1♡燃ゆる空ののちに〈上〉
空が火のように赤いから――。
「夕焼けがあんなにも明るい。篝火を焚いたような空だから、明日も晴天ですよ」
初めて乗った船に揺られ、ヴェルディアナは船乗りの言葉に兄の陰でうなずいた。
季節は夏。日中は照りつける太陽が眩しいけれど、風を切って進む船の上は涼しく感じられる。
陽が沈みかけた今となっては、ほんのりと涼しささえ感じるほどだった。
「ディア、綺麗な夕日だな」
兄のクラウディオは、そう言って振り返った。
長くまっすぐな黒髪を背中でゆるく束ね、ヴェルディアナと同じ目線、同じ目の色で微笑みかけてくる。
「ええ、美しすぎて怖いくらいです」
答えたヴェルディアナも、結い上げた黒髪とヘイゼルの目をしていた。
ヴェルディアナは女にしては背が高く、クラウディオは男にしては小柄だった。二人は同じ日に同じ胎から生まれ、男女ではあるけれど瓜二つなのである。
ヴェルディアナがドレスを着ていなければ、多分船乗りたちも二人の区別がつかない。
ただし、容姿こそそっくりだが、双子の性質はまるで違う。区別するつもりがあれば見分けられたはずだが。
ヴェルディアナは人見知りで内向的。
クラウディオは喧嘩っ早いが行動力がある。
双子はフララス王国ドナドーニ侯爵家の者だが、年の離れた長兄がいる。クラウディオは跡取りにはなり得ず、けれど持ち前の活発さで長兄の片腕となって補佐するようになるだろう。
それに対し、ヴェルディアナは政略結婚の道具にしかなれない。
ヴェルディアナも十七歳――適齢期といえる。昨年から縁談が降って湧いている。
しかし、大人しいヴェルディアナは、誰よりも自分を理解して護ってくれる双子の兄と離れたくないのだ。クラウディオと引き離されるのを極端に怯えている。
クラウディオもまた、そんなヴェルディアナのことを心配してくれていた。
今、二人して船に乗っているのもそのせいなのだ。
「な? 来てよかっただろ?」
「私は兄様とご一緒できるのでしたら、どこでもよいのです」
「うん、ディアには僕がついているから。置いて出かけたら、父様がこれ幸いと勝手に嫁にやりそうだし」
ヴェルディアナは身震いした。娘が誰を連れてきても首を横に振るのがわかっている父は、それくらい強引なことをしそうなのだ。
色々と考えたら悲しくなってきた。
「兄様さえいてくださったら、私は多くを望みません。お嫁になんて、行きたくな――」
シクシクと泣く妹を、クラウディオは抱き締めて頭を撫でてくれた。
ヴェルディアナと同じ中性的な顔立ちをからかわれることも多く、それを跳ね除けるために剣の腕を磨いたクラウディオの手には肉刺がある。
「大丈夫だ、お前が嫌がることからは僕が護るから」
――同じ顔をした双子の兄妹が慰め合っているところ、コホンと咳払いが控えめに聞こえた。
「あの、お風邪を召されますので、そろそろ中へお入りください」
兄の従者で友人でもあるジェレミアだ。
昔なじみであること、顔立ちが優しいこと、この二点からヴェルディアナもジェレミアくらいなら怯えずにいられる。
ジェレミアに促され、兄妹は船内へと戻った。
この船旅はどこかへ行く目的ではない。遊覧である。往復三日程度で戻るつもりをしているそうだ。
それというのも、船に乗り慣れないヴェルディアナにはその程度が精一杯だろうという理由だった。
実際、乗り始めの頃は立てもせずに気分も悪くなった。これでも少し慣れた方だろう。
明るい赤光を背に受け、ヴェルディアナは一度だけ夕日を振り返った。
本当に、鮮やかすぎて恐ろしいほどの夕日だと。
――船乗りたちは海をよく知っている。けれども、彼らも全知全能の神ではない。
万に一つも空模様を読み違えないなんてことはないのだ。そして、それがこの時でないとは言いきれなかった。
翌日の船の揺れは、昨日とは比べ物にならない。荒波によって壁に叩きつけられそうになったヴェルディアナをクラウディオが庇ってくれた。
「兄様!」
泣きながらヒシッと抱きつくヴェルディアナをクラウディオも抱き締め返し、そしてささやく。
「ディア、甲板に出よう。ここは危ない」
「え、ええ。でも……」
甲板だって危ないのではないだろうか。クラウディオが船内を危ないと言ったのは、船が転覆した場合逃げ場がないから――それを考えてゾッとした。
兄妹が甲板へ出ると、ジェレミアも現れた。
叩きつける雨粒と風によって皆がひどい有様である。季節柄、寒さを感じないのが唯一の救いか。
ヴェルディアナのドレスは鎧のように重たかった。
「クラウディオ様、ヴェルディアナ様、こちらに小舟がございますが――」
「この嵐から小舟で逃げるのは無理だ」
ジェレミアもクラウディオから冷静な意見が来るのを最初からわかっていた。我らには逃げ場がないのだと。
ヴェルディアナは避難用の小さな舟を見遣ったが、五人は乗れないなと思った。
この時、畳んでいた帆が強風によってバサッと開いた。慌てて畳んだのだろう。ロープの結び方が甘かったのだ。
船乗りたちから罵声が飛び交うが、嵐の中ではよく聞き取れない。白い帆が中途半端に広がり、風と雨とに嬲られて船はさらに大きく揺れた。
――もう、駄目だ。
ヴェルディアナは両手を組むと雨の中で祈った。
――父様、母様、先立つ不孝をお許しください、と。
それでも、傍らにクラウディオがいてくれる。
生まれた時も同じ二人だ。死ぬ時も同じなのだ。
それだけが唯一の慰めである。ヴェルディアナは、クラウディオがいれば何も怖くない。
たとえそれが死であっても。
■
しかし、現実というのは無情なもので、それだけは絶対に嫌だと思ったことが起こる。
大波に呑まれて転覆した船から、甲板にいた全員が投げ出された。
もちろんヴェルディアナは泳げない。それに、重たいドレスを身にまとっている。誰よりも先に溺れ死ぬ運命であった。
そのはずが、ヴェルディアナが海に投げ出された時、ヴェルディアナを抱え込んだ逞しい腕を感じた。海の中でもその腕はヴェルディアナを護り、沈むのを防いでくれた。
「さあ、この舟につかまってください!」
この声がかかるまで、ヴェルディアナは助けてくれたのはクラウディオだとばかり思っていた。
言われた通りにつかまり、ゲホゲホとむせていると、ヴェルディアナを引き上げてくれたジェレミオは、小舟にヴェルディアナの上半身が乗るところまで押し上げてくれた。
それでも、雨も風もやまない。周りは暗くてろくに見えなかった。
「ジェ、ジェレミア……」
ありがとうとまず言わなくてはならないけれど、それよりも何よりも、クラウディオはどうなったのだと問いたかった。
いないのだ。見渡す限りでは何も見えない。
渾身の力を込めてどうにか小舟に乗り込むと、ジェレミアは船べりに手を添えたままほっとしたように微笑んだ。
今度はジェレミアを舟に乗せようと、ヴェルディアナに彼を引っ張り上げるような腕力はないくせに手を伸ばした。
けれど、波がそれを拒むように高くうねり、二人を引き裂いた。
ジェレミアはヴェルディアナを舟に乗せるために力を使い果たしてしまったのではないだろうか。容易く波にさらわれてしまった。
「い、いや! ジェレミア! 兄様っ!!」
泣き叫んで手を伸ばしても嵐は容赦なかった。
荒れ狂う海で、この小さな舟が転覆せず波に乗ってヴェルディアナを運んだことは奇跡であった。
奇跡というのは、二度も三度も起こることではない。
それならば、クラウディオたちはやはり海の藻屑となり果てたのだ。