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黄泉路

作者: 仁部中つぎ

 大切なものがいくつもあるというのは、なんだか浮気をしているときのような後ろめたさに襲われる。浮気などしたことがないから、ニュースを見たイメージでしかないけれども。

 修はたまたまその日、定時前に仕事を片付けることが出来た。気まぐれに上がった屋上から見えた景色が、あの日の夕焼けに似ていた。だから、もっと近くで見たいと思って駆け下りたのだ。決して、妻を置いて死のうとしたわけではない。



 ぼんやりした意識を、花の香りに奪われた。電車の中で鼻をつんざく香水とは違う、柔らかな自然の香り。その実、人が整えたような美しさを持っていた。まるで、意識する間もないまま脳内に留まるような。

 そういえば、詳しくは思い出せないが、昨日の帰り道に似たような香りのする花の前を通った気がする。香里かおりが教えてくれた名前は確か、金木犀、だったか。

 その香里がまぶたの裏にいる。誰にも依頼していないはずの、絵画となって。

 辻本修つじもとしゅうは目を開けた。しかし、今まで見えていたその絵は消えない。何度か瞬きをしても、視界は薄明るいままだった。これは、夢ではない。

 白熱灯の下にあるような、肌に馴染むオレンジ色。絵の中で、見覚えのある顔がほほ笑んでいた。そうだ、今朝も送り出してくれーー。

ーー香里!

 修は飛び起き、叫んだ。しかし、確かに出したはずのその声はするりと自らの喉に吸い込まれていき、音へと変わることはなかった。代わりに、ぎしり、と古めかしいスプリングがきしむだけだ。

「ようこそ、我が美術館へ」

 体が強張るのがわかった。

 声が出ないことがここまで怖いものだと初めて知った。間違いなくそばにたたずんでいる人間に「誰だ」と聞くこともできず、ただおろおろと手をさ迷わせていると、頭の上で声がした。同時に、目元が急速に冷えていくのを感じる。

「ああ、いかんいかん。温めていたのに、冷えてしまうぞ」

 香里の絵を見せているのは、この声の主なのだろうか。考えているうちに、目元に温かい何かが乗った。

 修は目に手をやった。ちょうど人肌に温められたタオル生地が、切りそろえた爪に擦れた。繊維生地や自分の顔を確かめるように、指を動かす。

「大丈夫かね」

 修は頷いた。痛みはない。

 タオルの上から目元を何度も触っていると、指先に何かがまとわりついてきた。老人の、指だ。頭の上の、今声がしたのと同じ方向から、ならばこれで良し、というつぶやきが聞こえた。

 香里の絵は、変わらず修を見て微笑んでいる。修の一番好きな、料理をしながら「準備して」と振り返るときのおどけた顔だった。

 今日の夕飯は何だろう。こんなところで寝ている場合ではないが、帰ろうにも体が動かなかった。

「では、唐突だが」

 老人は目元を覆うように、そっとまぶた全体を押さえてきた。修の目は開かず、老人を見つめ返すことはかなわなかった。

 香里の絵画以外を見ることを阻まれているのかもしれない。

「なぜ、願ったのかね」

 質問の矛先はきっと、屋上から飛び降りた瞬間のことを指しているのだろう。修はもっとそばで景色を見たかったから、という理由を老人に伝えようとし、最初の「もっと」まで口を動かした。そして、声が出ないことを思い出した。

「ふむ、うまく喋れんということか。では、質問を変えよう。ああ、君は思うだけでいい。わしにはそれで、十分伝わる」

 修はタオルが動かないように頷いた。

 まぶたに置かれた指はまだ動かない。もう少し強く押されれば、まぶたの厚みまで測られてしまいそうだった。

「どうして君は、この景色の永遠を願ったのかね」

 人物画を景色だというのは、彼のポリシーなのだろうか。思っているうちに、今まで見続けていたはずの香里の絵が変わっていた。

 それは、確かに修の記憶に焼き付いた景色だった。香里とかつて一緒に見に行った、近くの川原での夕焼けである。

 とん、とん。話のリズムに合わせて指も動く。

 気づけば、修は指を押しのけていた。香里が今、家にいるという事実が確認できないのが、ひどくもどかしかった。もしかすると、修と同じようにこんな夢、もしくは現実を見ているのかもしれないと思うのが苦しかった。当たり前に屋上から飛び降りてしまった数瞬前の行動を、取り消したかった。

 君の不安をなくしたいと思って、僕は君に永遠を誓ったのにーー。

 香里を探してほしい。彼女が無事だと教えてほしい。すがるように空で指を探し、老人の指を力の限り強く握った。

「香里は……?」

「もちろん無事さ。安心したまえ、今頃夕食の支度をしている。恐らくはハンバーグだろうが、そんなことよりも、私は君がかなり重症だということを気にしてほしいのだよ」

「じゃあこの夕焼けは……」

「君の願いではないのかね?わしにはそう聞こえたが」

 声が出るようになったことにも気づかなかった。

 思い出してしまった。かつて修は、香里との結婚以前に永遠を願ったことがあった。幼い頃学校の帰りに見た、坂の上での景色だった。

 その日は図書室に居残りすぎてしまい、最終下校時刻まで本を読んでいた。チャイムの音で我に返った修は、急いで家に帰ろうと走っていた。

 坂のてっぺんまで駆け上がった時、ちょうど日が落ちていく瞬間を見た。眩しい円が地平線に沈んでいくわずかな時間に圧倒された。

 そこで修は願った。この景色が永遠に続けばいいのに、と。

 その二十年後、香里と見た景色についてどう思ったか、今でも鮮明に覚えている。

 川原で見た夕焼けは、彼女の横顔を照らしていた。血色の良い肌が橙色に染まり、繋いだ手は温かかった。修がきれいだね、と手を握りなおすと、香里もまたきれいだね、と握り返してくれた。それだけで、世界中に祝福されているように感じた。

 しかし今、絵画が現れるまで、修はその景色を忘れていた。夕焼けと言って思い返すのは子ども時代の眩しかった瞬間だけだった。

 修は香里に無性に謝りたくなった。 

 思い返せば、定時前、デスクから見える夕日を見て思い出すのは、誰よりも、何よりもまずあの日の夕焼けだった。香里との思い出も、大切に思っていたはずなのに。

「夕焼けが好きなようだ。忘れないでいたい、だから永遠を願ったのだろう?」

 その通りだった。

 あの日の夕焼けがずっと続けばいいと本気で思った。目を覆うほど眩しくてもずっと見ていたくなる橙色に、心を奪われたのだ。

 小学校の卒業文集に書いた「宝物」の欄には坂から見た夕焼け、と書いたのを覚えている。子どもの頃は、欲しいものも宝物も一つだけだったのだ。

 それが大人になって、宝物と呼べるものや存在が増えていった。その中には香里も含まれていたが、どれが一番大切かと聞かれると答えられなかった。

 大切に思ったのは、あの日の夕焼けが先だ。香里と見る夕焼けは美しいが、修はその景色に自らの顔を照らす夕日を重ねていた。

 本当に大切なものを判断する基準を、修は見失っていた。

「…………なるほど、境界を定めたかったというわけか。ふむ、いい答えかもしれないな」

 まぶたの指が離れていく。じんわりとこもった熱に身震いする。あの夕焼けが薄く消えていく。

 目の前は、それよりもいくらか暗い寝室だった。天井に照明の類は付いていなかった。窓も見当たらず、締め切られた空気の中にいると、時間の流れを忘れてしまいそうだ。

「せっかく来てもらったが、もう時間だ。ごきげんよう、永遠とは無に等しいものだ。また来てくれるのは構わないが、君も、もう少し生きているといい」

 老人の声が遠くなっていく。

 体を起こした正面には、惜しみない橙色が顔を照らし出すような、活力あふれる夕日の絵画が飾られていた。隣にはもう一つ絵画が置かれていた。一休みしながらひき肉をこねる、妻の姿がそこには描かれていた。

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