Act.9 楓とジェリコの邂逅
英士に並び立つと楓は、おはよう英士君と声をかけた。
「おはようございます、先輩」
楓の両手首に巻いた包帯が目にとまる。また誰かの傷を引き取ったのだと英士にはすぐにわかった。
けれど英士はそのことには触れない。楓は他人の痛みに敏感だった。そのため英士の気持ちを汲んで自分を責めるという悪循環に陥る。彼女には傷付かないでほしい。それが無理な相談だということも英士にはわかっていた。だから楓に痛み分けの聖者というアルターポーテンスが発現したのだ。
「どうかしたの?」
楓の問いに我に返った英士は身じろぐ。
「いえ、何でも、あり……」
次の言葉をじっと待つ純朴な楓の眼から英士は視線を外す。楓より背の低い英士の眼についたのは彼女の大きな胸の膨らみだった。いよいよ英士の頬は紅潮する。
「ません!」
英士君は面白いね、と楓はクスクス笑った。
明日もこの笑顔が見たいと英士は思った。やっぱり強くなりたい。昨日はとりつく島がなかったけれど、もう一度、吸血鬼の女性に指南をお願いしようと英士は思った。問題は彼女のことを英士は何も知らない。
ギャアギャアというカラスの鳴き声がした。カァという呼び掛けるような良く通る声ではなく、喉を痛めるような濁った声音が空で交わされる。
「昨日から鳥が多くないですか?」
楓がネクサスフォンを取り出して操作を始める。
「B-Rain中で起きてることみたい。ほら、『鳥柱』なんて動画がネットに上がってる」
マンションのベランダから取られたものらしい。階下の交差点で追突事故が起きており、その上を鳥が飛び交う。局所的に鳥が積み重なって飛んでいる様は確かに蚊柱に似ていた。
「通り魔事件もあったし、カラスがしきりに鳴くと、なんだか何か良くないことが起こるんじゃないかって気になるよね」
「考えすぎですよ」
本当は英士も楓と同じことを考えていた。
何かこの暗い雰囲気を打破しなければと考えたとき、英士はエドニーガーデンのペアチケットの存在を思い出す。
今しかないんじゃなかろうか。
安易な考えだったが、英士はそれにすがった。ペアチケットを楓に差し出す。迷惑だと思われたらどうしようとも思った。けれどもうあとには退けない。
「楓先輩、俺とエドニーガーデンに遊びに行きませんか!」
楓はきょとんとしている。
++++++++++
痣野はネット上に上がっている動画や画像から場所を推測し、『鳥柱』が現れた位置を可能な限りピックアップしていく。
カンタービレから来た情報だとB-Rain中で目撃された鳥柱は吸血鬼狩りの一人、ロビンソンの能力、群鳥連隊によるものだという。
鳥を使ってジェリコを探しているんだ。
だが、鳥柱が起きた地点が複数箇所あるのが気がかりだった。ジェリコの居場所を示すなら一ヶ所で良い筈。ジェリコの能力、変身願望の抽出及び濃縮の効果を加味すると撹乱のため何人かをジェリコの姿に変身させて放った可能性も考えられる。
しかし、吸血鬼狩りの眼を掻い潜るために放った偽物が同じ場所に留まり続けることがあるだろうか。まず動き回るものに能力をかける。そして鳥はそれを追跡し、柱ではなく列をなす筈だ。
縦横無尽に飛び回るのではなく、いくつかの場所に分散していることから、ジェリコを探す目処が立ったものと考えられる。
「ジェリコが現れるであろう候補地の選定、か。ジェリコが犯行に至る条件がある?」
個人ブログで、探していた猫が死骸で見つかったという記述が目に留まった。広告塔が写っている鳥柱の画像と共に『もうあんなに集まってきてる。カラスに食べられる前に見つけてあげられてよかった』とあり、文章は結ばれている。推測される場所は大通りの交差点。
痣野はトバイアスと戦った公園のことを思い出した。あのとき路上と公園の二ヶ所から腐敗臭がした。思い付きに確証を得るべく、痣野は公園に赴く。
通り魔事件の被害者は公園の並木のわきに倒れているのを発見された。土を掘り返すとそこに猫の死骸があった。
女子生徒は轢かれた猫を埋葬したところをジェリコに襲われたのだ。
「猫の死骸がある交差点、それがジェリコの狩りのジンクスか」
痣野は奥歯を噛む。猫がきちんと埋まっていたことを考えれば、女子生徒が埋め終えたところを見計らって襲ったことは想像に難くない。猫に手を合わせる少女の後ろから嘲り笑うジェリコの表情がありありと思い浮かぶ。
「相変わらず悪趣味な婆さんだ」
今どこにいるかもわからないジェリコに悪態をついた。
++++++++++
教室は二回目の吸血事件の話題で盛り上がっている。恐れではなく、好奇が勝っているようだ。
しかし楓はそれどころではない。エドニーガーデンのチケットを両手でピンと張るように持つ。異性と二人きりで遊園地に行く、それはもしかして一般的にはデートというのでは。彼女は安直な自分の発想を恥じて悶えた。
ネクサスフォンのバイブレーションが起動する。
表示された電話番号を見て楓はぎょっとした。自宅のものだった。他所から自宅にかかってきた着信がネクサスフォンに転送されてきたわけではない。誰もいない筈の家からかかってきた電話だった。良い想像はできなかった。
怯えながら楓は通話ボタンを押した。
『あたしの大事な大事な猫を盗ったのはあんただね、鷺ノ宮楓』
老婆のしゃがれ声に咎められて楓は動揺する。
猫を盗った?
もしかして猫とは昨日保護した猫のことを言っているのだろうか。楓は鳥肌が立った。
猫の本当の持ち主である可能性は否めない。しかし、もしかしたらこの人物は猫の脚を針金で縛り上げた犯人でもあるかもしれない。
どちらにせよ、猫を取り返すために楓の家に無断で押し入った挙げ句、わざわざ電話までかけてきているということになる。異常だと思った。すぐに電話を切り、警察にかけようと考えた矢先、それを読み取ったように老婆は言い切った。
『誰かに知らせたら猫を殺す。次こそ殺して晒す』
「辞めてください!」
自分でも驚くくらい大きな声が出た。周りの視線が楓に集まる。彼女は教室を出て人気のないところへ向かう。
『なら変な真似はしないことだよ。生殺与奪はあたしが握ってるんだからね。賢く生きなきゃダメだ』
「あなたは誰なんですか」
『あたしかい?』
老婆は、くくくと上擦るように笑った。
『あたしは、ジェリコ・サンダーソニア。嫉妬深い吸血鬼さ』