これほど近くにいたら、ニコレッタへのこだわりは消えてしまうだろう。そちらに火がついてしまう。
ジェレミアが男でよかったのだ。
エルヴィーノの立場に相応しいのは、伯爵になったニコレッタであって、素性のわからない漂流者ではない。
自分にそれを繰り返し言い聞かせるようにして、エルヴィーノは胸元を摩った。




