Cadere ~ある少女の話~
私は罪人。
罪人とは、罪を犯した人のことを指すらしい。看守がそう言っていた。
私が何の罪を犯したのか私は知らない。物心ついた時既に牢の中だったのだから知る由もない。
よって当然、獄中以外の景色を私は目にしたことがない。私を取り巻く環境も風景も変わることはないのだ。錆び付いた鉄格子と薄汚れたレンガ、堅いベッド。鉄格子の向こうには同じ造りの牢獄が整然と並んでいる。
しかしそんな中、鉄格子が嵌められた窓だけは私に違う景色を見せてくれた。鉄格子の間から僅かに見える空は、いつも眩しかった。
それをぼんやり眺めて時折考える。決して届かぬあの空の下にはどんな情景が広がっているのだろうか、と。
この世に生まれ落ちて1時間とせず、冷たく暗い牢獄に運ばれてきた。目も開いていない赤子が上質なゆりかごに包まれて、鉄格子と壁に囲まれた空間にたった一人。看守たちはゆりかごを運んできたメイドに事情を問うたが、メイドは黙って首を振るばかりで答えようとはしなかった。
その日から、ほとんど人の出入りのなかったこの牢獄にメイドがやって来るようになった。1日6回、メイドは鉄格子の中に入り私にミルクを与えて、履物を取り替えるようになった。私を牢獄に入れた人間は、どうやら私を殺すつもりはないらしかった。
けれどメイドが訪れた際に私が起きていなければ、履物を替えるだけでミルクは与えなかったという。
空腹で目覚めた私が泣き叫ぶのは誰の目から見ても当然であっただろう。
母に抱かれることもなく、父にあやしてもらうこともない私は、ゆりかごの中で延々と泣いていたのだという。幾日も幾日も、牢獄中に泣き声が響き渡っていた。寝るか、泣くか。私がすることといえばこの2つ。喉がつぶれ、嗄れ声になっても泣き止む兆しの見えない赤ん坊の私を、看守たちは憐れんだ。
メイドは何か言い含められていたのだろう。私を見つめる瞳に憐憫の色があったものの、特に変わった行動を起こすこともなく淡々と仕事をこなす。鉄格子の中に入り、直接私に触れることができるのはこのメイドその人だけであったが、話しかけることも笑顔を見せることもなかった。
けれど、私がミルクを大人しく飲んでいる時のみ、彼女は口を開いた。
何も読めない表情で彼女は自らの腕に抱いた私を見下ろし、決まってこう言い聞かせた。
「看守に迷惑をかけてはいけませんよ。あなたは罪人なのですから」
誰に返事を求めるわけでもないその言葉が、幼い私の心に重く沈む。
時が経つと、看守たちは我が子のように私の行動を見守るようになっていた。
初めての寝返りを目撃した看守は我が身の如く喜び、座った瞬間を目撃した看守は思わず声を上げ、立ち上がった際には仲間の肩を叩き合い、壁を支えに歩こうとすれば皆で無言のエールを送り、手を前にし何の支えもなく看守たちに向かって歩いてきたのを見た時は、涙を浮かべた者さえいた。
そしてある時、私は目の前にいる看守をおもむろに指差しこう言ったという。
「かんちゅ」
このころになるともうメイドは頻繁にはやってこなくなり、1日に3度食事が運ばれてくるだけになっていた。
メイドがいない時間、看守たちは私に話しかけるようになった。私に言葉を教え、数を教え、金勘定を教え、外の世界の常識を教えてくれた。
今思えば、看守たちは私の親代わりだった。
以上が、看守たちが語った私と、私の記憶を合わせた私のこれまでだ。
時は流れ、私は今日で12歳を迎える。
私にとって今日が大きな転機となることは間違いない。
この暗く冷たい世界を抜け出し、外の世界へと旅立つのだ。
「今までありがとう」
お世話になった看守たちに頭を下げる。
これまでは鉄格子越しでしか接したことがなかったが、今、私たちの間を妨げるものは何もない。
心なしか嬉しそうな看守たちに、私は笑みを向ける。
しばらくそうしていたが、鉄の軋む音が響きそれまでの静寂が破られる。
見ると、私が入っていた牢獄の向かいにいる大男が鉄格子に寄りかかっていた。
「嬢ちゃん、俺も出してくれよ」
こちらに背を向け肩越しに振り返った大男が言う。
彼は私を「嬢ちゃん」と呼び、私は彼を「罪人」と呼ぶ。
看守が私の親代わりだとするならば、罪人は私の兄代わりだった。
「罪人、それはできないの。ごめんなさいね」
眉を下げてそう言うと、罪人はうなった。
「約束が違うじゃねぇか」
罪人は私にいろいろなことを教えてくれた。
他人との円滑な接し方や交渉術、体力のつけ方に体術、身体の構造とその弱点、武器の種類や扱い方。
「感謝してるわ。本当に」
「そんなものはどうでもいい。嬢ちゃんの足元にある鍵でここを開けてくれ」
罪人は私に教える対価として、私が外に出るとき一緒に連れ出すことを要求した。
私はそれを承諾し、罪人がこの牢に入った5年前からずっと、看守が教えてくれない世の中のことを教わってきた。
でも、それがなんだというのだろう。
「これは看守のものよ。勝手に触ってはいけないの」
他人のものを許可なく触るのはいけないと看守は言っていた。
看守の迷惑になるようなことをしてはいけないのである。
すると罪人は面倒そうに口を開いた。
「だがそいつらはもう死んでる。嬢ちゃんが殺したんだ」
覚えてるだろ?と罪人の目が訴える。
その目を見返し、目線を下げた。
「そうね。私が殺したわ」
見つめた先の冷たい床には3人の看守が転がっており、その周りに血だまりができている。
ひどく大きな血だまりは、混ざり合って誰のものともわからない。
「だったらその鍵は今誰のものでもない。嬢ちゃんが使ってもいいんだ」
「そうかしら」
「ああ、そうとも」
どうしようか。持ち主が死んだ後、その持ち物が誰のものであるのかは看守に教わらなかった。
少し悩んでから、私は鍵を拾い上げて思い付きを口にする。
「ねえ罪人。名前を訊いてなかったわ」
私の言葉に、罪人は鼻で笑った。
「なんだ突然。今まで訊かなかったのは嬢ちゃんだろう」
「知りたくなったの。教えてくれたら鍵を開けるわ」
鍵を目の前に掲げ、微笑む。
交換条件にすれば、看守の鍵を仕方なく触ったことになるはずだ。
「今度こそ本当か?」
「ええ、私嘘はつかないわ」
嘘をつくのは悪い子だと看守は言っていた。
たっぷり数秒見つめ合ったのち、罪人は口を開く。
「カディラだ」
私は鍵を床に置いて、看守の腰に下がった銃を掴んだ。
「そう。素敵な名前ね」
そして銃口をカディラに向ける。さっきと同じように、ゆっくりと。
苦しまずに死ねるよう、的確に狙いを定めて。
「ま、待ってくれ。嘘はつかねえってさっき言ったじゃねぇか」
「ええ、言ったわ」
「それに、勝手にものに触っちゃいけねぇって嬢ちゃんが言ったんだろう。いいのか、そんなことして」
「いいのよ。だって看守に許可をもらっているもの」
30分ほど前、まだ看守が生きている時に私は聞いた。
『ねえ、その腰につけてるの何?』
『これかい?これは銃っていうんだ』
『どんな形してるの?どういうもの?』
『見るか?』
『ええ、ぜひ!』
『おっと、触るのはダメだ』
『なんで?』
『…君は罪人だから』
『じゃあもし私がここから出られたら触ってもいい?』
『ああ…出られたらな!』
看守は私がこの鉄格子の向こう側へ出ることなどないと思っていたから、そう言ったのだろう。
しかし私は今牢の外に立っている。つまり許可が得られたと同義なのである。
「カディラ」
呼びかけてもカディラは顔面蒼白のまま身動き1つしない。
「今まで、ありがとう」
銃の構え方も撃ち方も、カディラから教わった。
カディラがいなければ私が外に出ることは叶わなかっただろう。
だから、心からの感謝を込めて―――私は引き金を引いた。
カディラが動かなくなったのを確認してから、床に置いた鍵を拾う。
鉄格子の重たい扉の開く音が、死臭漂う空間に響き消えてゆく。
「鍵は開けたわよ。ほら、嘘つかないって言ったでしょう?」
可憐に笑う彼女は、それから間もなく銃を回収し弾丸を込め、その場にある他の弾丸をポケットにしまうと大きく伸びをした。
「なんだか疲れたわ。でも、私これで外の世界に行けるのね!」
彼女は看守にもカディラにも感謝している。知識を与え、外に出る機会をくれた。
だが一度外に出てしまえば、彼らはもう邪魔でしかない。いつ彼女に不利なことをしでかすかわからない。それゆえ排除するしかなかったのだ。
彼らと彼女の間にはたくさんの約束があった。けれど死んでしまってはその約束を守れないのだから仕方がない。
約束を忘れてしまったわけでも放棄したわけでもない。約束がなかったことになったのである。
こうして自由の身となった彼女は、暗く冷たい牢獄から外の世界へと歩き出す。
彼女は罪人。生まれついての罪人は、これからカディラと名乗り日の当たる世界で生きていく。