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Act.7 境界線と挫折

 痣野は残り火がないかを確認し、「じゃっ」と片手をひらつかせて颯爽と立ち去る。英士は荷物を拾いに戻り、それから痣野のことを追いかけた。


 公園を出て周囲を見渡して痣野の姿を探す。


 もうあんなところに!


 息を切らせてようやく追い付いた英士を痣野は一瞥した。そのまま気にかける様子はなく、彼女は歩調を緩めない。


「待ってください!」

「何故?」

「お願いがあります。俺に戦い方を教えて欲しいんです」

「私忙しいの。他を当たって。師水館学園のOBでも紹介してもらえば良いでしょ」


 女性が使うには渋い革巻きのシガレットケースを懐から取り出し、タバコを一本くわえる。喋らない理由を作りたかった。ケースに替えてライターを探してポケットを漁る。


「あなたに教わりたいんです」

「何で?」

「俺には地面に染み込ませた血を地雷に使うような、そういうズルさはありません。だから、あなたから学んで取り入れたいんです」


 真面目か。


 オイルライターを取り出し、せせら笑う。それからタバコに火を点した。一口飲んでから、紫煙を吐き出す。無視するつもりだったが、英士がいやに真剣で邪険には扱えない。


「ズルい奴なんてその辺にごまんといるでしょ。選り取りみどりじゃない」


 回避行動を止めた痣野の勇姿を思い出す。迫り来るジャングルジムの槍に立ち向かう小さな背中。地面を踏み締め、一歩も退かないという強い覚悟を感じさせられた。


「ただズルいだけの人間なら、俺は教えを乞うようなことはしません」


 私に何を期待してんだか。


 痣野は英士の荷物を何気無く覗き込む。食材と新品のフライ返しがエコバッグに入ってる。フライ返しを見て選んできたって感じか。エコバッグを持ち歩いてるのは普段から買う習慣を身に付けている? そう、彼女は当たりを付けた。


 戦いと縁の無さそうな子なのに、と痣野は英士の荷物から視線を外す。


「何で強くなりたいのさ」


 鞄に揺れる楓の手製の御守りを英士は見た。いつ切れるかわからない、心許ない紐でぶら下がっている。


他者(ひと)を守れる人間になりたいからです」


 英士の言葉は痣野にとってあまりに軽く思えた。


 守られる人間(がわ)の方が辛いこともある。


 脳裏を(よぎ)ったのは痣野を庇い、血まみれとなったタタラの姿だった。あのときタタラ一人なら逃げられたかも知れない。そう思うと悔やみきれなかった。『すまないなあ。どうしても欲しくなってしまったんだ』。貪欲なあの老人は耳障りな声が甦る。


 同時に己の無力を呪った。後悔は澱のように溜まり、ふと何かの拍子に浮き立つものだ。


 横目で見ると英士の眼は真っ直ぐに痣野を見ていた。遅かれ早かれ人間(ひと)は大小の挫折を重ねる。例外はない。擦れたところがない英士の顔付きは疳に障った。過酷な現実に上限はない。それを知らない者の表情だった。


 痣野はタバコの根元を噛む。いつか必ず、非常な現実に直面する日が来る。挫折する彼の姿を見る覚悟は出来そうになかった。だから彼女は逃げることにした。


 修復したばかりの手首に再び切り傷を入れる。滴る血で地面に境界線を引く。


アルターポーテンス、曼珠沙華(まんじゅしゃげ)


「この線を越えたら、敵と見なす」


 英士は蛇行する赤い点線を眺める。

 隙間が多いにも関わらず如何なる検問より強く拒絶の意思を感じた。踏み越えてほしくない。そういう祈りにも似たものだ、と。


 けれど英士にはここが水分嶺に他ならなかった。今退けば二度と決心が付かなくなるかもしれない。それに痣野が怯えた眼をしていることに気付いてしまった。


 英士はその心許ない横線をただ跨いだ。


 痣野の前に英士が立つ。直後に彼女は英士の腕を取り、力強く引いた。痣野の背中を介して英士の体は宙を舞う。気付いたときには路上に横たわっていた。


「あんたの眼に私がどう見えたかは知らないけど、誰かに何かを指南するような余裕、私にはないの」


 悪いけど、と痣野が言いかけたところで英士は立ち上がった。理不尽な仕打ちに対して憤りの様相を見せるわけでもなく、変わらず英士は真っ直ぐに痣野を見据える。彼女は眼を背けたくなった。


「諦めは悪い質?」

「そんなことはありません。俺だって色んなことを投げ出してきました」


 中学のとき英士は陸上部だった。体育会系の陰湿な人間関係に嫌気が差し、運動部そのものを見限った。


「ただ、今はまだ諦める理由がありません」

「呆れた。私の事情や意見は無視しても構わないってわけ?」

「い、いえ。そういうわけではなくて」

「ねえ、あんた、本当に他人(ひと)を守りたいって思ってる? 私からズルさを獲られたら、どんな人間でも守れると思う?」


 英士が言葉に詰まる。


「私は弟子をとらない。この手も足も出ない現実が、生温いとは言え本当の挫折なの。思い知ると良いわ。どうしようもないことはあるのだと。説得も論破も意味を為さない、聞き分けのない理不尽はありふれているものよ」


 英士にはそれ以上、痣野の背中を追うことはできなかった。

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