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Act8. 押し花とアヤメ

 《山姥》とあだ名された『彼女』は交差点に立つ。


 あまり血の臭いがしないね。


 いぶかしみながら周囲を窺う。気が付いた誰かが保護したのだろうか。また話題になると厄介だと眉をひそめた。


 『彼女』には狩りの前に供物を捧げる習慣がある。場所は交差点。それも決まって猫の死体を目の当たりにした十字路を狩り場に定める。そのために時には猫の四肢を針金で縛り上げ、あらかじめ設置しておくことさえあった。それが『彼女』の食前の儀式(ルーティーン)だった。


 しかし現状、昨日の夕方に放置しておいた猫が影も形もない。死体を片付けられたわけではなさそうだ。


 歩道に砂をかぶり黒ずんだ血痕を見つけた。滴り落ちてできた斑点の大きさを考えると、ある程度高い位置から血液はこぼれたものだと推測できた。やはり人間(ひと)の手によって運ばれている。


 僅かに残る血の臭いと痕跡を注意深く辿ると民家に続いていた。『彼女』は躊躇いなく庭先に這入る。ガラスに顔を近付け、中を覗き見ると猫が闊歩しているのが見えた。


 いた!


 声を挙げて『彼女』は驚喜した。『彼女』に気付いた猫が走り去る。昨日、用意した猫に間違いない。けれど脚の怪我はどうした。今の俊敏な動きも傷を庇うような仕草は一才見えなかった。


 ガラスが木枠の中で揺れる音がした。玄関の引き戸が開いて、両手首に包帯を巻いた少女が出てくる。


 ああ、この(アマ)能力(アルターポーテンス)か。


 納得した『彼女』は醜悪な笑みを浮かべた。


++++++++++


 猫のことを気にかけながら楓は玄関の鍵を締める。曇り空を見上げて、鳥がたくさんいるなと思った。庭先から土鳩が飛び立ち、空の交差点に加わる。


 痛み分けの聖者(アタッチメント)で猫から引き取った手足の擦り傷がズキズキと痛む。猫の四肢に巻き付いた針金のことを思い出すと気分が重くなった。


 誰がどんな理由で……、ううん、例え理由があってもあんなことして良いわけがない。


 受容も許容も出来そうになかった。理解ができないことは、それだけで怖い。家に押し入って猫に危害を加えたりはしないかな、と不安だった。


 部活やりたいな、と楓は思った。

けれど家を長く空けるのも気が気でない。悶々としながら坂を下る。


 見覚えのある背中が前を歩いていた。小さく揺れる御守りを見て楓は眼を細める。中学のとき、彼女が作ったものだった。


++++++++++


 あ、またあの子だ。


 中学の頃、グラウンドの見通せる渡り廊下を歩いていると英士が独りで自主練習をしているのをよく見かけた。ジャージの色を見て彼が一年生だとわかる。


 すごいな、今日も頑張ってる。


 夕暮れ時のトラックを英士は走り続ける。学校生活で見慣れた校庭を周回し続けるのは辛くないのだろうかと楓は思っていた。


 秋に差し掛かった頃にようやく『見えているもの』と『見据えているもの』は違うのだと気付いた。見えているものはいつもと変わらない景色かも知れない。けれど英士が見据えているのは昨日の自分より少しでも早く走ることだ。


 彼が毎日ひた向きに走って変えたいのは彼自身なんだ。


 頑張っている英士に『頑張れ』というのは何か違う気がして、それに代わる言葉を探しながら心の中で応援し続けた。


 英士との距離は、校舎と校庭から縮まることはなかった。


 二年生になっても英士がやることは変わらない。楓もまた、同じだった。受験を控えていた彼女にとって、英士の姿は背中を押してくれるものでさえあった。


 県大会出場が決まった陸上部の壮行会が開かれ、壇上に登った中に英士の姿があった。彼の一年間の努力を知っている楓は自分のことのように嬉しかった。ずっと努力していたんだから、きっと上手くいく。そう思えた。


 楓が初めて英士に話しかけたのは県大会の前日だった。グラウンドの端で英士がしゃがんで立ち上がらないのを見たことがきっかけだった。

 上履きのままグラウンドに降り、駆け寄った。英士は足首を押さえて脂汗をかいている。


 脚をひねったらしく腫れ上がっていた。


 立てる? という楓の問いかけに英士は大丈夫ですからと繰り返した。自力で立ち上がろうと試みるが彼は立てない。痛みに屈するたびに、英士の焦燥と失望が読み取れた。崩れ落ちて誰も立ち上がれなかった。


 あんなに一生懸命に積み重ねたのに。


 たった一度の怪我で英士の一年が水泡に帰すのを楓は納得出来なかった。ひた向きに努力した人間がスタートラインにさえ立てないなんてあんまりだと思った。例え結果に結び付かなくても、何かしら報われて良い筈だ。


 だから楓は、怪我を引き取ることにした。


アルターポーテンス、痛み分けの聖者(アタッチメント)


 突如脚の痛みが引いたことで英士は困惑する。それから楓を見た。口角を無理矢理吊り上げて彼女は笑う。誤魔化し切れていない。英士は何か代償を伴う能力を彼女が使ったのだと察した。


 捻挫がどう処理されたか、英士にはわからない。ただの治癒能力ではないらしい。それを解除すれば、英士の怪我が元通りになるのかさえ不明だ。けれど、楓が何かしら背負う理由はない。


「やめてください。俺の代わりになんてならないでください!」

「良いの」

「良くないです!」


 見ず知らずの、という言葉を楓は遮る。


「見ず知らずじゃないよ。頑張ってるの、時々見てたから」


 英士は少し怖かった。何のためらいもなく自分を犠牲にできる人間を初めて見たから。


「明日は大事な日だから」


 それでも英士は、天秤にかけてしまった。


「あなたを見てると私も頑張らなきゃって思えたの。ずっと勇気をもらってたんだと思う。だからあなたがここで挫折すると、やっぱり努力は人を裏切るんだって気になっちゃうかも知れない。あなたのためじゃなく、私が自分のためにやったことだから」


アルターポーテンス、深層心理鉱脈(ディープブルー)


 真偽を判断できるようプログラムする。これでディープブルーは楓の心理を感知して真実なら四角、偽りなら三角に変形する。


 何か楓に裏があるのではといぶかしんでいるのではなく、隠されることが嫌だった。


「俺の捻挫はどこに行ったんですか?」

「私が引き取ったの」


 四角。


「痛い、ですよね」

「ううん、思ったより痛くないよ」


 三角。


「肩を貸します」

「ありがとう」


 保健室に向かい歩き出す。楓を抱え上げる力は英士にはない。情けなくて仕方なかった。


 楓を庇って歩きながら、英士は考える。


 誰かを犠牲にして県大会に出ても自分が納得できるとは思えなかった。ましてや彼女はチームメイトでも競争相手でもない。それまで彼女とは話したことさえなかった。


 けれど一年間の努力も否定できずにいた。思うような結果が出なくてもそれは仕方がないことだ。だが大会に出れないことは、ただ無下にすることに他ならなかった。


 落としどころを英士は探す。他の誰でもない自分を騙すための作業だった。


 色々な声が内側から聞こえてくる。自分の気質、うしろめたさ、逼迫した状況、ぐちゃぐちゃの感情、可能性を次から次に提示する思考と少しの甘言。それらが答えを英士から遠ざけた。保健室に行き着くまでに何かしら案を出さないといけない。


 ベストはどこだ。


 楓のことをこのままにするという選択肢はない。さっきまでは自分の痛みだったから脚の辛さは知っている。


 けれど間抜けな自分を呪いながら、次があると潔く降りられるほど英士は成熟した人間ではない。英雄には程遠い、どこにでもいる普通の中学生だった。


「その痛みを俺に返してもらうことはできますか」


 楓はわずかに考えた。


「できるよ」


 四角。


「県大会が終わったら、捻挫を俺に返してください。それまで預かっていただけますか」

「うん。大会の、良い報せを待ってるね」


 楓は『頑張れ』に代わる言葉をそのとき見つけた。


 大会が終わってから英士は捻挫を受け取り、引き換えに貯金を下ろして買った高級な菓子折りを楓に手渡した。丁重に。楓は若干引いた。


 それから英士は廊下で楓の姿が見につくことが多くなった。少しずつ話すようになると、自分が楓に惹かれていくことに気付いた。


 その後、楓は師水館学園に進学することになった。


「来年は英士君の受験だね」

「そうですね」


 深鏡神(みかがみ)の妙見院学園、逢勾宮(おうまがみや)の清上明陰学園、護剣寺(ごけんじ)の師水館学園、女子校の清虚嶺蘭女学園は除いても能力者は基本的にどこかに入学することになる。英士は一般家庭なので三家の傘下ではないから先祖の(しがらみ)もコネもない。


 できれば師水館学園に入りたいと思った。


「それでね、これ作ったの」


 楓が取り出したのは、手縫いの御守りだった。


 ありがとうございます、と受け取る。肌触りの良い布地だった。気になるのは、妙に薄い。少し力を加えると折れるが、すぐに弾性が生じて元に戻る。


「これ中身はなんですか?」

「開けてみて」


 中に入っていたのは形の良いアヤメの押し花を透明なフィルムで閉じたものだった。


「アヤメの花言葉は『良い便り』。『良い報せが聞けますように』って」


 紫の花弁が光に透ける。

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